棚島彩季1
月曜日の朝、先に事務所にいた保坂を誘って談話室へ行った。仕事始め前に朝食を食べる社員が何名かいる。俺は保坂に炭酸飲料を買って渡した。俺はミルクも砂糖もたっぷりのコーヒーだ。
「この飲み物で俺を買うつもり?」
「お願いが一つある」
丸いテーブルを挟んで向かい合っている。俺は他の人間に聞かれたくないため、保坂の顔に顔を近づけた。
「何?」
「棚島とコンタクトをとって、今日の六時半頃、ここに来るように伝えてもらえないか?」
「何で俺?」
からかうように言う保坂を睨みつけた。分かっていて言っているのだ。桃香に俺の姿を見られたくないと言うほかに、『棚島を呼び出した俺』ではまるで『桃香をとり合う二人が対決し合う図』になってしまい、周りの興味を引いてしまう。できれば二人だけで会いたい。ここならばそう噂にならずに会えるだろう。
「ここじゃなくてほかに誘い込めよ。まるでリンチの相談だ」
何をふざけた事を。
「たとえば?」
「おでん屋は?あそこ、うちの社員に会った事ないだろう?地図を書いて手渡しておくよ。十九時待ち合わせで伝えれば問題ないだろう?」
「分かった、任せる」
俺はどこでもいいんだ。誰にも邪魔されない場所で話せれば問題ない。
「でもさ、この仕事がこの飲み物で釣り合うと思うなよ。モモちゃんとの会食設定よろしくな」
「この前、同じ屋根の下で寝たじゃないか。しかも手料理付き。それで充分だろう?」
「は?」
もちろん保坂には感謝している。だから、少しだけそれを叶えてあげてもいいかもしれないと思ったことは、今は内緒にしておく。きっと調子に乗るから。
その日の仕事は身が入らなかった。お客様の前ではやはり緊張感があるため、それなりにこなせるのだが、違う時はこれから起こる『出来事』に緊張して、手に付かなくなる。
俺がおかしいと思った的場は、とても心配そうに俺を見上げる。俺は何でもない、大丈夫だと伝えるために微笑み、頭に手を置く。そうすると的場は照れたように俯く。そんな仕草がかわいらしくて俺はクスリと笑ってしまう。こんな事の繰り返しだった。的場のこう言った初心なところに助けられている。少しだけ緊張がほぐれるのだ。
「なんか、やはり、加賀山さん今日は変です」
休憩に入ったカフェで的場は真っ直ぐ俺を見つめながら言った。
「どの辺が?」
「上の空です。いろんな辺が」
俺は的場の言葉に噴き出した。
「いろんな辺、ね」
「はい。はずれていますか?」
「いや、多分あたりだね」
俺はカフェオレを飲んだ。
「心配ごとですか?」
「違うよ。そんな大変な事じゃない。ただの緊張かな」
「緊張、ですか……」
的場は腑に落ちないと言った表情でキャラメルマキアートを飲んだ。カップを包むように持っている両手の指は細くてきれいだ。女性だなと思うと同時に、何もしていない手だな、とも思う。桃香の手は今荒れている。きれいな手と肌が冬になると荒れてしまう。出来るだけ洗いものは俺がしてあげようと思っているのに、雑な俺を見かねて桃香は自分でやってしまう。家事全般は俺には向いていないらしい。
「心配いらないよ。気にかけてくれてありがとうね」
俺の言葉に的場は微笑んで見せた。
会社に戻ったのは十七時だった。待ち合わせに間に合うように事務仕事を終わらせなければならない。
「うまくいったよ」
保坂が俺の耳元で言った。俺は黙って頷いた。耳元で笑う声が聞こえ、ポンと肩を叩かれた。保坂流の応援なのだろう。素直に受け取ろう。
事務仕事を終え、十八時半に事務所を出ておでん屋に向かった。棚島が迷うかもしれないと思ったので、おでん屋の前で棚島を待つ。別に迷うような場所ではないが、見落としてしまうかもしれない店ではある。
俺が着いて数分後に棚島がやってきた。年上だけあり、落ち着きのある風貌だ。俺の姿を見た棚島は小走りで来た。そういったところも悪くない。
「おまたせしました」
「いえ。まだ、待ち合わせの時間にはなっていませんから。それに、急な呼び出しをしてしまった私の方が悪いですし、それに謙虚に応えてくださって感謝しています」
「いえ、私も話したい事があったので、会っていただけて感謝しています」
なんとなく、同じことを考えているのではないかと思った。だからだろう。すぐに好感を持てた。
店内に入り、いつものカウンタ席に座った。カウンタの向こうの店主が少し不思議そうな眼差しで俺たちを交互に見た。
「何?」
「いえ、今日は組み合わせが違うんだな、と思ったので」
「新しい組み合わせ。俺の新しい彼氏なんだ」
俺の言葉に驚きの声をあげたのは店主ではなく棚島だ。店主は納得した風に頷くだけだ。やはりこの店主、斜めに俺と保坂の関係を勘繰っていたようだ。あんな女好きいないのに。人を見る眼がない店主だ。
「あの?」
おずおずと聞いてくる棚島に微笑んで見せ、俺は気にすることなくぬる燗と大根と厚揚げを注文した。棚島は戸惑いながら、大根とはんぺんを注文した。ぬる燗で乾杯をした後、俺たちは熱々のおでんを無言で食べ始めた。
どう切り出していいのかお互い分からないのだろう。ここは呼び出した俺が切り出さないといけない。
「社内に流れているメールの件、知っているんですよね」
「ええ。他部署の同期から忠告をされました。変なメールですね。思わず笑ってしまって、同期が不思議そうにしていましたよ。奴にはきちんと話したんですけれどね、こういうのはそのまま気にしない方がいいのかな、と思ってみたりもして」
「ええ、人の噂も――ということわざもありますしね。でも、桃香が傷つく前に鎮火させたい」
「はい」
棚島の強い頷きに俺はぬる燗をグイッと飲んだ。
「三人で仲良く一階のラウンジで会話するのも悪くないとも思った」
「でも、噂が消えるようにおとなしくしているのもいいと思いますよ。きっと桃香さんはこんな事では傷つきません。きちんと分かっている人がいればそれで問題ないでしょう」
棚島の口調はとても穏やかだ。気持ちがどんどん落ち着いていく。そして堪えない笑み。桃香はこういうところに惹かれたのだろうか?いい趣味をしていると思う。きっと大切にされているのだろう。それが会ってわずかで分かってしまう。
「もう一つあるんです。――モモと婚約しませんか?」
すごい速さで棚島は俺の方を見た。驚いたのは棚島だけではない。俺だって驚いた。俺の口から進んでこんな言葉が出るなんて思っても見なかったから。
「本気ですか?」
「ええ。それで解決しそうです。その後、俺と棚島さんが仲良くしていれば、変な勘繰りを持つ人も少ないでしょう」
「認めてくれるということですか?」
「後はモモ次第だよ」
「ありがとうございます」
棚島は深々と頭を下げた。そんな姿を見つめながら、どうして桃香が棚島を選んだのか充分にわかった。棚島との年齢差は四歳。なのに、棚島は謙った態度で俺に接する。それが当然のように。そういうことができる男を俺も尊敬する。きっと桃香もそうだったのだろう。
「モモとはこういった場所で食事はしないんですか?」
「え?」
「毎週金曜、土曜と会っていますよね。そして一緒に食事をとっている」
「やはり年上ということもあるのかもしれませんね。格好つけたくなるんです。なので、このお店は初めてです」
「モモはこう言ったお店も楽しむと思いますよ。毎週食事を奢っていたらお金が持たないんじゃないですか。モモは大食いですし」
俺の言葉に棚島は笑った。
「よく食べますよね。でも、心配は無用です。毎週金曜日は桃香さんがご馳走してくれることになっているんです。割り勘はスマートではないのでそういう形で。その代わりお金を出す方が店を選べるシステムになっています」
桃香らしい提案だと思い、俺は笑ってしまった。
「奢られるだけでは嫌だとはっきり最初に言われました。だからと言って、テーブルで金額を計算してお金を出し合うのはスマートとは言えない、そう言うんですよ。なんか、そう言った女性は初めてだったので虚を衝かれましたね。そして、すっかり心を鷲掴みです。どんな我が儘も聞いてあげたくなるくらいには」
棚島の食べ方は桃香よりも上品だ。保坂は几帳面に切り分け、一口分を箸で取る。棚島は桃香のようにそのままのものを箸で取り、かぶりつく。だが、その一口は桃香よりも少ない。
「なら今度、ここに来ればいいですよ。モモはこういった雰囲気好きですから」
「私が店を選べるのは土曜日だけなんです。金曜日なら会社近くのこの店に来ると思いますが、どうしても休日はここから離れたいと思うんです」
棚島はクスクスと笑い、壁に貼られているメニューを見つめた。
「なら今度、俺が誘いますよ。二人を」
「本当良かった。どれだけ怖いお兄さんかと思っていたんですよ。桃香さんはお兄さんが大好きで、お兄さんの自慢話をよく聞かされるのですが」
棚島は何かを思い出したのか、クスリと笑った。俺に向いていた視線は、棚島の手元へと移った。
「二人の間に割り込むことはおろか、同じ場所に立つことも許されないような気がしていました。恋や愛、そう言ったものとはまた違う次元の――なんとも言葉では表現できない絆があるような気がしていまして」
再び棚島の視線は俺に向けられた。とても穏やかな温かな視線だ。
「でも、今は違います。同じ場所に立てそうな気がしてきました」
「棚島さんがモモの家族になるのなら、棚島さんは俺の代わりでもあります。今まで俺がしてきた事をしてもらうことになります。それは、ある意味犠牲」
「犠牲?」
「モモがプロポーズを受けたのなら、その時は覚悟して下さい。一緒に俺たちの両親の墓参りに行きましょう。きっと、俺が言っている意味が一欠片分かると思いますよ」
思った以上に俺は落ち着いているらしい。そして、棚島を気に入っている。彼になら桃香を任せていいと思っている。それが、一緒にいる時間が長くなるたび、感じてくる。彼なら、桃香のどんな姿を見ても面倒くさいとは感じないだろう。一生桃香を預けられるかは分からないが、もしかしたらまた違う桃香が誕生するかもしれない。
「明日、早速誘って、プロポーズさせてもらいます。こう言ったことは早い方がいい。タイミングとしても悪くはない。許しが出たのなら、お兄さんの気が変わらないうちに」
先程まで見たことのない少し意地の悪い笑みを棚島は俺に向けた。こういった顔もできるし、冗談も言えるようだ。
それから一時間程、俺たちはおでんを食べながら語り合った。仕事の話しや家族の話など色々したが、やはり主なネタは桃香だった。
棚島は桃香を「とうか」と呼ぶらしい。よく桃香が俺の話をする時、俺の口真似をするようで、その時に「モモ」というので、棚島はその響きを気に入り、「モモ」と呼びたいと言ったそうだ。だが、この呼び方は兄限定だからと断られたと言う。「いつまでも兄を特別にしておきたい」それが桃香の口癖だと言うから、俺はにやける。いつまでも桃香を特別だと思っていていいのだと許可を得たような気がした。
桃香の恋人、棚島が登場。彩季という名前は気に入っています。漢字が。
次回はプロポーズ後。彩季は行動派。
次回もお付き合いください。




