64 「はい、あーん」
「どうしてこうなっちまった……」
俺は書類の置かれたテーブルをうつろな目で見つめながら、頭を抱え頭皮が傷つくくらいに頭を掻きむしっていた。今考えると、赤炎さんのあの目の光はおかしかった。きっと催眠術的な何かかもしれない。さらに、絡めてきた指の真っ赤なマニキュアから放たれる芳香も何か変だった。もしかすると、それら全ては計算さていたものなのかもしれない。しかし、今となっては後の祭りである。祭りならば楽しまなけれな損である。とは言え、普通の祭りは死の危険など孕んだりしていないものなのだが……。
俺は掻きむしっていた手を止め、書類に向けられていた視線をゆっくり上げると、思いっきり卑屈に媚びた目つきを赤炎さんに向ける。
「あのぉぉぉ、この薬を飲んで……死んだりとか……しませんよね? ね? ね? ねぇぇぇ?」
最後の『ね?』には、疑問形のものではなく、そうであって欲しいという願望を力強く込めてみた。
『死ぬ事なんてありえませんよ』
嘘でもいいからその返事が欲しかった。
そして帰ってきた答えは……。
「…………死ぬなんてありえません……よ?」
確かにそれは一言一句違わずに俺の望んだ返事だった。しかし、しかし、しかしぃぃ、最初の微妙な間は一体何なんだ! そして、極めつけに最後は疑問形で締めくくられているではないか。
俺は次の言葉を発しようとして大口を開けかけたまま固まってしまった。このままでは顎がはずれるかもしれない。今の俺の顔を占い師が見たならば『死相が出てますね』と百パーセント言うことだろう。
しかし、そんな絶望的な俺の表情を見てもなお、赤炎東子という女性は、営業スマイルを微塵も崩すことなく、『それがどうか致しましたか? 何か問題でも? いいえ、問題なんて有りはしませんよね』と、赤く輝く瞳が雄弁に語っている。
もはや俺に退路はなく、死地に赴く兵士のごとくこの依頼を受けるしか選択肢は無いのである。
そう、俺はそろそろ気がつくべきだったのだ。この俺の店『大宇宙堂』を訪ねてくる依頼人に、『まとも』な人間などいないという悲しい現実に……。そして、この一見インテリ風美人の『赤炎東子』も、ご多分に漏れず間違いなく『まとも』ではない一人なのだ。
もはやこれ以上言葉を重ねるのは無意味であると悟った俺が、次に言うべき言葉はこれしかなかった
「わかりました。その言葉、信じさせていただきます」
俺はソファーに深く腰を下ろすと、観念したかのように首を脱力させて天を仰いだ。いや、本当は観念などせずにここから逃げるという選択肢もある。だが、俺には見える、どの選択肢を選ぼうとも、何処に逃げようとも、この赤炎東子という人物は一度捕らえた獲物を逃しはしないであろうということを……。だからこそ、俺は観念したのだ。
「そう言ってくださると、信じていました」
こうして、俺は命の危険と引き換えに依頼を受けることになったのである。
……
…………
…………………
「なんと金剛院系列なんですね」
「はい、だからご安心ください」
俺と赤炎さんは仕事込み入った話を詰めていた。
俺をほんの少しではあるが安堵させたのは、この薬の出処が怪しいものではなく、この世界に知るものはいないという、世界有数のコングロマリットであり財閥である『金剛院家』によるものだということだ。
「とすると、赤炎さんはその金剛院財閥の医薬品開発スタッフの一員ということですね」
「……そうとも言えなくもないですわね」
なんだろう、この人いつもこちらを不安にさせる間を開けてきやがる。そしていつも断言せずに言葉を濁してくる。
「いやぁ、もしかしてこの薬、個人で作られた怪しいものなんじゃないかと心配しちゃってたんですよ。そんな訳無いですよね。天下の金剛院財閥ですもんね」
俺がこの言葉を発した刹那、赤炎さんの頬の筋肉が一瞬だけこわばったのを俺は見逃しはしなかった。
「おほほほほほほ」
そして、今度は言葉を濁すどころか、返答すらせずに笑ってごまかす始末。どうやら赤炎さんも人の子であり、依頼を受けてもらえることが正式に決まったことで、ポーカーフェイスの質が落ちているようだった。
「さて、雑談はそろそろお終いと致しまして、薬の試飲の方に移りましょう」
極めつけは、ボロが出ないうちに俺に薬を強引に飲ませる方向に持っていくという。だが、ここで俺が逃げなかったのは、次に発せられた赤炎さんのある言葉による、ある意味『言霊』による呪縛である。
その言葉とは……。
「はい、あーん」
そう言って、親指と人差指で薬をつまみ上げると、手だけでなく顔ごと俺の口元に近づけてきたのだ。吐息が当たる距離まで、赤炎さんの顔は近づいた。いい匂いがした。美人というもとは、匂いすら良いものなのだということ実感した。
世の男性諸君ならわかってくれるだろう。インテリ美人が可愛らしく『あーん』等と言い顔を近づけてきたならば、それがもし毒薬であろうとついつい飲んでしまうという事を!!
そして、艶めかしい指先が俺の唇に触れると同時に、構内に異物、いや薬のカプセルが流れ込んでくるのがわかる。本来ならば水なので流し込むのだろうが、俺はこぼれ出そうなよだれと一緒にそのまま飲み込んでしまった。思わずそのまま唇の近くにある指を舐めてしまいたい欲求にとらわれたが、既にそこに赤炎さんの指はなく、近づけられていた顔すらもそこにはなかった。
赤炎さんはどうしていたかと言うと、何やらノートパソコンのようなものを取り出して準備に入っているようだった。
ここで、俺はとてつもなく大事なことを聞き忘れていることに気がついた。
「あの……飲んでしまってからこんな事を聞くのは、とんでもなく馬鹿なことだとは思いますが……これ、何の薬なんですか?」
史上最強にお馬鹿な俺は、薬が何のためのものかすら聞かずに飲んでいたのだ。もしその効用がとんでもないものだとしたら……。俺は赤炎さんの返答を固唾をのんで待った。
「そんなに緊張なさらずとも大丈夫ですよ。こちらの薬は、身体の調子を最も良い状態へと向かわるための薬です」
「な、なぁ〜んだ。ごくごく一般的な効果じゃないですか。安心しましたよ」
俺はほっと胸をなでおろした。今までの流れから来れば、この薬の効果もまともなものではないだろうと勝手に思い込んでいたのに、まさか普通の薬局にありそうなものだとは……。てっきり、これを飲むとドリルが生えてきます。くらいのことはあると覚悟していたのに拍子抜けである。
「続いて、薬の効果をモニターするために、ナノマシンを注射させていただきます」
「は?」
赤炎さんの手には注射器が握られていた。注射器の中には見たこともない色をした液体が詰まっている。
「な、なのましん?」
「はい、ナノマシンです。これで体内の変化をモニタリングすることが出来ます」
すでに俺の腕は赤炎さんに掴まれていた。と思った次の瞬間には、注射器の針は俺の腕に当てられていた。
「少しチクっとしますよ」
「まだ心の準備が……」
と、言い終わらないうちに、ナノマシンとやらの注射針は俺の腕の中へと進み、謎の液体が注入されていく。
「うおっ」
俺は思わず変な声を出してしまっていた。とは言え、注射の痛みは普通のものと何ら変わりはなく、すぐさま体調に変化が出ることもなかった。
「準備完了ですね。あとは薬の効果が出るのを待つだけです」
赤炎さんはせわしなくノートパソコンのキーボードをいじっている。何やらナノマシン? とやらの設定をしてるようである。
俺はと言えば、特に何をするわけでもないので、首をぐるぐる回してみたり、腕をぐるぐる回してみたり、腰をぐるぐる回してみたりと、落ち着きなく身体を動かしてみた。が、これまた何の変化も起こりえない。
「この薬の効果ってどれくらいで出るんですかねぇ? そう言えば俺、別段身体が不調だったりしてないんですけど、それでも効果ってわかるもんなんですか?」
普段元気な人間が、この体調を良くするというありきたりな薬を飲んで、効果を調べられるのか? 甚だ疑問である。しかし、ここでも俺は大きな間違いをしていた。この『大宇宙堂』にやってくるような依頼人のもってきた薬が『普通』の体調を良くするものであるはずがないということに……。
ピーピーピーピー
赤炎さんのノートパソコンから、アラームのような音が響き渡る。それと同時にディスプレイに表示されている俺には訳のわからない数字列や文字が真っ赤に点灯しだす。
「え、これってもしかして、やばい奴なんじゃ……」
その時、俺の心臓が今まで聞いたことのないような大きな鼓動を鳴り響かせたのだった。




