13. 使いの旅
シエストの城壁が遠くに見える草原で、ニスベットはしばらくの間、その城壁をじっと見つめて立っていた。
これほどまで来たことは、以前にも何度かあった。しかし、これからは、あの城壁すら見えぬ場所へと進まなければならない。
ニスベットは手袋をはめたまま、白い仮面にそっと手を添えた。この仮面は、彼女の存在を完全に覆い隠すものであり、彼女自身の意思がない限り、決して外れることはなかった。
(大丈夫。きっと、大丈夫)
そう自分に言い聞かせて、ニスベットは一歩を踏み出した。
やがて城壁の姿が消え、周りに人の往来もなくなった地点まで来ると、彼女は〈造形の核〉を召喚し、土を操って馬を作り出した。それは、見た目には立派な馬の形をしていたが、ニスベットにはまだまだ未熟に思えた。
「お父様は、本物の生きているような素晴らしい馬を創られたのに」
土でできたゴーレムの馬に跨り、目的地へと馬を走らせながら、ニスベットはオルブレムのことを思った。
あの日、小さな少女を胸に抱え、ひたすら混沌の地を駆け続けた彼の目には、一体どのような景色が映っていたのだろうか。気づけば、仮面の下の頬を静かに涙が伝っていた。
(ごめんなさい、お父さん。私はまだ……あなたを送り出す準備ができていないみたいです)
*** ***
数日が経った。ニスベットは、なだらかな丘が連なる地域にいた。
彼女は丘のふもとに陣取り、焚き火を起こし、持参したパンと干し肉を夕食として口にした。多方面に精通していたオルブレムだっただけに、料理についても多くのことを学んでいた。彼に美味しい料理を作ってあげたいという思いから、熱心に料理を覚えたため、自身の腕前には自信があった。
しかし、一人で食事をするために何かを作るという行為は、家にいる時も外にいる時も、どうにも気が進まなかった。
どこからか、獣の咆哮が聞こえてきた。顔を上げると、全身を激しい炎に包まれた巨大な獣が、ゆっくりとこちらへと歩み寄ってきていた。
ニスベットは、書物を通じて混沌の地に出没する魔獣の情報を一通り知っていた。その姿は、頭に2本の大きな角を持つ牡牛に似た魔獣――〈ブルカス〉だった。
金属ならば種類を問わず、目についたものを片端から喰らうとされるブルカスは、強力な火炎攻撃と恐るべき怪力を持ち、さらに高い魔法耐性を備えているため、討伐が極めて困難な魔獣とされていた。
だが、その危険性と引き換えに、〈ブルカス鋼〉と呼ばれる超高価な希少素材を得ることができる、最上級の魔獣でもあった。
ニスベットは、思いがけない魔獣の出現に驚き、干し肉を切っていたナイフと皿を地面に落としてしまった。慌てて立ち上がった彼女は、食事のために口元を露出させていた仮面に手を当て、再び顔全体を覆い隠した。
そして、少し後ずさりしながら、どうすべきか迷った。カラナエルから、このローブと仮面は、望まぬ相手から彼女の存在を隠してくれると聞いているが、それが魔獣にも通用するかどうかは分からない。
逃げるべきか、それとも立ち向かうべきか。逡巡していたニスベットだが、ブルカスが特に攻撃的な様子を見せないことに気づき、まずはその場で動きを止め、様子を見ることにした。
もしこの能力がエルフがよく使う〈隠蔽〉に似たものならば、動かずにじっとしていることで、相手に地形の一部――岩や木のような存在だと認識させる効果があるのかもしれない。同時に、いざという時には、魔法で対応できるよう、彼女は背後へと手を回し、魔法を発動する準備を整えた。
ブルカスはゆっくりと焚き火のそばへ近づくと、その前に落ちているニスベットの銀製ナイフを、その舌で器用に拾い上げ、咀嚼し始めた。すぐ隣に落ちている陶器の皿には、まるで興味を示さなかった。
しばらくすると、何か異変を察知したのか、ブルカスは首をかしげて周囲を見回した。ヤツの体から放たれる熱気が一気に押し寄せ、低く響く荒々しい息遣いが、すぐ耳元で聞こえるほど近くに感じられた。
ニスベットは息を殺し、張り詰めたまま、ブルカスの動きから目を離さなかった。
確かに、ニスベットはすぐ近くにいた。それにもかかわらず、ブルカスは彼女の存在にも、その隣に立つゴーレムの馬にも気づかないようだった。
しばらく辺りをうろついていたブルカスは、やがて興味を失ったのか、ゆったりと別の方向へ歩き去っていった。
ニスベットは安堵の息をついた。
冒険者であれば、大金を手にする機会を逃さないだろうが、今の彼女には、無理に困難な戦いに挑む理由などなかった。奪われたナイフは惜しいが、ローブと仮面の能力を確かめるための授業料だと思うことにした。
シエストからヘルファオンまでは、かなりの距離があった。普通の旅人や冒険者なら、道中の安全都市に立ち寄りながら進むのが常識だった。しかし、ニスベットはヘルファオンまでの最短ルートを選んだ。セルディーヌ、いや、より正確にはカラナエルの意図が分からないわけではない。それでも、彼女はこの用事をできるだけ早く終わらせたかった。
夕暮れになり、適当な場所を見つけて焚き火を準備し、その前に座っていると、遠くから数人の人影がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
5人組の冒険者パーティーだった。彼らは、焚き火の前に、女性が一人で座っているのを見て、不思議に思ったのか、足を止めてニスベットの方を見た。彼女のそばに立っているゴーレムの馬をじっと観察していた魔法使いが、小声で仲間に何かを囁いた。
しばらくすると、剣を帯びた軽装の若い女性が一歩前へ出て、ニスベットに声をかけた。
「もしや、お仲間が近くにいらっしゃるのでしょうか?」
「いいえ。私一人です」
「でしたら、私たちもここで一緒に夜を過ごしてもよろしいでしょうか? そろそろ暗くなりますし、これ以上進むのは厳しいので。もしご迷惑なら、少し離れた場所で野営しても構いません」
ニスベットはしばらく迷ったが、彼らの合流を受け入れることにした。一人でいるのが少し寂しく感じたし、彼らは悪い人には見えなかった。オルブレムと聖域の小さな家で暮らしていた頃に出会った、カービスたちのことも思い出された。
一行は、戦士のチェクスとシモナ、魔法使いのクルス、回復術士のウラ、そしてクロスボウ使いのハツで構成されていた。最初に声をかけてきたのは、戦士のシモナだった。
ニスベットは彼らに、自分の名前をロゼットと名乗った。『ニスベット』という名前は、本当に信頼できる人以外には、明かさないつもりでいた。
彼らは焚き火を囲み、それぞれが持参した食料で夕食をとった。
焚き火にかけている小さなポットの湯が沸くと、ニスベットは自分のためにお茶を淹れるついでに、シモナたちにもお茶を振る舞った。セルディーヌがアイテム袋に十分な量の道具を入れておいてくれたため、食器は足りた。
「ありがとうございます」
ニスベットに礼を述べ、湯気の立つ茶杯を受け取った一行は、紙のように薄い磁器の器に驚き、そして、豊かで奥深い茶の香りにもう一度驚いた。
「こんなに上等なお茶を飲むのは、初めてです」
回復術士のウラが、驚いたように呟いた。
ニスベットにとっては、普段から飲んでいる茶にすぎず、どう返答すべきか少し困った。
彼女はただ軽く頷き、無言で茶を口に含んだ。
アイテム袋から磁器の皿と銀製のナイフを取り出し、パンと干し肉を切っていると、ウラが慎重な口調で尋ねてきた。
「もしかして……ロゼット様は、森のエルフなのでしょうか?」
ローブと仮面で姿を覆っているため、種族を判別することは難しいはずだ。にもかかわらず、いきなりエルフと結びつけるのは少し意外だった。
「どうして、そう思うのですか?」
「お召し物や仮面、それにお使いの品々を見ても……どうも人間のものとは思えなくて」
その言葉に、ニスベットはぎくりとし、手に持ったナイフと皿を見下ろした。バラの魔塔にある物もそうだが、特に今回の旅の持ち物は、ほぼすべてセルディーヌが用意したものだった。当然ながら、それらはエルフの品々だろう。
どうせ素顔を晒すつもりがないのなら、いっそ他の種族だと思われるのも悪くないかもしれない。
「ご自由に思ってください」
シモナが干し肉をかみながら尋ねた。
「見るからに、相当偉いお方のようですが、どうしてこんな荒れた土地を、一人で旅されているのですか?」
「少し事情がありまして」
ニスベットは、初対面の相手に、自分のことをあれこれ話すつもりはなく、言葉を控えた。
一方で、なぜ彼らが自分を身分の高い者だと思うのか、不思議に思った。
今身につけている仮面やローブは、装飾も文様も一切ない、極めて簡素なものだった。だが、その純白こそが、人々の目を引きつける気品の源だった。荒れた大地にありながらも、埃や汚れ一つつかず、水のように滑らかに流れる柔らかな生地。薄霧をまとったかのように淡く漂う光沢は、どんな宝石の輝きよりも高貴な雰囲気を醸し出していた。
彼女が顔につけている白い仮面もまた然りだった。顔にぴったりと密着するほど薄いのに、継ぎ目ひとつなく、一枚の完全な形を成している。さらに、わずかな塵すら付着していない純白の磁器製の仮面は、人間の技術では到底到達し得ない領域のものだった。
そんなことを知る由もないニスベットは、彼らの視線を単なる好奇心によるものだと思った。
夕食を終えると、特にすることもなかった。
シモナたちは武器を手入れしたり、荷物を整理しながら世間話をしていた。
クロスボウの手入れをしながら、ハツがウラに尋ねた。
「今回の獲物、いくらぐらいになりそうだ?」
「うーん、素材を売ったとしても、武器の修理代に食料や水を買ったら、ほとんど残らないと思うわ」
ウラの言葉に、一同は深いため息をついた。
「もう、いつもこれだよ。こんなんじゃ、いつになったら金を貯めて、この暮らしから足を洗えるんだか」
チェクスが剣を研ぎながら、ぼやいた。
「この仕事も歳を取れば、体がついていかなくなる。早いとこ、大きな獲物を仕留めなきゃな」
魔法使いのクルスも、うんざりした表情で呟いた。
「はあ、本当に、〈恋人の心臓〉の一つでも手に入れられたら、人生逆転できるのにな……」
シモナが目を輝かせて言うと、クルスはすぐに手を振って否定した。
「妄想はやまろ! 下手すりゃ、火の鳥に焼き尽くされて全滅だぞ。俺たちのレベルじゃ、到底相手にできる存在じゃねえよ。命がけで仕留めたとしても、魔石が出る保証もないしな。
運よく倒したとしても、魔石が出なければ、ポーション代と治療費で赤字だろうさ」
シモナは不満げに唇を尖らせた。
「確かにね。火の玉を撒き散らしながら、空を飛び回る奴を仕留めるには、魔法使いのお前が、しっかり魔法で仕留めないとダメなんだけどさ。肝心の魔法が頼りないんじゃ、話にならないわよね?」
クルスはカッと目を見開き、怒りをあらわにした。
「何だと!? そもそも、魔法使いが大魔法をぶちかますには、前衛の戦士がしっかり相手を足止めしなきゃならねえんだよ!
お前らにそんな芸当ができるのか? お前らを信用して魔法の詠唱を始めたら、俺が一番に死ぬ羽目になるぞ!」
シモナも負けじと言い返した。
「そもそも、お前にそんな大魔法なんてあるの? いつも小さな火の玉か雷撃しか使わないくせに」
クルスの顔が一瞬で真っ赤になり、勢いよく立ち上がった。
「言ったな! 俺が一流の大魔法使いだったら、お前らみたいな奴らとつるんでるわけないだろう! お前らには、俺程度の魔法使いですら贅沢なんだよ!」
息を荒げながら叫ぶと、クルスは怒りにまかせてその場を飛び出し、闇の中へと消えていった。残った仲間たちも、彼の言葉にプライドを傷つけられたため、誰も彼を引き止めようとはしなかった。
思いがけず口論の場に巻き込まれたニスベットは、黙ってお茶を飲みながら、沈黙を守っていた。
ウラが気まずそうに彼女へと謝った。
「すみません。普段はこんなことないんですが、今日はみんな調子が悪いみたいで」
「構いませんよ」
仮面に隠されて、表情が見えないことを幸いに思いながら、ニスベットはただ茶碗を見つめていた。
以前に会ったカービス一行のように、若さゆえの情熱で冒険を楽しむロマンチックな雰囲気を漠然と思い描いていたが、今まさに現実の一端を見せつけられた気がした。
遠くから、憤りに満ちたクルスの怒鳴り声が響いてきた。
「くそっ、俺だって、いい親に恵まれていたら、こんなみじめな暮らしはしてねぇよ! 高級魔法書だって買えるし、やたら高ぇアイテムで固めりゃ、火の鳥だろうが、なんだろうが倒せる!」
「あいつ、正気か? あんなことして、夜中に魔獣でも呼び寄せたら、どうするんだ……」
チェクスは舌打ちすると、クルスを止めに駆け出した。




