第1話 薔薇の館で、目覚めるということ
「――アリシエル・ローズブルグ。貴様との婚約を、ここに破棄する」
シャンデリアの光が、氷のように冷たかった。
大広間に響き渡った王太子の声は、わたくしが今夜このために選んだ薔薇色のドレスの裾を、まるで血の色に変えてしまう呪いのようで。
三百人の視線が、一斉に突き刺さる。
嘲笑。侮蔑。同情。そして、歓喜。
わたくしはただ、扇を握りしめて微笑んでいた。悪役令嬢というものは、こうして断罪されるときこそ、優雅でなければならないのだと――お母さまに教わったから。
「……理由をお伺いしても?」
「白々しい。貴様が妹のリーゼロッテを殺したこと、この場の誰もが知っている」
――妹を、殺した?
その瞬間、わたくしの記憶に、真っ黒な穴が開いていることに気がついた。
思い出せない。
あの雨の夜、わたくしが最後に妹と会ったあの夜のこと。何を話したのか。妹はどんな顔をしていたのか。血の匂いは。悲鳴は。
何も、思い出せない。
けれど、口は勝手に動いていた。
「……そうでございますか。では、粛々と沙汰に従いましょう」
修道院送り。
それが公爵令嬢に許された、最後の慈悲だった。
護送馬車の窓から、雨に濡れる王都が遠ざかっていく。
がたごと、がたごと。車輪が石畳を軋ませる音だけが、わたくしの心臓の代わりに脈打っていた。
――わたくしは、本当に妹を殺したのだろうか。
思い出そうとすればするほど、頭の奥にチョコレートのように甘い霧がかかる。ねっとりと絡みつく、思考を溶かす甘さ。
ふと、指先が震えていることに気づいた。
寒いのではない。怖いのだ。
自分が何を忘れているのかを、知ることが。
その時だった。
馬車の外で、御者の悲鳴が上がったのは。
――ドンッ
激しい衝撃と共に、馬車が横倒しになる。窓が割れ、雨と、それから――薔薇の花びらが、なぜか車内に舞い込んできた。
十一月の雨の夜に。季節外れの、真紅の薔薇が。
朦朧とする意識の中で、わたくしは聞いた。
蜂蜜を溶かしたような、それでいて氷の刃のように冴え渡った――幼い少女の声を。
「ようやく、迎えに来ましたわ。お姉さま」
――嘘。
その声は、知っている。
一年前に死んだはずの、わたくしのたった一人の妹の――
「リーゼロッテ……?」
意識が、闇に落ちた。
ちゅん、と小鳥が鳴いた。
まぶたを開けると、天蓋から真紅の薔薇が垂れ下がっていた。
甘い、甘い香り。むせ返るほどの、薔薇と――それから溶けたチョコレートの匂い。
わたくしは、見知らぬベッドに寝かされていた。柔らかすぎるシルクのシーツ。真新しい寝間着。手首に巻かれた、白い包帯。
「……ここは……?」
上体を起こそうとして、気づく。
ベッドのすぐ隣に、誰かが座っていた。
黒いドレス。夜色の髪。人形のような白い肌。膝の上で組まれた、細く白い指。
そして――こちらを見つめる、血のように紅い瞳。
「……あ……」
呼吸が、止まった。
「おはようございます、お姉さま」
少女は微笑んだ。頬に浮かぶ、小さな笑窪。それは、幼い頃わたくしが誰よりも愛した、あの――
「リーゼロッテ……本当に、リーゼロッテなの……?」
震える指で、そっと妹の頬に触れる。冷たかった。氷のように。それなのに、生きている人間の弾力があった。
「ええ。あなたのたった一人の妹の、リーゼロッテですわ」
妹はわたくしの指を、そっと自分の唇に押し当てた。
そして、囁いた。
「やっと、二人きりになれましたわね」
――なれた?
「……あなた、死んだはずでは」
「あら。わたくし、一度死んだのですよ。お姉さま」
くすくすと、妹は笑った。氷の粒が転がるような、美しい笑い声。
「でも、大丈夫。もう心配いりませんの。ここは、わたくしたちだけの薔薇の館。誰にも見つからない、誰にも邪魔されない、わたくしたちの――箱庭ですわ」
わたくしは、ようやく気づいた。
この部屋には、窓がない。
いや――正確には、窓があった場所に、鉄の薔薇の意匠が張り巡らされている。美しく。緻密に。そして、絶対に開かないように。
「リーゼロッテ……ここから、出して」
「出す?」
妹は、きょとんと首を傾げた。
そして、心底不思議そうに、こう言ったのだ。
「なぜ、出る必要がありますの? お姉さま」
「だって、外は怖い場所ですわ。あなたを"殺した悪女"だなんて言う人ばかりで。修道院で一生罪を償えだなんて、そんな残酷なこと」
妹は、わたくしの手を両手で包んだ。子供のように、大切そうに。
「わたくしが、お姉さまを守ってさしあげます。この館の中で、ずっと、ずっと、二人きりで。お茶をして、お菓子を食べて、お花のお世話をして。夜は、同じベッドで眠りましょう。ね?」
甘い声。
甘すぎる声。
――逃げなければ、と思った。
けれど。
「お姉さま」
妹はにっこりと微笑んで、わたくしの耳元に唇を寄せた。吐息が、火傷しそうなほど熱かった。
「もし逃げようとしたら――足の腱を、切ってしまうかもしれませんわ」
「あら、冗談ですのに。そんな、怯えたお顔をなさらないで?」
くすくす。くすくす。
妹の笑い声が、薔薇の香りに溶けていく。
わたくしは、悟った。
――ここは、修道院ではない。
――ここは、それよりもずっと、逃げられない場所なのだと。
そして。
わたくしは、まだ思い出せない。
あの雨の夜、妹に一体、何をしたのかを。




