的場幸菜4
十二月の桃香の誕生日は初めて一人の夜を過ごした。狭い部屋に引っ越してまだ二ヶ月も過ぎていない。なのに、すでにあの部屋が恋しい。いや、部屋ではなく、あの空間なのだろう。桃香の笑顔や声などの存在そのものが恋しくなってくる。
十一月の桃香の両親の命日の時はあの部屋に帰り、桃香と一緒に眠った。まだ、棚島ではなく俺を選んでくれた事を嬉しく思った。それと同時に、棚島の表情は淋しそうで少し複雑な感情が生まれた。だが、棚島と一緒に暮らしていけば、次第に俺ではなく棚島を頼るようになるだろう。それまでは俺に面倒を見させてもらいたいと思った。だが、だからこそ、桃香の誕生日を棚島に譲る余裕をもてるというもの。まあ、ただの強がりで余裕などないのだけれど。
クリスマスイブも一人でここにいた。なんか今年は淋しい。去年は笹原と一緒に過ごすのが面倒くさいと思っていたのに、今年は一人で過ごす事が淋しい。調子いいことだけれど、あの時はまたいい時間を過ごしていたのだと思えた。
保坂は婚約者と甘いとは言えないクリスマスイブを過ごしたようだ。お披露目のようなパーティで、挨拶ばかりで疲れたと愚痴を言っていた事を思い出す。俺は一人で保坂は大勢で。まるで正反対の過ごし方をしたけれど、どちらも不本意だったと言うわけだ。かわいい女の子が隣にいただけ保坂の方が羨ましいけれど。
一月に入り、的場と板垣の距離が縮まってきた。今、的場が板垣の教育係なのだから当然なのだが、気に食わない。何が気に食わないって、二人で笑い合っているあの姿だ。時折板垣は的場に触れる。肩や頭や手。ただそれだけなのに、下心丸出しに感じて、殴りたくなってくる。明らかに鼻の下が伸びているのが分かるのだ。
今も的場の席に板垣が行き、的場の顔近くに顔を持っていき、パソコンの画面を一緒に見ている。時折、その近い距離で顔を見合わせ何かを話している。
「六回目」
俺の前に座っている保坂が楽しそうに俺に向かって言った。俺は何を言っているのか分からず、保坂をじっと見た。
「溜め息の数」
「は?」
「じっとあっちを見て睨みつけながら吐いた溜め息の数が六回なんだよ」
保坂は的場と板垣を指差す。確かに俺はじっと二人を見ていた。だが、睨みつけていたつもりはない。況して、溜め息なんて吐いた覚えがない。
「無意識なんだよ。自覚しろよな」
保坂はフフンと得意気な憎らしい笑みを浮かべた。
俺が保坂を睨みつけている間に、的場と板垣は営業に出てしまったらしく、俺は七つ目の溜め息を零した。
昼食の時、後ろから俺の肩を抱く手が現れた。それが誰なのか確認しなくても分かる。こんな事をする男は一人しかいない。
「おまえしつこいぞ」
俺と眼が合う度にニヤニヤする保坂を何度睨みつけても効き目がなく、逃げるように事務所を出たのだ。まあ、この男から逃げられるとは思ってはいなかったが。
「なあ、もうそろそろ素直になった方がいいぞ。まあ、的場は板垣なんか眼中にないようだけれどさ」
わざとらしく俺に体重を預けてくる保坂の脇を肘でつついた。
「ああいった慣れていない女の子は押されれば押される程靡くものだよ。最初はその気がなくても暗示にかかるんだ。あの馬鹿の毒牙にかかってからじゃ遅いだろう?」
確かにあの二人が仲良く一緒に過ごしているところなど見たくない。況してや毒牙にかかっている的場の姿など想像もしたくない。
「焦った方がいいよ」
まるで保坂は俺を暗示にかけるように耳元で呟く。
「何が言いたい?」
「自分の気持ちにくらいには鈍感になるなってこと」
なんだか保坂は楽しそうだ。俺が睨みつけようと文句を言おうとその楽しさは消えない。俺をからかっている風でもないが、何がそんなに楽しいのか分からない。
「俺は応援するよ。きっと幸せを感じられるはずだからさ」
保坂は独り言のように言った後、俺の肩にまわしていた腕を外した。
「お似合いだと思うしね」
にこりと微笑んだその笑みは女たらしの男そのもので、女をこうやって落としてきたのかと想像できるくらい鮮やかだった。
板垣は俺や保坂が面倒を見ていた時よりも楽しそうに仕事をしている。しかも、的場にべたべただ。確かに男にべたべたするなど気持ち悪いのだが、それにしてもあんなにべたべたでいいのか?と思えるくらいに一緒にいるのだ。何かにつけ的場に声をかけている。ここぞとばかりに口説き落としている風だ。その姿を見るたびに俺は原因の分からない苛立ちを抱いていた。
板垣のにこにこしているその表情を見たくなくて俺は談話室へ逃げた。ゆっくりとコーヒーを飲んでいると、板垣が弾けるような笑みを浮かべて俺のところへ来た。
「加賀山さん、もう捜しましたよぅ」
甘えるような口調はいい事があったのだと分かりやすい程。きっとそのいい事は的場だろう。一月になってから俺のところに進んで来ることもなかったのに、都合のいい時だけ懐きやがって。
俺は板垣の存在を無視するように窓の外のグレーの空を見つめた。もう少しで雨が降りそうだ。
「聞いてくださいよぅ。俺、今日的場さんと夜デートですよー。食事に誘ったらオッケイしてくれましたー。初めてですよぉ。本当、受けてくれるなんて思ってもみなかったからぁ夢なんじゃないかって思っているんですけれどねぇ」
「夢なんじゃないの」
「え?」
弾けたテンションの板垣とは正反対の低いテンションだった俺の口から出た、言葉と低い声に驚いたのか、板垣は弾けるような笑みを引っ込めた。
「だからさ、おとなしくしてくれよ。静かな場所で落ち着きたくてここにいるんだからさ」
「え、あ、あ、あの、すみません」
戸惑うような口調で言われて俺はハッとした。なにイライラしているのだろう。
「いや、俺こそごめん。ちょっと色々あってな」
苛立ちを抑えるように俺はコーヒーを飲んだ。
「何かあったんですか?」
板垣は心配そうに俺の顔を覗きこむ。
「いや。……まあ、いろいろな」
いろいろと言ったって、何がいろいろなのか自分でさえも分からない。ただ、なぜか最近苛立ってばかりなのだ。
「いろいろ、ですかあ。まあ、俺じゃあ頼りなくて言えませんよねぇ」
「俺はこんな年下のガキに心配されているのかよ」
ひとつわざとらしく溜め息を吐いて見せた。言わないのではなくて、言えないのだ。原因が全く不明だから。
夕方、珍しく的場が俺の席まで来た。戸惑うようなそんな表情がとってとれた。なんとなく俺は察することができた。
「ちょっと休憩行く?」
どう言いだそうか迷っている風だったので、俺から話しかけた。的場は表情を変えず頷いた。
「じゃあ、いつものごとく談話室」
俺が歩きだすと、的場は静かに俺の後をついてきた。振り返らなくても靴の足音で分かる。俺の足音と同じリズムだ。
談話室で自動販売機に小銭を入れ、俺の分のコーヒーをまず買う。コーヒーを手に取った時、的場が俺の隣に立った。すかさず小銭を投入する。
「何を飲む?」
「あ、いつもありがとうございます」
まだ迷いがあるのか、いつものかわいらしい表情には程遠かった。
「ミルクティーを」
そう呟きながら的場はボタンを押した。それを俺は手に取り、席に向かう。部屋の角の席だ。
俺たちは向かい合って座り、無言でプレタブを開ける。的場が大きな溜め息を零した。
「わたし、どうしたらいいのか分からないんです。わたしが女ではなく男ならこんな風に悩むこともないんだと思うんですけれど」
的場はテーブルに置いてあるミルクティーの缶を両手に包むように持ち、その手元をじっと見つめている。
「先日、加賀山さんはわたしが女だから飲みに誘うのに躊躇ったと言っていましたよね。多分それはわたしを気遣ってのことだと思うんです。だから、少し立場が違うんですけれど、板垣君と二人でお酒を飲みに行くって周りから見たらどうなんですか?」
俯いていた視線はやっと俺に向けられた。
「俺は別にどうとも思わないよ。他人の眼の問題じゃないでしょう?本当に的場さんが悩んでいるのは」
的場はまた目を伏せた。
「気の合う同士なら男女関係ないとも思える。ただ、そこにどちらかの下心や不安が現れたら全く違うものになるよね。誘った側誘われた側の問題じゃないかな。そこにどんな意図があるのか――。今日、板垣とお酒を飲みに行くんだよね?」
「はい」
「それに不安があるの?」
「板垣君を見てどう思いますか?最初は懐いてくれているんだと思ったんですけれど、最近ちょっと違う方向に勘違いし始めてしまって」
はっきり言うには躊躇うのだろう。もごもごと言い辛そうだ。
「もっとわたしがサバサバしていて、男性に対してもそんな態度をとれる人間なら何も気にする事ないんでしょうけれど、わたしこういうことに慣れていなくて、なんだかどんどんマイナスの方向へ向かってしまって。でも、断るのはなんだか気が引けると言うか、悪い気がして。それにまるで自惚れているように見えますし……」
「的場さん、そんなガードすることはないんだよ。板垣は下心があるかもしれないけれど、的場さんが嫌がる事をするような人間ではないと思うから」
「思いあがりもいいところですよね」
そう呟いた後、的場は両手に持ったまま、勢いよくミルクティーを飲んだ。
俺はおおらかで心が広く理解力のある男を演じているのかもしれない。はっきり言えば、何で不安なのに一緒に行こうとしたのか、嫌なら嫌と言えばいい。そんな風に思っている。もっと言えば、俺以外の男と二人きりで出かけるな、と面と向かって言い放ちたい。今度、一緒に食事に行こうと約束していたのは俺の方だ。きっかけやタイミングがつかめなくて、誘わなかった俺がいけないのかもしれないが、あの時は確かに板垣ぬきがいいと的場は言ったのだ。
「変な事を言ってすみませんでした」
「……いや」
俺はどうしたいのだろう。何か分からないが心にかかるものがあり、それをどう解消すればいいのか分からなかった。
定時を迎えてから三十分後くらいに的場と板垣は仲良く事務所を出ていった。俺はその後ろ姿を見送った後、残りの仕事に取り掛かる。気を利かせてか、佐原がまだ事務所に残る俺と保坂と課長にコーヒーを淹れてくれた。久しぶりの事だ。
「ありがとう」
「いえ。わたしも飲みたかったので」
「今日は残業?」
「はい。もう少しで終わりますけど」
にこりと微笑む佐原を見て、最近変わったなと思う。余裕と言うかなんというか。
「そう。そんなに遅くならないうちに帰らないとね」
俺の言葉ににこりと微笑み、佐原は去って行った。化粧も変わったかもしれない。
一時間経った頃、俺はやっと仕事を終え、伸びをした。ずっと集中していたためか、身体が固まった感じがする。それを解すように肩を揉んでみる。
「終わったのか?」
保坂は何かの資料を片手に持って、その資料から眼を離すことなく俺に言った。まだ、彼も帰っていなかったようだ。周りを見ると俺と保坂しか残っていない。
「そうだな。これで大丈夫だろう」
「俺はもう少しだな」
「コーヒーでも買ってこようか?」
事務所にあるコーヒーはもう事務員の手によって片付けられている。
「ああ、お願いできるか?」
「了解」
俺はパソコンの電源を切った後、自動販売機のある談話室へ向かった。
戻った時には保坂の仕事は終わっていた。俺から缶コーヒーを受け取った保坂は、椅子の背もたれに全体重を預け、天井を見つめた。
「引き止めなかったんだな」
ぽつりとつぶやいた保坂の意図を俺は分からず、黙っていた。
「若さとは強引で無謀だよ。欲しいと思えば手段を選ばないもんだ。何が何でも手に入れたいと思えば尚の事。板垣が羨ましく思えるくらいあいつはまっすぐで、盲目だ。言っている意味分からないわけないよな」
保坂の眼は俺の心情を探るように射抜く。思わず視線を逸らした。
保坂の馬鹿にするような笑い声と、プレタブを開ける音が事務所に響いた。
「誤魔化す必要もないと思うけどな。怖れることもない。おまえは優しくできると思うよ」
先程とは打って変わって、とても穏やかな声だった。俺は驚いて逸らした視線を保坂に戻した。穏やかな笑みがそこにはあった。
「時にはさ、若くない俺らが昔のようにつき進んでもいいと思うんだよね。恋愛なら尚のことだよ。どんなに年をとってもその人間を若くするのは恋愛だ。分かるか?言っている意味。恥ずかしいことはないってこと」
保坂は缶に口をつける。俺が気づかないことも保坂は気づいていて、総てお見通しと言うことなのだろう。それが何だか気に食わない。
「拒否するばかりじゃなくてたまには素直になってみろよ。今の感情が表している先は何なのか、それを探ってみろよ」
「何を言っているのか分からない」
「肌に触れたい、笑顔を向けてもらいたい、声を聞きたい、触れてもらいたい、誰にも見せない表情を見せてもらいたい、誰にも聞かせない声を聞かせてもらいたい。これって老若男女関係なく抱く感情だろう?そういう感情、今おまえ抱いていないか?」
保坂はコーヒーを一気に飲み干した。そして、席を立ち、缶をごみ箱に放り込む。
「さあ、今日はとことん飲みますか」
保坂の声に操られるように俺は立ち上がった。
連君には何でもお見通し。というより陸君が鈍感なのです。29歳にして初めての感情だから。だから、これからいっぱい陸君に苛立ってください。
次回はおでん屋――ではなく、居酒屋。連君が懸命に煽ります。
次回もお付き合いください。




