石井幸和子4
会社近くの駅前にある洋食店で俺は今石井幸和子と食事をしている。あの悪夢のような夜からずいぶん日にちが過ぎ、だけれど、ずっと俺の心の奥に棘のように残っている後悔。
彼女は俺が会社から出てくるのをずっと外で待っていてくれた。雪でも降るのではないかと思うくらいに寒いこの日に、いつ出てくるのか分からない俺を待っていた。
「いつから待っていたの?」
彼女が俺の前に立ち、躊躇いがちに俺を見た時、俺はこんな言葉しか口にできなかった。それは迷惑などではなく、申し訳ない思いと恥ずかしい思いからだった。
「本当は迷惑かと思ったんですけれど、やっと勇気が出たと言うか、覚悟ができたと言うか。こういう事って電話やメールではうまく伝わらないと思ったので、来ちゃいました」
いつから待っているのかを聞いたのに彼女の返事は全く違うもので、彼女もまたテンパっていることに俺は気づき、彼女に感謝した。俺に会いに来たということは罵倒したいのだと思っていたから、こんな態度を取られ、戸惑う気持ちもあったが、彼女はあれを許してくれたのだと思った。
都合のいい話しになる。それは分かっているけれど、石井が許してくれたら少しはこの傷は、この後悔は、小さくなってくれるのではないだろうか。ずっと思っていた。彼女にとって罵る価値のない程些細なことだったのではないか。それならば俺の気持ちはずっと楽になる、と。勝手な話だ。でも、そう思うしかなかった。
「夕飯は食べた?」
「え?いえ、まだ」
「なら、夕飯を食べながら話をしようか。俺も話さないといけないから」
ずっと、どう表現していいのか分からなかった言葉。俺の解放の言葉。
駅前にある洋食屋は何度か桃香と一緒に来たことがあった。桃香もお気に入りの雰囲気のいいおいしい洋食屋だ。石井はシーフードドリア、俺はハンバーグセットを注文した。
「わざわざ来てくれてありがとう。本当は俺が君に会いに行って、きちんと誠意を示さないといけなかったのに」
「いえ」
石井は下を向いたまま、何かを口にしようとしながら、何も言葉にできないでいるような仕草をしていた。だから、俺からきっかけを作りたかった。
「俺は君から逃げてしまったんだ。俺が間違ったことをしたのに君のせいにばかりして。ずるいことをした。そして、ずっと今まで逃げてきてしまったんだ。本当に、すみませんでした。君を軽く見るような事ばかり」
「もう、それ以上言わないでください」
顔をあげた石井の眼は強い光を持っていた。俺は黙った。黙るしかなかった。
「わたしが軽々しく加賀山さんを誘ったからいけないんです。忠告も聞かず、加賀山さんなら大丈夫だなんて思っちゃったりして。でも――そう、わたしはそういう女でした。そうやって相手の気持ちを確かめる人間です。それで確かめられるとは思っていませんけれど、そういうことしか方法が選べないような女です。ただ、あの時は違ったんです。本当に。あんな風に言ってくれる男性に甘えたくなってしまって、この人なら信じてもいいかなって甘えてしまって。夢を見ていました」
「なら、尚のこと」
「そう。尚のこと、今も辛い。あんな形で終わってしまった事が辛いんです。だから、迷惑だとも思ったんですけれど、会いに来てしまいました。メールなんてしても嬉しくもなんともない。電話だって物足りない。会って、姿を見て、表情を見て、仕草を見て、声を聞きたかった。あの時の引け目があるのなら、あなたはわたしを追い返したり冷たくしたりしない。そうやってわたしはずるいことをしたんです」
「素直だね」
「切り札は全部遣いたい。だけれど、良心は捨てたくはないんです」
「もっと早く石井さんがこういう女性なのだと分かっていたら、また違う結末があったかもしれないね。というのはずるい言葉かな。でも、やはり俺たちの関係は変わらなかったかな」
きっと俺は最初から石井を受け入れる気持ちがなかったのだと思う。今までもそう。「もしかしたら」と言いながら、その「もしかしたら」の確率さえ拒否していた。
「加賀山さんの理想の女性になるのは難しいみたいですね」
「いや、難しい話ではないけど、俺がずっと縛られているから難しいんだろうね。まだ、解放されないみたいだ」
俺を縛っているもの。それは、両親との約束。そして、俺自身。俺はそれが嫌ではないから、現状で満足している。決して桃香が足枷になっているわけではない。
石井は何かを感じたように口を噤んだ。本当はこういったおしとやかな性格なのかもしれない。周りをきちんと見られる女性。俺が少し勘違いしただけで。
やっと注文をした料理がきて、俺たちは黙々とその料理を味わった。俺のしでかした罪は消えないし、俺自身をこれからも誤魔化すことはできないけれど、彼女の優しさと勇気に感謝した。これ以上俺には何もできない。ただただ、俺は心の中で謝るばかりだった。
駅で別れる際、石井はじっと俺を見つめた。
「後悔だけはしたくないんです。最善を尽くしたって思いたい。それで、前に進めるのだと信じているんです。だから、迷惑かもしれませんが、少しだけ時間をください」
石井の言葉に俺は頷いた。
「今でも加賀山さんが好きです。どこが好きかと聞かれたら分からないけれど、ずっと傍にいたい、触れられたい、笑顔を向けてもらいたい、そんな感情があります。今でも、いえ、以前以上に大好きです」
「ありがとう。そう言ってくれることに感謝しているよ。でもごめんね。きっとこれからもずっと君を傷つける事ばかりしてしまうだろうね。俺はこれからも君を愛することはないと思う」
彼女が前に進むためにした告白ならば、はっきりと気持ちを伝えなければならないと思った。これは俺の義務だ。誠意を持って伝えなければならない。
「ありがとうございました。今日も夕飯ご馳走になってしまいましたし。あの時のデートを素敵な思い出にできそうです」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
石井は深々と頭を下げ、走って目的のホームへと行った。俺はその後ろ姿が見えなくなるまでそこで見守り、見えなくなった後ゆっくりと目的のホームへ向かった。
石井は勇気を持って、覚悟を持って俺のもとに来てくれた。後悔だけはしたくないと言い、最善を尽くしたと思いたいと言った。それで、前に進めるのだと信じている、と。俺も前に進まなければならない。桃香のために最善を尽くしたい。後悔をしないように。
ということで忘れたころに石井が登場です。
次回は腰ぬけ陸君が頑張ります。頑張ったのは実は連君?次回はまたもやおでん屋。でも陸君と連君のコンビではないのです。やっとあの人が登場。
ということで、陸君頑張って。次回もお付き合いください。




