加賀山桃香5
目覚まし時計が鳴る前に眼が覚めた。カーテンの隙間から射し込む陽光は柔らかく感じられる。まだ、桃香は目覚めない。まるで縋るように寝ている桃香の腕をそっとどかし、起こさないようにゆっくりと身体を起こし、ベッドから出た。目覚まし時計を止め、物音ができるだけでないようにゆっくりと部屋を出る。
シャワーを浴びた後、コーヒーとトーストの用意をする。後は桃香の好きなプリン。ケーキ屋などで売っているものではなく、スーパーで売られている三連のプリンが桃香は好きだ。もちろん、俺たちの母が作ったプリンの方が桃香の好みではあるのだが、俺にはそれは作れないので諦めてもらっている。あれを食べるだけで、少し元気を出すのだが。
朝食の準備を終え、桃香を起こしに部屋に入るとすでに桃香の眼は開いていた。ぼうっとしたまま窓の方をじっと見つめている。あの眼に何が映っているのだろう。柔らかな陽射しの中に何かを感じているのだろうか。
「モモ、おはよう」
俺の声に桃香はゆっくりと反応する。俺の方に視線を向け、挨拶のように眼を閉じた。
「朝食の準備はできているよ。きちんとプリンもあるからね」
桃香に近づき、ベッドに腰かけると、桃香の頭を優しく撫でる。頬に触れた後、桃香を起こし、一緒に部屋を出る。まるで介護をしているような感覚だ。
昨日の夜のように桃香に朝食を食べさせた後、髪をとかしてやり、洋服に着替えるように促した。桃香はゆっくりとした仕草で自室に入った。お墓参りをすれば少しはマシになる。それまでは桃香から眼が離せない。
電車とバスを乗り継ぎ、俺たちは目的の霊園へと向かう。霊園で花を買い、墓石前まで行くと、墓石を掃除し、花を手向け、線香をそえた。桃香と一緒に手を合わせた後、桃香に言葉を促す。
「きちんと報告をしなよ。結婚を約束している恋人がいるって」
「うん」
「どんな人なのかもきちんとね」
「うん」
桃香が手を合わせている時間は長かった。話す事が多いのだろう。盆も彼岸も来てはいるが、今回はまた違うのだろう。桃香にとって命日は特別以上だ。
その後、俺たちの両親の墓参りをした。桃香の両親の墓と俺たちの両親の墓は同じ霊園にある。桃香の両親は桃香の祖父母の代に建てられた墓に入った。そしてその時、俺たちの両親は後の事を考えて、同じ霊園の空いているところを予約した。もし、自分たちが亡くなったらここに建ててほしいと毎年桃香の両親の命日に言われていた。きっと、これからもずっとお墓参りが途絶えないように気を遣ってのことだったのだろう。お陰で、俺たちは墓参りが楽だ。
墓参りの帰り、近くにある蕎麦屋で昼食を食べるのが習慣になっていた。それは俺たちの両親が生きている時からの習慣で、今でもそれは変わらない。そのコースを辿ることで、桃香の感情も戻って来る気がする。今も昨日の夜に比べればマシになっている。
彼岸の時に来た時と変わらない店内に入り、前回と同じ席に座った。
「モモは何を食べる?」
確認をすると、桃香はメニューを眺めた。やはり戻ってきているようだ。
「鶏南蛮蕎麦」
「了解」
俺は鶏南蛮蕎麦と卵とじ蕎麦を注文し、出されたお茶を飲んだ。
「ご両親にはなんて報告したの?」
「うん。とても素敵な男性と出逢えたって。お兄ちゃんとも仲良く暮らしているって。まあ、パパもママもそれは心配していないと思うけれど」
「この間俺と喧嘩したよね」
「あれは喧嘩とは言わない」
「俺が一方的に駄々を捏ねたって?」
「不貞腐れた」
「拗ねた?」
「それも悪くない」
まだ表情は戻ってはいないし、話し方も本調子ではないけれど、その分口調と言葉を選ばない感じが辛辣で、別人のような雰囲気がおもしろい。こんな姿を棚島が見たらどう感じるのだろう。想像すると笑えてくる。
「まあ、兄妹喧嘩はかわいいものだもんね」
「この年で不貞腐れて家を飛び出すのもかわいい」
「そこまで言う?」
「そう言ってもらいたかったんでしょう、お兄ちゃん」
「厳しいなあ」
クスクス笑う俺をとぼしい表情で見つめている桃香は、表情を取り戻す寸前のあの頃に似ている。何年も繰り返し見続けている表情は、いつも俺に希望を与えてくれる。
届いた蕎麦を無言で食べ始めると、桃香はどんどんと元に戻って来る。俺たちの思い出の味は変わってはいない。そして、だからこそ桃香は戻って来る。
俺たちの両親と桃香と俺。初めてここに来たのは、初めて桃香の両親の墓参りに来た時だった。
桃香が俺たち加賀山家の一員になったことの報告だった。その時はまだこの店はきれいだった。出逢ってまだ間もなく、不安定な桃香の手を握り、俺は不安で心配で仕方なかった。両親はそんな俺の事も気にしながら、この店を見つけ、店に入った。
俺たちは奥の座敷に入り、俺は桃香の隣に当たり前のように座った。あの時桃香に親子丼を注文した。本当は蕎麦を食べさせてあげたかったが、麺類を食べさせる自信がなかった。桃香は俺が口に運ぶものを黙々と食べた。表情も見せずにただ黙々と。
今はもう二人で食べることになった蕎麦。来年は棚島も加わるかもしれない。その次は二人の子供が加わるかもしれない。
減った人数が増えるのは嬉しい。桃香の隣が俺ではなくなったとしても、その状況が好ましい。桃香を愛する人間が増える。桃香が愛する人間が増える。桃香を支える人間が増える。桃香の隣の席が埋まる。失うことを恐れる桃香が大切なものを得る。それは、想像以上に幸せな事だ。
命日の夜、少し戻った桃香はシャワーを浴び、俺の布団に潜り込んで来る。甘える猫のように身体をなすりつけて、心地良い場所を見つけ、眠りに就く。俺はそれを見守るように為されるままにして、その状況を微笑ましく思う。前日とは大違いの仕草に明日の復活の兆しを感じる。
目覚めると、想像通り桃香はもうベッドにはいなかった。微かに聞こえる物音。桃香の復活の音。その音に耳を澄まし、やっと闇が開けたことに安堵する。
「お兄ちゃん、時間」
ドアのノックの音と共に響く明るい声。
「ああ」
一度伸びをして、俺は布団から出た。
桃香の両親のお墓参りでした。
鶏南蛮蕎麦や鴨南蛮蕎麦はおいしいですよねえ。わたしの好みで食べさせました。本当は鴨せいろが好き(最後の蕎麦湯がいいのです)ですけれど、11月と言うことで温かいものを。
次回は的場とお仕事。
お付き合いください。




