35 のじゃー
『覆水盆に返らず』という言葉がある。こぼれてしまった水はもとに戻せない。つまりは、一度起きてしまったことは二度とはもとには戻らないという意味だ。
そう、俺の口から出てしまった『ママ』という言葉はどう取り繕うとも、なかったことには出来ないのだ。
――ああ、今ここにドラ○もんが居てくれれば、タイムマシンでやりなおすもの……。
俺は自分が野比の○太でないことを今ほど残念に思ったことはなかった。
いや、駄目だ! 諦めたらそこで試合は終了。俺は見知らぬ幼女にを『ママ』と呼ぶ三十手前男としてキャラクターが成立してしまう。それだけは何としても回避しなければならない。とすれば、この場にいる奴ら全員を亡き者にして、証拠隠滅を……。
駄目だ……。この糞五月蝿い孔明先生を亡き者にするのは何ら問題ないが、このいたいけなママ……もとい幼女をそんな目に合わせる訳にはいかない。むしろ、そんな目に合わせようとするやつが居たら、俺が命がけで守ってやるくらいだ。
「くそぅ、せめて『お母さん』ならまだ取り繕えたかもしれないと言ううのに……」
と、小声でつぶやく俺だったが、今の状態はと言うと、現時点もまだ幼女の胸の中に顔を埋めながら、頭をヨチヨチと撫でられているままだ。というか、この状況が永遠に続けばいいのに……とか思ってしまっている俺は、もう何かしら駄目なのかもしれん……。
そんな事を考えながらも、俺の頬はニヤけたままで、完全にとろけてしまっており、更には外見だけでなく内面まで高熱に溶けたチョコレートのように原型すら留めてはいなかった。身も心も蕩けるというのは、きっとこういう事に違いない。
恐るべし、まさに恐るべし。もし、この幼女が俺に向けて放たれた刺客であったとするならば、完全に射抜かれてしまっている。そうハートを!!
――そうだ! この幼女の養子にしてもらうことは出来るだろうか……。そうすれば名実ともに問題なく『ママ』と呼ぶことが出来る。この発想に至るとは、俺ってば天才なんじゃないだろうか!
古今例のない、二回り以上年下のもとへの子供としての養子縁組。そして合法的な『幼女ママ』これはもしかしたら、流行るかもしれない。空前の大ブームが起こるかもしれない。
おわかりだと思うが、この時点で俺の頭はかなぁ〜り、アレな感じになっていた。え? いつもアレな感じなんじゃないかって? おいおい、いつもはもうほんの少しだけマシなはずだ。多分……。
と、そんな折である。俺の頭を優しく撫でていた幼女の手が止まった。
「私はいつまでこうしていれば良いのだ?」
と、小首をかしげてこちらに問いかける。
「一生かな……」
幼女を至近距離で見つめつつ、本音をこぼした。しかし、この幼女の瞳は、まるで魔石のように怪しげな光を放っているように思えた。きっと、今までの登場人物のように、きっとまともな幼女でないことは、薄々気がついていたわけだが、それを改めて再認識させてくれた。
「それは少し困るな……」
幼女が眉をひそめる。ぱっつん前髪にへの字眉の幼女はとても愛らしく、もしこの幼女が魔王や死神だとしても、この評価が変わることはないだろう。とは言え、ママを困らせることは良くないことだ。だから、俺は妥協することにした。
「なら後十分くらい……」
「わかった」
俺の提案は予想以上にすんなりと受け入れられた。
てなわけで、俺はこの至福の瞬間を後十分間味わうことが出来る。ああ、出来ることならば、相対性理論なんてぶっ飛ばして、時間の概念を取り払ってしまえればいいのに……。
勿論この間も、孔明先生は『羨ましいでござる! その幼女の赤壁に吾輩も顔を埋めたいくて埋めてくて震えるゥゥゥゥゥゥ!!』と、けたたましかったが、そんな雑音は集中力マックスになっている俺の耳には届きはしなかった。限られた時間、一秒たりとも無駄には出来はしないのだ。五感全てでこれを味わわないでなんとするかっ!!
……
……………
………………………
そして時間は無情にも流れ……十分後。
「うーん! 堪能した! 肩こりが取れた! 視力がアップした! 寿命が十年伸びた!!」
名残惜しくも幼女の抱擁を終えた俺は、勢いよく立ち上がると大きく伸びをした。
しかし、これは素晴らしい効用だ。そこらの名湯秘湯なんざ勝負にならねえ。幼女ママの抱擁&ナデナデ。これは一大ビジネスが築けるのではないだろうか? ジオン脅威のメカニズムで、幼女ママを量産にしてだな……。
ベルトコンベアーを無数を流れる幼女ママ……。想像しただけで圧巻である。
「これが量産の暁には……連邦など!! ジーク・ジオン!」
俺はドズル中将なみにジーク・ジオンと天高く拳を突き上げて叫んだ。何故か孔明先生も叫んだ。そこは『ジオン』じゃなくて『蜀』を称えとけよ! と、心の中でツッコミを入れておいた。
着物姿の幼女ママはと言えば……。
「……」
この異様な光景を、まるでイースター島モアイを見るような目で(それがどんな目なのか実際知るわけないのだが、そん感じだ)、物珍しそうに物言わずに見つめていた。
そしてポンと、何か合点がいったかのように手をたたくと、ウンウンとこれまた何か合点がいったかのようにうなずいてみせた。
「ここまで来ると、評判どおりを超えて、理解不能の領域の紙一重だが……面白い」
相も変わらず、幼女とは思えない小難しい言葉を交えてのお硬い口調。その中で『評判通り』という言葉が頭に引っかかる……のが普通の人間だろうが、俺は違う!
「おいおい、そんな可愛らしい女の子が、そんな口調じゃ似合わないぞ。もっと可愛い喋りかたをしないと」
と、明後日の方向に論点を持っていく、それが俺という男なのだ。
「ほぉ、なるほど。可愛らしい口調とは具体的にはどのようなものなのだ?」
幼女ママが食いついてきた。
「そうだなぁ……」
可愛い口調。それは千差万別で、多種多様なものが存在する。語尾に『にゃん』とつける。うーむ、これはもう使い古されている。それにこの幼女ママは猫耳ではない。猫耳でないものに『にゃん』はアイデンティティの喪失に繋がりかねない。ならば、この幼女ママの服装、容貌から考えるべきではないだろうか。そこで俺はピカーンと閃いた。
「よし! 『のじゃー』でいこう! 今度から言葉の最後に『のじゃー』をつけていくんだ!」
「ほう、さっぱり意味がわからない……のじゃー」
何ということでしょう。語尾に『のじゃー』をつけることで、幼女ママの属性は更に当社比三割パワーアップしたではありませんか!
「これでよいのかなのじゃー?」
「うーむ、細かい調整はいるとしても、概ねオッケーだ! やれば出来るじゃないか!」
俺は泣いていた。感涙にむせていた。人という生き物は、嬉しくても自然と涙が流れ出るものなのだなぁと、今しみじみと思うのだった。
「理解不能だが、喜んでくれて嬉しいのじゃー」
これが『のじゃママ』誕生の瞬間であった。




