平穏という名の皮を破る怪物
「えー、そのため赤と青の玉が三個ずつ入った袋から玉を二つ取り出すとき、どちらも赤色の玉である確率は…………」
学生たちの前で授業をする、眼鏡を掛けた三十代ぐらいのパッとしない素朴な男――黒川明弘(親しい者たちからは黒の愛称で呼ばれている)はいつものように雇われている都内の公立高校で生徒たちに数学を教えていた。
「…………」
都内でも有数の進学校であることから学生たちは真剣に、少なくとも傍から見ればそう見えるよう自分の様相を必死に取り繕い、黒の授業に臨んでいた。ただ一人を除いて――
「桐谷さん、桐谷銘さん」
黒は唯一、前の黒板ではなく隣の窓から外の景色をボーッと眺めていた小柄な茶髪の女子生徒――桐谷銘の名前を呼んだ。
「っ、はいっ」
突然、名前を呼ばれた銘は慌ててその場に立ち上がると黒板に書かれた問題を見て、すぐに――
「ご、五分の一です」
正答した。
「…………正解。ご褒美に、余所見をしていた件は不問としましょう。ですが、これからはちゃんと前を見て授業を聞くように」
「は、はい…………」
問題が解けるなら授業を受ける意味がないように思う黒だが、先生という体裁上、銘に、自身の授業をちゃんと聞くよう窘めた。
「次に赤玉と青玉、それぞれ一つずつ取り出される確率は――」
黒に指摘され、銘もまた他の学生と同じように授業を受けている風を装った。
本当に学生たちが自分の授業を聞いているのか、それとも周囲に合わせて真面目に授業に臨んでいる風を装っているだけなのか、黒には分からない。
だがそんなこと黒にとってはどうでもいいことだ。
黒はただ、自身を雇った雇用主であるこの高校と事前に交わした契約内容に基づき、得られる対価に相応する質の授業を提供するだけ。それを受けて彼らが期末試験で良い成績をとれるか、希望の大学に合格できるかは全て彼ら次第。
彼らの多くは恐らく、この授業の内容を、試験でいい点を取るためだけの知識とでしか捉えておらず、それが日々の生活でどう役立つのか、その知識に内在する潜在的価値を見出そうとする者はほとんどいないだろう。
仮にもしそんな人がいるならその人は本当の意味で頭の良い、賢い人だと黒は思っている。
(それだけの頭を持っていれば、学年一位をとることも容易でしょうに)
これまで何度も説明してきた内容を、ほとんど無意識に口を動かしながら黒は横目でソッと銘を見て、すぐに視線を黒板に戻した。
今日も今日とて、筒がなく黒は自身の仕事(授業)を終えた。
その日の夜――
グチャァァァァァァァァ
「ひ、ひぃぃぃ」
人気のない路地裏、そこで一人の気弱な学生を三人の不良学生がカツアゲしていた。
不良学生たちはいつも、この辺りでカツアゲする、カツアゲの常習犯。気弱な学生は黒が勤めている公立高校の生徒である。
塾の帰りに不良生徒に絡まれ、渋々財布を出そうとした矢先、頭上から獣のようなうめき声が聞こえ、顔を上げた瞬間、その学生は頭上の壁に貼り付いていた怪物に頭から喰われた。
直後、不良学生二人も怪物の獰猛な爪に深々と切り裂かれ、絶命した。
残った、不良学生一人も、今まさにその怪物に殺される間近だった。
「グアッ」
獲物を前に大きな顎を開ける、怪物。
不良学生は、目の前の出来事に腰を抜かし、足も恐怖で竦んでいた。
結末は、あっけないものだった。
グチャッ、ムシャムシャムシャムシャ
怪物は、文字通り学生たちの骨の髄までしゃぶりつくし、残されたのは地や壁に飛び散った血の跡と食後の骨だけだった。
彼らの骨は、近くの飲食店が捨てた牛や豚の肉や骨が入ったゴミ箱の中に捨てられていた。
★★★
「はあ、やっと今日が終わった」
やることを終え、帰宅した黒はすぐさまシャワーを浴びた。
「早く土曜日にならねえかな」
シャワー直後、黒は自宅の冷蔵庫をあけ、ソレを取り出した。
「手か、骨ばっかで食べずらいんだよな…………(ま、仕方ないか)」
そう言って黒はソレを口の中に頬張った。
「また新しいのを調達しないといけないな(明日あたり行ってくるか)」
そんなことを考えながら、黒は味がしなくなるまでソレをしゃぶり尽くした…………
翌朝――
「案の定、大騒ぎになっていますね」
黒が高校に出勤(登校)してすぐ緊急職員会議が開かれた。
内容は、昨日急に行方をくらませた生徒について。生徒たちもこの話題で朝から盛り上がっており、受験が嫌になって家出したのではないかといういたって普通の、なんのおもしろみもない推論をしているものもいれば、夜のお姉さんにかどわかされそのまま夜の街に消えていってしまったのではないか、ヤバイ組織の裏取引を偶然見てしまい捕まってしまったのではないかという突飛だが、どこかで聞いたような妄想をしている者もいた。
中には、人間を食べる怪物に食べられてしまったのではないかという者もいたが、周囲の物から失笑を買っていた。
「えーですからして」
黒は会議中、欠伸が出そうになるのを必死で堪えていた。
(こんな益体もない会議にいつまで時間を使うのやら)
生徒が行方不明になったからといって、ただの高校教師に警察に通報する以上のことはできない。
会議の内容は、行方不明になった学生について行方不明になる心当たりはないか、仮に家出であった場合、家出先に思い当たる節はないか…………
そんなものあったら、ここではなく、すでに警察に話している。
そして保護者や学生、マスコミに対しこの件に関してどう対応するかについて。
(結局、誰も本当に行方不明になった学生を心配してはいないんだな)
守りたいのは学校のメンツ。学校は生徒のために最後まで最善を尽くしましたよという体裁がほしいのだ。
(つくづく、こんな益体のない会議をするぐらいなら、次の授業の準備をしていた方が幾分もましだ)
黒は会議の間ずっと、昨日の銘と同じように近くの窓から見える景色をボーッと眺めていた…………
「ねえねえ、聞いた聞いた」
「聞いた聞いた、やばいよね」
「ストレスかな」
「昨日、不良に絡まれてるの見たって友達がっ」
「え、じゃあ、その人たちに誘拐されたってこと」
「でも、その人たちも行方不明なんだって」
「えー、なにそれ怖い」
「なんか怪物見たって、言ってる人もいるんだって」
「じゃあ、その怪物に食べられちゃったのかな」
「酔っ払いの妄言だろ。あてになんねえよ」
(…………あほらしい)
昨日行方不明になった学生について盛り上がる同級生たちの話を、銘は自身の窓際の席で、自身のスマホをいじりながら話半分に聞いていた。
どれもこれも、空想に頼りきった荒唐無稽な話ばかり。
誰も、真剣にこの事件を解決したいと思っていないのだ。ただ、退屈な日常に唐突に訪れた、事件(非日常)に目をキラキラ輝かせているだけ。
要はただの暇つぶし。
事件を解決するために、わざわざ自分の貴重な時間と労力を使おうという奇特な人間は誰もいない。
桐谷銘、ただ一人を除いて…………
放課後――
「何をしているんですか、あなたは」
「あ、先生」
黒は街行く人々に片っ端から話しかけては、迷惑そうな顔をされている生徒――桐谷銘の姿を見つけ、眉間に皺を寄せた。
銘は、見るからに柄の悪そうなチンピラのような男にも臆せずにガンガン話しかけていた。
「何って、そりゃ…………」
黒に話しかけられ、銘は黒の顔、だけでなく手に持ったノートパソコンを目敏く見つけ、ニヤッと口角を上げた。
「先生と同じです」
黒の家は銘の家と同じ方向にあり、高校を起点にして、ここのちょうど反対。意図せず、偶然ここを通るはずがない。
黒も銘同様、ネットで今回の件について調べ上げ、一番怪しい――事件に関係ありそうな場所がココだと突き止め、現地調査に来たのだ。
目的は銘と同じ、行方不明になった生徒の捜索と真相の究明。
「…………動機はあなたと一緒じゃないですけどね」
(確か銘さんは、探偵クラブという非公認の部活を勝手に立ち上げていましたね。部員一名、顧問不在の、自己満足組織)
ちなみに黒が銘を上の名前ではなく下の名前で呼ぶのは、二人の間にただならぬ特別な関係がある、というわけではなく、ただ単に同じクラスに桐谷という名前の生徒が二人いるため、平等にどちらも下の名前で呼んで区別しているためである。
銘は己の正義感と自身が立ち上げた校内で全く知られてない探偵クラブの宣伝、この事件が内包する未知的な魅力に惹かれて。
黒は今回の事件が今、黒が享受している日常という名の平穏を乱すことがないよう、未然に対処するため。
二人はそれぞれの事情と思惑、それに基づいた合理的選択の結果、ここで偶然にも出会ってしまった。
(さて、どうしたものか)
黒は考えた。
「危険だからすぐ家に帰りなさい」と言うのが教師として、彼女より年上の大人としてごおく一般的な対応だ。銘が素直にそうしてくれるなら、黒的にもそれが一番精神衛生上助かることである。だが――
(人一倍好奇心の強い生徒だからな、この人間は)
銘が素直に従う可能性は限りなくゼロに近い。今まで、教師として銘を見てきた黒はそう考えた。
では、銘と一緒に事件の真相を追うか。
それはそれで、今後の展開次第では黒が困る状況になる可能性がある。
(もし今回の事件にあいつらの誰かが関わっていたら)
可能性は低いと思うが、もし、万が一、今回の事件が黒の想像する最悪の事態に発展すれば…………それだけは避けなければならない。
適当に話して銘と別れるか。
銘の勝手な探偵(部)活動には見て見ぬふりをして…………
(いや、ダメだ。別れた後、事件に巻き込まれる可能性がある)
肉食動物の狩り場はある程度決まっている。連続殺人犯も犯行には独自のルールやこだわりを持つ者が多い。
犯人は現場に舞い戻るという言葉もある。
銘がこの場に留まれば、事件に巻き込まれる可能性は、高くはないが、それほど低いわけでもない。
少なくとも、このまま真っすぐ家に帰って、途中で交通事故に遭う可能性に比べれば、全然高い。
(万が一事件に巻き込まれたら、クラス担任の俺もただじゃすまない。保護者やマスコミへの対応、警察への捜査協力。ただでさえ長い残業をさらにしなくてはいけなくなる)
それでは、せっかく手に入れたこの日常を満喫できなくなる。それでは本末転倒だ。
結果、黒は第四の選択肢を選び取った。
「銘さん」
「はい」
「学生が一人、こんな時間、こんな場所にいれば、どんな事件に巻き込まれるかわかりません。私も付いて行ってあげますから、一緒に帰りましょう」
「ええええええええ」
第四の選択――銘と一緒にこの場を離れる。
事件の真相がどうであれ、黒と関わりない人間が何人事件に巻き込まれたところで、黒には無関係。現状、銘が事件に巻き込まれることの方が黒にとって厄介。
銘を自宅まで送り届ける。
(自宅まで送り届けるのは少々面倒だが、諸々のリスクとそこから派生する面倒ごとに比べれば、妥協案として十分だろう)
銘の不平不満を一切無視して、強制的に銘を自宅に連行しようとする黒。
だが――
「ん」
銘は近くの路地に、わずかだが赤黒い染みがあるのを発見した。
「銘さん」
銘はすぐにその染みに近づいた。
「なんだろ、これ」
染みはさらに路地の奥の方へと続いていた。
銘は自身の好奇心に従い、路地のさらに奥へ――
(なんだ)
銘の後を追い、黒も奥へ向かった。
「っ――」
染みを追って、路地を奥へ、奥へ…………
そして辿り着いた先――
「銘さん、どうしました」
突然、足を止めた銘の隣に、黒も並んだ。
染みを追って行きついた先、少し開けた空間の地面と壁一帯に生臭い赤黒い染みがべったり塗りたくられていた。
「銘さん、行きますよ」
すぐにこの場から離れた方がよいと判断した黒は、強引に銘の腕を掴んで共にこの場から離れようとした。だが――
「っ――」
突然、銘の背筋を冷たい何かが伝った。
「…………」
何かが自分の背中に向け落ちてきたのだろうと直感的に理解した銘は恐る恐る、顔を上に上げた…………
視線の先、灰色の皮膚をした、平均的な成人男性より一回り大きな体躯を持つ怪物。今回の事件の犯人――行方不明の生徒たちを喰らった怪物が、黒たちの頭上、建物の壁に貼り付き、涎をだらだら垂らしながら黒たちを見下ろしていた。
「グラァ」
(ちっ)
怪物を見て、黒は内心舌打ちをした。
黒が想定していた、最悪の事態。
この事件に、未だ人間たちに存在を知られていない怪物が関わっており、怪物の存在が人間たちに知られてしまうこと。
怪物は今、黒の担当するクラスの生徒、銘と邂逅した。




