的場幸菜3
十二月も数日経ち、的場に対する俺のぎこちなさも少しほどけてきた頃、本当に気を引き締めないといけないと思っていた。思っていたのだが。
とても楽しそうに笑う彼女を見て、思わず頭を撫でてしまった。それはもう誤魔化すこともできない状況で、呆然としている的場を眼にし、俺の思考回路は止まった。おまけに頭を撫でている手も止まった。
「あ、あ、あ、ごめんね。ちょっと癖で。ずっとしないように気にしていたのに、無意識なんだ」
俺の言葉に的場はケラケラと笑った。
「彼女にいつもそうしてあげているんですか?」
「いや、妹に」
「ああ。妹さんはわたしと同じくらいの年齢なんですね」
俺は笑って誤魔化してしまった。俺と同い年だと知ったら彼女はどう思うだろう。あの無表情の桃香が妹だと知ったら、あまりいい印象を持たれないことは知っている。俺たちがどのように過ごしてきたのか、どういった関係なのか分からない人には理解できないことなのだと知っている。そして、そんな俺たちを見てきた人たちはとっくにこの世にはいない。
「もしかしたらまたしでかすかもしれないんだ。初めに言っておくね。本当にごめん。こんなことされるのは嫌だと思うんだけど」
「いえ。びっくりしましたけれど、別に嫌なわけではないですよ」
気を遣ってくれているのか、的場は俺に微笑んで見せた。そんな表情が一番いけないのだと言ってやりたかったが、この笑顔が見られなくなるのは俺にとっても淋しい。
「ありがとう」
思わず抱きしめたくなったが、これはさすがに抑え込んだ。こんな事をしたらセクハラだけでは済まされない。
的場と桃香は似ても似つかない。桃香が的場くらいの時は、ボブカットだったし、髪は明るめの茶色だった。
お金があまりなかったので安い化粧品を遣っていたが、しっかりと化粧はしていた。かわいらしい顔が大人っぽくなるのを俺は見ていて複雑に思っていたけれど、そのことに口は出さなかった。
的場よりも細い身体だし、どこをとっても似ていない。だけれど、無邪気な雰囲気がそこはかとなく似ているような気がする。それだけなのにどうして抑えられないのだろう。不思議でならない。
衝動的とはいえ、無意識とはいえ、やってはならない事をしてしまったと思った途端、的場と話をする事が怖くなっていた。せっかく和んだ雰囲気が一瞬にしてぎこちなくなったのは総て俺のせいだった。俺の気持ちはどんよりと落ち込み、浮上させることさえできずにいた。
夕方、俺は桃香にメールを送った。『一緒に夕飯を外で食べよう』という内容のもの。『諒解』という簡単な返事をもらい、俺の気持ちは少しだけ浮上した。
桃香の敬愛する作家が『諒解』という文字を遣うことから、桃香はいつも『了解』ではなく『諒解』を遣っている。この文字を見るだけでなぜか安心するのは、桃香だ、って思うからだろう。
「よう、何かあった?」
本当に憎い程察知する男だ。心配そうな表情ならまだしもからかうような表情をして保坂が俺のもとにやってきた。談話室の一角。俺は桃香のメールの返事にホッとしてコーヒーを飲みにここまでやってきた。的場は事務所で資料を作成している。
「なに、ニヤニヤしているんだよ」
「まあ、おもしろそうな事があったんじゃないかと思って」
「憎らしい男」
「どうも」
保坂が飲んでいるのは炭酸飲料だった。
「心配していたことが現実になってね。これから先どうしようかと。自信がないんだよ、抑え込むさ」
「何が?」
「今日、思わず的場さんの頭を撫でてしまったんだ。無意識だから怖い」
「かわいいなあって思っちゃったわけだ」
「思うだろう?あの微笑みや仕草がさ」
「俺には分からないけど」
「そうなのか?」
保坂は不思議そうに俺を見つめていた。不思議なのは俺の方だ。
「昔のモモを思い出すんだ」
「ふうん」
「今だってモモの頭を撫でる。そうすることでモモが嬉しそうにするし、気持ちが落ち着くからさ。でも、もっと前はもう少し違う感情でモモの頭を撫でていたんだ。ああ、かわいいなとか、そんな風に思う度に頭を撫で、ハグをしていた。その癖が今になってぶり返したんだ」
「それは深刻だな」
「うん」
「頭を撫でるくらいは的場さんなら許してくれるだろうけど、ハグはさすがに許さないだろうからな」
「頭を撫でるのだって本当は許せないだろう?」
深刻に俺が話しているのに、保坂はクスクスと笑いだし、最後には遠慮なしにケラケラと笑いだした。何か投げるものがあったら投げているところだ。
「もしかしたら、的場はハグも許すかもしれないな。ただ、勘違いするだろうけどさ」
「はあ?」
「そのまんまだよ。おまえはペットに対するような感情だとしても、的場にとっては恋をした感情ととってくるかもしれない」
「そんな勘違いはさすがにしないだろう?」
「甘く見ちゃ駄目だよ。人の感情とは結構最悪の方向へ進むもんだ。あらゆる想定をして、最悪の方に進む」
「最悪の方はセクハラで訴えられるじゃないのか?」
「馬鹿だなあ、おまえは」
保坂はゴクゴクと炭酸飲料を飲む。何人かいた社員は知らないうちにいなくなっていた。冷たくなってしまったコーヒーを飲み干し、俺は溜め息を吐いた。
「まあ、俺にとってはそっちも最悪か」
「勘違いだけはさせるなよ。彼女は一途っぽい」
「まあな」
的場が俺をそんな対象として見るとは到底思えなかった。そんな事を気にしていたら自惚れにしかならない。だけれど、勘違いされる可能性は大きい。それによって関係が狂うことは大きくある。俺に惚れるのではなく、俺を避けると言う方法で。
俺が一階のエントランスホールに行くと、すでに桃香はラウンジのソファに座っていた。桃香の前に立つと、ゆっくりと顔をあげ、俺を確認する。そして、破顔する。この無邪気な笑顔がかわいくて仕方ない。
「さて、おいしいものでも食べに行こうか」
「うん」
桃香は立ち上がり、俺の手をとった。
「モモ?」
手をつなぐのは珍しい事だ。
「お兄ちゃんがちょっと心配だから」
桃香の言葉に泣きそうになった。いつも桃香を守るため、笑顔にさせるためやってきた行為だ。桃香はその行為を今俺にしている。やはり桃香には分かるのかもしれない。ずっと一緒にいたから。血のつながった兄妹よりも長く深く一緒にいたから、俺の変化に気づくのかもしれない。
「ありがとう、モモ」
俺の呟きに桃香は微笑んで見せた。
「陸」
心地良い響きに俺はどうしようもなく救われる。
「さあ、おいしいものを食べに行こう。何が食べたい?」
桃香の手を握ったまま俺たちは歩きだした。
「うーん、タイ料理」
「また、そんな」
「いいでしょう?」
「了解。じゃあ、あの店だね」
会社の最寄り駅から二駅先にあるタイ料理屋。一度だけ興味を抱き、行った事がある。ちょっと癖のある味だけれど、おいしかった。
終始、桃香は笑顔で俺の手を握っている。俺を励ますためにそうしてくれていることが嬉しくて、ずっと俺がやってきたことは間違っていなかったのだと認識できて嬉しかった。
店はビルの二階にあり、電車から眺める事ができる。桃香がこの店に興味を持って俺を誘ったのが最初。あまりタイ料理にいいイメージを持っていなかった俺は何度かやんわりと断ったが、覚悟を決めて一度来た。思っていたよりは口に合った。合わないものもあるけれど、それなりに美味しい。
階段を上り、店に入るとそこは普通のレストラン。普通ってなんだ?て思うけれど、ファミリーレストランと同じような感じ。それの狭い版。窓際の席をとり、メニューを見る。青パパイヤのサラダ、生春巻き、鶏肉のタイバジル炒めをつまみに、ろじゃなを飲む。ろじゃなはタイ産の黒糖焼酎だ。
「おいしいものを食べると元気が出るよね」
桃香お気に入りの青パパイヤを食べながら楽しそうに言う。俺はそんな桃香を見るだけで元気が出る。桃香の笑顔は俺の元気のもとなんだ。それが再認識させられる。
「俺は青パパイヤはおいしいと思わないけどね」
「もう」
桃香はわざとらしく頬を膨らませる。そんな仕草に笑った。何もかも吹っ飛ぶ感じだ。だから好きだ。こんな時間が。何も相談する必要もない。こんな時間を一緒に過ごすだけで総てが浮上する。俺も大概単純にできている。そして、桃香は余計なことは聞いてこない。それがマナーだと心得ている感じで、俺にはそれも心地良い。
俺は青パパイヤをはじいてサラダを食べる。そしてろじゃなを飲む。
「久しぶりのタイ料理はいいなあ。仕上げはね、ビーフンって決めているんだ」
よく食べる桃香。細い身体によく入ると思うが、いっぱい食べる桃香を見ていると安心するからからかったりはしない。食べるのもやっとの時を俺は知っているから余計かもしれない。
「俺もビーフンにするよ。この前のビーフンはおいしかったから」
以前来た時は鶏スープの汁ビーフンだった。ビーフンというと焼きビーフンを俺は思い出すけれど、こういったものもいいなって思った。
「違う味にしようね」
あの時桃香は確かグリーンカレーを食べていた。
「そういえばクリスマスはどうするの?」
「え?俺は一人でお留守番するつもりだよ。モモは棚島と一緒だろう?」
「そうなんだけど、一緒にお食事どう?」
「二人のデートに割り込むような野暮な真似はしないよ。さすがにさ」
「なんで?」
「なんで、って、そりゃそうだろう?棚島だって二人で過ごしたいに決まっているよ。そういうことは察してあげなさい」
「だって」
「だってじゃないでしょう。大丈夫、実は俺誘われているから」
何をまた嘘吐いているんだろうと思うけれど、二人の邪魔をしたい半面、二人が仲睦まじくしている姿を見たくないという思いもある。それ以上に、二人の邪魔をして桃香を悲しませたくはない。
ただ付き合っている恋人同士ならまだしも、結婚を前提としている恋人同士だ。そこまで考えて、そこまで愛し合っているということだろう。なんか悔しいけれど仕方ない。
「だから、二人で楽しんでおいで」
なんだか不満そうな表情を俺に向けながら仕方なさげに桃香は頷いた。なんとなく優先されていることに優越感を持つ。それだけ俺は桃香にとって特別ということだろう。
俺に結婚を前提としたお付き合いをしている女性ができたとき、俺と同じような複雑に渦巻く感情が桃香にも生まれてくれたら嬉しいと思う。大切な自分だけのものを奪われた感情のようなもの。幸せになってほしいと願いながら、奪われたくないと思うような複雑な感情。そう感じてくれたら俺は幸せだ。
「ほら、そんな顔をしていたらおいしいものが台無しだよ。おいしいものは笑顔で食べないとね」
手が届けば桃香の頭を撫でてあげたい。だけれど、テーブルが広くてそれも叶わない。叶わない方が良いのかもしれないけれど。
仕上げに俺が牛スープの汁ビーフンで桃香が焼きビーフンを注文する。そして、すごいことに桃香はデザートにタピオカココナッツとマンゴープリンを注文した。これには絶句。
「だって、デザートは別腹でしょう」
なんて鉄板の言葉を口にすると、俺に微笑む。まあ、俺よりも食べる桃香を見るのが好きだからいいけれど。おまけに俺に一口ずつ味見として「あーん」してくれるし。
この年齢で、兄妹でこんな事をできるなんて幸せだと思う。桃香は、兄妹はこういうものだと思っているところがある。一度否定しようと思ったが、その必要はないと思いなおした。仲が悪いよりいい方がいい。そのうちできなくなるのだから尚更だ。
桃香は満足げに身体を逸らし、息を長く吐く。さすがにおなかいっぱいで苦しいらしい。今まで付き合ってきた女性たちはここまで食べたりはしなかった。遠慮がちで俺が進めても小食気取りだったのが気に食わなかった。本当に小食だったのかもしれないと今は思うのだが、あの時は桃香を基準にしていたため、そうは思えなかった。
桃香が異常に良く食べるのだと知ってからは、基準にはしていない。だけれど、このくらい食べてくれる女の子が理想かな。満足げなその顔がかわいらしいから。
「モモ、動ける?」
「もうちょっと待って」
声さえも苦しそうだ。俺はおかしくなってクスクス笑った。モモは水を一口飲む。俺もつられて飲んだ。
「デザート二個は余計だったかな」
「俺が止めなかったら三個注文していたじゃない」
「それを言わないで。だって、おいしそうなんだもん」
「だからまた来ようね」
俺の言葉に嬉しそうに頷く。単純で扱いやすいのは長い付き合いだからだろう。
俺たちは店を出て電車に揺られ帰った。おなかいっぱいの桃香は立ちながら眠りそうな勢いだった。
家の近くのコンビニエンスストアで朝食用のおにぎりを購入した。いつもなら絶対に買わない。お金がもったいないとお互い思うから。だけれど今回は違った。なんとなく興味もあった。売られているおむすびってどんな味がするのだろうとか、どんな感じなのだろうとか、まるでコンビニエンスストアを知らない昔の人間のような感じだ。その間も桃香は俺と手をつないでいた。
頭を撫でてしまってから数日経った今、堰を切ったように俺は的場の頭を撫でている。何かあるたびになぜか撫でてしまう。
その時の恥ずかしそうにする表情や仕草がまたかわいくて見たくなる。だから遠慮なくまた頭を撫でてしまう。駄目だって分かっているのに止まらなくなっていた。
何が、どこが、桃香とだぶるのだろう。ただ、頑張っているその姿は幼い頃の桃香を見ているようで切なくて愛しい。そう思える。頭を撫でた後、自己嫌悪に陥るが止められないのはそのせいかもしれない。
事務所でパソコンに向かい報告書を作成していると、的場は俺のところにやってきた。
「すみません。これが分からなくて」
何ともない質問だが、最近の的場の態度は少し違う。もしかしたら接し方を間違えたかもしれない。そう思った時はすでに遅いものだ。俺の癖も抑えられなくなっていた。
「ああ、これね」
俺は的場に隣の席に座るように指示し、説明を始める。二人の距離が十二月初めの頃より近い。的場の髪の毛の香りを感じられるくらいに近い。最近的場の化粧にも変化があった。だけれど俺は止められなかった。
「御手間を取らせてすみませんでした」
しっかり俺の眼を見て的場は言う。俺はその素直さがかわいく思い、また頭に手を乗せてしまった。正面にある的場の表情はいつもの恥ずかしそうな笑みで、俺は思わずクスリと笑ってしまった。不思議そうに上目遣いで見つめられ、俺は頭に乗せていた手を急いでどけた。
「また分からないことがあったらおいで」
俺がそう言うと、にこりと微笑み自分の席に戻って行った。的場に気づかれないように溜め息を吐いた。こうなったら気が逸れて仕事にならない。談話室でコーヒーでも飲もうと思い、席を立った。
追いかけるように保坂がやってきた。なんとなく来そうな予感はしていた。俺たちのあんな姿を見れば勘づくだろう。保坂は炭酸飲料を自動販売機で買って、俺の正面に座った。
「あれ、まずいんじゃないか?」
「分かっている」
言われるまでもない。だからイライラした。
「好きになったのか?」
「どちらかといえばペットのようにかわいいという感じかな」
「絶対的場は違うよ」
「気づいているよ」
「女たらしだな。しかも悪質」
保坂はゴクゴクと炭酸飲料を飲んだ。
「なんだよそれ」
「俺と話す時はそんな口調なのに、女性と話す時はすごく物腰が柔らかいんだよ。甘っとろいの。それプラスあんなことされたら勘違いくらいするよ。惚れられているってさ」
「甘っとろいって……」
保坂はわざとらしく溜め息を吐いた。
「おまえ気付かな過ぎだよ。的場が可哀想でならない」
俺は意識していなかった。誰に対しても同じように接しているつもりだった。ただ、気を許しているか許していないかの差はあるとは思う。唯一気の許せる相手が保坂だ。だからこんな乱暴な口調になる。当たり前だと思うのだが。
「思わせぶりの態度になるんだよ。そういう気がない人には素っ気ないくらいが丁度いいんだよ」
言いたいことは分かった。だけれど――
「頑張っている人を応援したいと思うだろう。頑張っている人に応えてあげたいと思うだろう。認めてやりたいと思うだろう」
「それがあの頭を撫でるという仕草というわけか。だけどな、男にはしないだろう?」
「男ならもう少し違う方法をとる」
保坂は再び深い溜め息を吐いた。溜め息を吐きたいのはこっちだ。
「まあ、こうなってしまったのは仕方ないけど、必要以上に的場に触れるな。触れるたびに彼女は勘違いをしていく。最終的に彼女を傷つけてしまうんだからさ」
「その忠告肝に銘じておくよ」
分かっている。分かっているけれど、頭を撫でることを許された今、無意識でやってしまうんだ。意識して抑え込むことがもう出来なくなっている。今更なんだ。
ということで、タイ料理。食べたことはありますよ。でも、汁ビーフンってどんな感じ?ろじゃなはどんな味?そんな風に思いながら書いています。なら書かなきゃいいのにって思うのですが、毎回イタリアンや洋食では芸がないというか……。
次回は違う女性が登場。以前少しだけ出てきた女性です。
では、これからもお付き合いください。




