33. 世理架の思い出
わたくしはかつて住んでいた東京の屋敷の庭に居た。懐かしいなという思いと、どうしってここに居るのだという気持ちが同時に溢れて来る。
庭には苔の生えた石畳と池があり、その池には職人技により切りそろえられた石材で作られた見事な石橋が掛かっている。
わたくしの体はわたくしの意思とは無関係に動き出し、庭をかけ回る。池の近くに留まる小鳥達は人間慣れをしているかるからか、わたくしが近付いても飛び立つことはない。
小鳥を注視すると、それはスズメであることが見て取れた。
スズメたちはわたくしを恐れるどころかわたくしと共に池のほとりをぴょんぴょんと跳び回る。
池の小鳥達と戯れ、わたくしはその右手に小鳥を乗せて見る。
ぴょん、ぴょん、ぴょん、とわたくしはスズメと共に跳ぶ。池の石橋に差し掛かっても飛ぶ足を止めない。こうして体を動かすのは、なんだか新鮮でわたくしの心はとても大きく躍り上がる。
石橋の中央に差し掛かると、わたくしは不意に足を取られる。石橋には一点、石の削りが荒く凸上に盛り上がっている部分があった。そこに引っかかり、わたくしはそのまま重力と慣性の法則に従ってわたくしは池へと頭から落ちる。池に頭から衝突する直前、スズメがわたくしの右手から飛び立つ。
(薄情なスズメさん。一緒に落ちてくれないんだ)
池に頭から落ち、日本庭園の池ゆえに水深が浅いのでわたくしは池の底に頭を打ってしまう。
(うぐっ!)
わたくしは竜王。ちょっとやそっとの怪我では死なないし、そもそも怪我自体この程度ではしない。
わたくしはずぶ濡れのまま池から立ち上がり、周囲を見渡す。屋敷の縁側から、わたくしが池に落ちた音を聞きつけた醍醐が慌ててやって来る。
醍醐はつい二か月前からわたくしの元で働く事になった高位の信者で、わたくしの身の回りの世話をしてくれている。第一印象は好青年、目鼻立ちはキリっとしていてなかなかの美男で最初に会った時はわたくしもドキりとしたものだ。
「竜王様、お戯れもほどほどに。ほら、私の手を取ってください」
石橋にやって来た醍醐が手を差し伸べると、わたくしは彼の手を取って石橋に登る。
「竜王様。怪我など滅多に出来ない頑丈な体質とはいえ、もう少しご自分の身を大切にしてくだされ。見た目こそ少女ですが、竜王様の御歳は三十歳を超えているでしょうに」
「醍醐、わたくしはただ小鳥と戯れていただけです。そこでたまたま石橋の突起につっかかって転んだだけで」
「はぁ……傷、無いか見せて貰いますよ。どこを打ちましたか?」
「頭ですよ。どうせ怪我はないはず」
「では失礼して……」
わたくしが頭を軽く下げて醍醐に見せると、醍醐はわたくしの髪の毛をかき分けて頭に怪我がないか探す。
「……ふう、怪我はありませんね。しかし今ので風呂に入らなければならなくなりましたよ。今すぐ支度します、竜王様でも風邪は引きかねません」
「まったく、大げさな……まあわたくしの世話係であるあなたにはわたくしに何かあったら肝の冷える話ですか」
醍醐は屋敷の方に戻り、手早く風呂の支度をする。たった一人でテキパキとこなすと、四十分ほどで風呂の支度が完全に整う。
「竜王様、こちらに……」
醍醐はわたくしの手を取り、脱衣所まで連れる。脱衣所に着くと、醍醐は布を一枚わたくしに手渡す。
「洋物屋から手に入れたタオルはここに置いております、入浴後はそれで体を拭いていただければ。体はその布で洗って下さい。石鹸も切れかけていたので補充しておきました」
「ありがとう、醍醐。下がっていいですよ」
醍醐は頭を軽く下げてから脱衣所から去る。わたくしは濡れた衣服を脱ぎ、一糸纏わぬ姿で風呂場へと入る。
風呂場には一つの大きな桶で出来た浴槽があった。浴槽を加熱するための薪を入れる場所は風呂場の外にある。
わたくしは小さな桶で浴槽のお湯を汲み取ると、布を軽く濡らす。そのあと布を絞ると、石鹸を取って布にこすりつけて泡立てる。
泡立てた布でわたくしは黙々と体を洗い、小さな桶に残ったお湯で体に付いた泡を洗い流す。そしてもう一度浴槽からお湯を汲み取ると、頭からお湯を被る。
「……さて、風呂に入るか」
わたくしは浴槽の中に入って行き、全身でその湯の温かさを受け入れる。
「竜王様、湯加減はどうでしょうか?」
風呂場の外にいる醍醐の声が風呂場の換気に設けられた小窓から聞こえてくる。
「ああ、良い湯加減ですよ。ありがとう」
「竜王様、次の炊き出しはどうしましょうか」
炊き出しの話か。そういえばわたくしは貧しい者への炊き出しをやっていたではないか。
なぜこんなに大事な習慣を忘れていたのだろう。
「そうですね……ドブ板辺りでやるか、スラムが一番か……明日にはやりましょう。貧困者はいつだって腹が減っています。いつ空腹で死ぬかわからない。わたくしたちがこうしている間にも、空腹や病で死んでいるかもしれない」
「そうですね……では明日という事で。お任せください。私はいつでも、竜王様の傍にいますよ」
正直わたくしにとって醍醐の存在は頼もしいしこれ以上ない程の理解者であるとも思う。
「それはそうと竜王様、単なる雑談なのですが」
「ん? どうしたのですか?」
醍醐はしばし黙り込んで考えてから、わたくしに話題を出す。
「竜王様は、誰かを好きになったことはありますか?」
「ん? わたくしはみんな好きですよ。この国の人々や救うべき人々は皆尊いですよ」
「そういうことではなくてですね……竜王様でも誰か個人を、抱きしめたいと言いますか、恋慕の情を抱くことはあるのですか?」
「なっ! なにを聞くのですか! しかし、そうですね……」
わたくしは今までの一生を振り返る。誰か個人を、特別深く愛して恋慕の情を向けたことはなかった。
「ないですよ。わたくしは個人の物ではありません、誰か一人だけを愛することなどありません」
「竜王様、愛情にも種類があるのはわかりますか?」
「種類?」
「竜王様が人々に向けている愛情は慈愛です。人々を慈しみ、大切にする慈悲の心」
愛情に種類があるなどわたくしには考えた事がなかった。しかし言葉の種類を考えると愛情にも種類はあるのかもしれない。
「そういった慈愛ではなく、個人を深く愛するという恋愛、性愛、情愛の類を抱いた事はないのですか?」
「醍醐、それ不敬ですよ」
「私の世話係の特権という事になりませんか?」
「わたくしには、そんな経験はないですよ。わたくしは竜王だから、きっとそんな相手は現れる事は無い」
竜王とは公の存在なのだ。偶像であり、けれど実在する存在として竜理教の信者達の信仰を一心に受ける存在である。
そんな竜王が個人を好きになるなどありえないとわたくしは笑って返す。
「私にはあります」
「ほう……一体誰に」
「誰にとはあまりひけらかすのもはしたないので名前は言いませんが……そうですね、その方はとても気高い方です」
ほう。醍醐の意中の相手は気高い精神性を持っている人間と来た。
「それでいて、慈愛の心に溢れている方です。正直言って、西洋の宗教で言うような女神に当たるような方です。しかし、その方の存在は尊く偉大であり、私の手に及ぶものではありません」
「ふむ、叶わぬ恋ということですか」
どうやら醍醐の意中の相手はかなりの慈善家でありそれを行うだけの力を持つ女であるらしい。
「私はハッキリ言って、その方をお慕い申しております。生涯を共にし、添い遂げたいとも思うております。けれど、それは出来ないのです」
「それは辛いことですね」
「ええ。とても、心苦しい限りです……」
心なしか醍醐の声色は苦しいものになっている。恐らくそれほどの感情が意中の相手にあるのだろう。
「しかし、わたくしが思うに心だけは自由が許されると思います」
「自由?」
「ええ。いかなる思想、政治、宗教、風潮、様々な風流があるけれど個人の心だけは唯一自由が許されます。あなたがその方をどれだけ想おうと、想う気持ちだけは自由ですよ」
「それは……ありがたい事です。竜王様、善き助言をありがとうございます」
そう言って醍醐はわたくしの言葉を噛み砕いて黙り込む。
「そしてなにより、愛しているのならば実行あるのみ。その方の為になるように行動を起こすのです。愛しているのなら、その人を想う行動を為すのです」
「行動、ですか……言われれば簡単ですが、彼女のためになる行動は難しいものです」
「そうですか……あなたの恋路が上手く行くことを願って、今この場で祈りましょう」
わたくしは静かに浴槽の中で両手を合わせて、醍醐の恋路を祈る。
「竜王様から祈りを頂けるとは、ありがたい限りです……けれど、きっと私の恋路は果たされる事はないでしょう。それだけ相手が無理があるのです」
「そんなことはないですよ。人は無限に近い可能性を持つ。その可能性の一つをもぎとれば、必ずあなたは報われますよ、醍醐」
「そうですかな……ありがとうございます、竜王様」
醍醐からの感謝の言葉を聞くと、わたくしは浴槽の湯に身を委ねて目を閉じた。目を閉じると、全身を包む温かな感覚とお湯の湿った感覚だけが体に残る。
ふと、わたしは目を覚ました。
過去の出来事の夢を見ていたようだ。大寺院のどこかで騒ぎがあったのか信者達の怒号がこちらにまで聞こえてくる。
そうだ、わたしは部屋のベッドで軽い眠りについていたのだ。
浅い眠りから目を覚まし、ざわざわとざわめく心を押さえて部屋の扉へと向かう。
「なんなのだ?」
わたしは部屋の扉を開け、廊下を歩く。廊下を歩いて次の扉を開ければ竜院だ。
竜院の直前の扉に手をかけた時、聞き慣れた声が竜院の方から聞こえてくる。
「この声……漆紀君?」




