加賀山桃香8
十二月三十一日の朝――朝と言ってももう昼近い時間、俺は起きた。リビングはにぎやかだ。多分桃香が掃除をしているのだろう。
俺はカーテンを開け、外を見た。今日も快晴だ。今年ももう少しで終わる。いい年だったとは言い難かったが、悪くはない年だった。俺は伸びをした後、パーカーを着て、部屋を出た。
「おはよう」
俺がそう言うと、フローリングをワイパーで掃除している桃香が振り返った。
「今日もゆっくりだね」
「休日くらいゆっくり寝たいタイプなんだよ」
「それは失礼しました」
桃香はすでに掃除に戻っていた。キッチンに行くとサンドイッチが置いてあった。俺がゆっくり起きると思って用意されたものだろう。サンドイッチなら冷める心配もない。もちろん温める必要もない。
すでに出来上がっているコーヒーをマグカップに注ぎ、ダイニングテーブルにサンドイッチと共に運んだ。サンドイッチはたまごサンド、きゅうりとトマトのサンド、カツサンドの三種類で、四角に四つ切りされて皿に並んでいる。カツは昨日の夕飯の残りだろう。今日のために昨日の夜揚げていたのかもしれない。まだ、起きたばかりでカツサンドは食べる気にはならなかった。
「モモ、今日は棚島と過ごすのか?」
俺は掃除をしている桃香の背中に尋ねた。桃香は掃除をしたまま振り返る事なく答える。
「今日はお兄ちゃんと過ごす予定だよ」
そして、何か気づいたのか、勢いよく振り返った。
「もしかして、誰かと過ごす予定なの?」
「いや。俺はここでのんびり過ごす予定だよ」
たまごサンドをパクリと食べた。
「なら、今日はのんびりと一緒に過ごそう。年越し蕎麦も一緒に食べよう。棚島さんとは明日初詣に行く約束をしているの」
「なあ、モモ。俺に気を遣う必要はないんだよ。棚島と楽しんでおいで。彼だってそれを望んでいるはずだ。きちんと帰ってくる必要もない。モモが選んだ人ならば、きっと大切にしてくれるはずだから」
桃香はクスリと笑い、俺のもとまで歩いてきた。そして、俺の前に座る。頬杖をつき、とても楽しそうに俺を見つめる。
「わたしはね、わたしを大切にしたいの。わたしを大切にしてくれた人たちと同じようにね。それは棚島さんも分かってくれているよ。きちんと伝えたら笑いながら頷いてくれた。だから、わたしは棚島さんといるの」
とても幸せそうな笑みを浮かべている桃香を見ると、何とも複雑だ。今、桃香にこんな表情をさせているのは俺ではなく、ここにいない棚島なのだ。
「それにね、わたしはお兄ちゃんと過ごしたいの。お兄ちゃんに気を遣っているわけじゃなくて、わたしの願望。我が儘なんだから」
桃香は立ち上がり、モップを一定の場所に戻した後、手を洗い、また俺の前の席に座った。そして、カツサンドを手に取る。
「明日、一緒に初詣行く?」
「冗談。恋人同士と一緒にいたら居心地悪くて年頭から最悪だよ」
「無理矢理でも会わせたい思いでいっぱいなんだけれどな」
桃香はパクリとカツサンドを食べた。
「わたしはね、早くお兄ちゃんに安心してもらいたいの。ずっと解放してあげられなくて悪かったって思っているの」
「なんだよそれ」
「一回しか言わない。だから聞いてよ」
桃香は俺の冷めたコーヒーを飲んだ。
「わたしね、ずっと分かっていたんだ。わたしがお兄ちゃんを縛りつけているって。だけれど、わたしは手放せなかったの。ずっといたその心地良い場所を手放す勇気がなかった。お兄ちゃんはわたしを大切にしてくれたでしょう?いつもわたしを一番にしてくれた。それが心地良くて甘えていたんだ。わたしを幸せに導いてくれる人だから、かな?」
桃香ははにかんだ。俺は桃香の初めての告白に驚いていた。
「お兄ちゃんが女性にもてることも知っていたし、それを断っていることも知っていたよ。だから、わたしはお兄ちゃんの代わりになる人を探していたの。でもね――」
見つからなかった。と小さく呟いた桃香の声は、何かを思いだしているようだった。
大学生になって俺から離れようと思い、告白をしてきた男と付き合ってみたと言う。最初は楽しかったが、キスをされそうになった時、それを拒否した。男は桃香を責め立てた。
「俺が好きならキスくらい平気だろう?」
男の言葉に、キスをできる相手ではないと恋人になれないのだと知ったと言う。それがきっかけで男と別れた。最初の彼はとても優しかったし、一緒にいて安心できたのに、それだけでは無理だと初めて分かったのだと言う。
「だけれどね、どんな人とならキスができるのか分からなかったから、まずはその告白を受けてみたんだ。そして、何人目かで我慢してキスをしてみた。そしたら、その次があった。キスよりもハードルの高いそれはどうしても無理だった。無理やりしようとするその人をおもいっきり殴って、蹴っ飛ばして逃げてきた。恋人になったらそれをするのが当たり前だという考えが理解できなくて、それをしなければならないのは辛いと思って、恋人を作る事を諦めたの」
桃香はフウと息を吐いた。
「もしかしたら一生そんな相手に出逢えないのかもしれないって思ったんだ。そうしたら、お兄ちゃんにずっと迷惑かけちゃうな、って本気で思ったんだけれどね、棚島さんは違ったの。大人だったなあ。わたしの想いを理解してくれて、大切にしてくれて、お兄ちゃんみたいに温かくて。きっとお兄ちゃんが棚島さんと会ったら、安心してわたしを任せられるって思ってくれるって思ったの。だから、お兄ちゃんにはすぐに安心してもらって、お兄ちゃんが幸せになる道を進んで欲しいの」
桃香の瞳は潤んでいるようだった。俺が桃香の事を考えるように、桃香も俺の事を考えてくれていたんだ。そう思うと嬉しいやら恥ずかしいやら情けないやらで、複雑な感情が俺を支配した。
「お互い言葉が足りなかったみたいだね。俺はさ、桃香が俺のそばが心地良いって思ってくれているのと一緒で、桃香のそばが心地良いんだ。そこにいられるだけで安心するし、のんびりできる。だから桃香は気に病むことはないんだよ。俺がそこにいたくていたんだ。義務じゃないんだよ。もしかしたら俺が桃香を手放せなかったのかもしれないよ。そう思うことはなかった?」
「え?」
「モモ、俺のことは考えなくていいんだ。俺はしたいようにしているんだから。モモはモモが幸せになることだけを考えて。それが俺の幸せにつながる。モモは幸せになる権利もあるけれど、義務もあるんだ。そうなるようにずっと守ってきたんだから。分かるよね?」
桃香は顔を歪め、堪えていた涙を一粒落とした。そして、それをきっかけに。桃香は両手で顔を隠し、声を潜めて泣き始めた。別に泣かしたかったわけではない。泣いている顔より笑っている顔の方が好きだ。だけれど、今はきっと笑ってくれないだろうな。
「俺たちは確かに血がつながっていないけど、血がつながっている兄妹よりもつながっているって自負していたんだ。だけれど自惚れだったね。俺はモモの事を何でも知っているなんて勘違いしていたんだ。言葉を交わさないと心の中なんて分からないものだね。桃香の心の中を聞かせてもらえてうれしいよ。でもね、もう少し猶予をくれよ。まだ心構えができていない。急に棚島に会ったら、俺の心臓がおかしくなる。だから、もう少しだけ、ね」
桃香は両手で顔を隠したまま頷いた。年末に、今年最後に泣かせてしまった。俺は桃香の隣に立ち、そっと抱きしめた。
「モモの幸せが俺の幸せだから、モモが幸せになったら俺も幸せになるんだよ。モモは二人分の幸せを背負っているんだ。いや、違うか。六人分だね。モモの両親と、俺たちの両親もきっとそうだから」
「わたしって幸せ者だね」
桃香の絞るような声が聞こえた。
「そうだよ。二人の父親と二人の母親を持っている人間なんてそうはいないんだ。他の人たちの倍の愛情を味わってきたんだからね」
桃香は甘えるように俺の腹に顔を擦りつけてきて、ぎゅっと俺を抱きしめた。
「年末に話す事じゃなかったかもね。それとも年の最後に相応しい会話だったのかな?」
大学生になって、桃香に恋人ができた時の事を思い出した。桃香とは同じ大学だったから、すぐにどこのどいつが桃香の恋人かは分かった。ひょろひょろした男だった。だけれど、桃香を見る瞳はとても優しくて、それがとても辛かった。だから、俺も恋人を作った。
桃香を今守るのは俺ではなく桃香の恋人だと思ったから、俺は違う人を守ろうと思ったんだ。だけれど、それは虚しいだけで、俺は桃香以外の人を守ることなんてできないのだと思い知らされた。ちょっと違うな。桃香以外守りたくないと思ったと言うべきだろう。俺にとって守るべき対象はずっと桃香一人だったから。そう思うと、自分が立っていたゆるぎない場所が脆く崩れ落ちていくような気がして焦燥感を覚えた。だから、一層乱れるように誰とでも恋人になった。虚しいだけだったけれど、それしか方法が見つからなかったんだ。
あの時は恥ずかしいけれど、感情が幼かったとしか言えない。居場所を無くしていく焦りは今までにないくらい俺を追い詰めていた。あの時俺に関わった複数の女性には申し訳ない事をしたと思っている。そのくらいひどかったのだ。
就職を機に俺は総てを清算した。虚しさから解放されたかったこともそうだが、桃香が恋人と別れたことも大きかった。何度恋人ができても構わない。やはり桃香を悲しみや苦しみや辛さから守ってあげられるのは俺しかいないのだと思ったから。だから、俺はいつでも一番で駆け付けられる場所にいようと思った。
年末にしんみり。桃香には桃香の想いがきちんとあって、守られるばかりではないのですね。陸君は桃香を守ることに生きがいを感じているのですが。
次回も二人の時間。傍から見ると恋人同士にも……と思うのは私だけではないはず。
そして、あまり流れには関係ないのですが、保坂の本名を鷺山から葉迫に変更。ふと、遊び心で。『保坂連4』は変更済みです。他では書いていないつもりですが、もし書いてあったらご報告ください。
次回もお付き合いください。




