これはいいパンの耳だ……たぶん
今日もまたパン屋へと向かった。
しかし店内。
そこを支配していたのは、焼けた小麦の残り香ではない。
粗暴な男たちの体臭と、暴力の気配に怯える看板娘の短い呼吸音だった。
「なぁ、嬢ちゃん」
汚れた革鎧を軋ませて男が笑う。
その手は、少女の腕を力任せに掴んでいる。
「親父の借金は、あんたが働いて払う契約なんだよ。なぁ?」
(回収業者か。嫌なことを思い出したな)
彼女は恐怖で歪み、ひっくり返ったカゴからパンが散らばっている。
男の足跡が生々しい。
「……あいつの言い分。それと、腕を掴んでいるが、あれに正当性はあるのか?」
『――否認します。法的な根拠に関しては、情報をゴーグルへ転送します』
(なら、依頼の邪魔者はご退場願おうかね)
男達の横を通り過ぎて、彼女に話しかける。
「パンの耳、まだ残ってる?」
「え……っ? あ、は、はい……っ」
この状況で対応できる辺り、プロというべきか。
「ふざけてんのかテメェ! 引っ込んでろ!」
怒号。
借金取りのリーダー格が、俺の胸ぐらを掴んできた。
「……知らないのか?」
俺は、至近距離で男の瞳を見据える。
「このゲームでは、街でプレイヤーに危害を加えることは禁止されているんだぞ」
「は? 何を言って……」
ゴーグルに映された情報をカンニングしながら、丁寧に説明させてもらう。
「規約第12条『ハラスメント、および不当な拘束』。……あぁ、それと第4条の『非戦闘エリアにおける暴行罪』にも抵触しているな」
他にも諸々あるが、その辺は運営に確認してもらえばいいだろう。
「――通報させてもらった」
「通報だぁ? 運営がこんな小競り合いに動くわけねぇだろ!」
「プロなら、もう少し上手くやるんだけどな。……素人か?」
お前の、それ、動揺を隠すための虚勢だって丸分かりだ。
「プレイヤーに手を出した時点で、小さな揉め事ではなくなっているんだよ。ああ、それと――」
未だに胸倉を掴まれている。
だが、勝算があるときの虚勢は、不敵に笑うくらいがちょうどいい。
「『させてもらった』という言葉は、過去形なんだぞ」
その瞬間、男の顔色が変わった。
「……チッ、冗談じゃねぇ。おい、行くぞ!」
このゲームは大きな経済圏だからな。 アカウントの永久停止は、人生へのダメージが大き過ぎる。
「ああ、もう一つ」
逃げようとする背中に、慈悲深い俺は追加でアドバイスをくれてやった。
もちろん無料で。
「今すぐ反省した証拠を残せば、ログを運営が見るかもしれないぞ。例えば――」
床に指でさして、丁寧に教えてやる。
「――床に散らばった商品の代金とかな」
なんて俺は、善意に溢れているのだろうか。
損害を減らすコツを教えてやるなんて。
「……ッ、チィッ! ほらよっ! これで文句ねぇだろ!」
パンを置いてあった棚に、硬貨が乱暴に叩きつけられた。
「慰謝料はないのか?」
「クッ! これでいいだろ!!」
ヤケになったのか、革袋を丸ごと叩きつけた。
「……口止め料は? 出さないのか?」
出してくれたら、俺の消費したカロリーが報われるんだがな。
「へっ……」
返ってきたのは、吐き捨てるかのような笑い。
それと、その後の僅かな沈黙。
「……『させてもらった』っていう言葉は、過去形なんだろ。もう通報したんなら、払う必要ねぇよな!」
思ったよりも、間抜けではなかったか。
「残念だ。『今』、通報させてもらった。――と、言ったら怒るか?」
「お前っ! ……いや、くっくく。やるじゃん」
男の背中は負けたヤツとは思えないほど、堂々としていた。
それにしても、よくあんなに、ふてぶてしくいられるものだ。
これは一種の才能だな。
「あ、あの……ありがとうございます。助かりました」
震える声。
彼女は、未だに強張った表情のまま。
しかし、すまないが用件をすますことにしよう。
「礼はいいさ。それより――」
助けたのだから、少しくらいサービスをしてくれるだろう。
「一番うまいパンの耳がどれか、教えてくれないか?」
「え……? ふ、ふふっ……」
彼女は、頬を緩ませると、この店で一番のパンの耳を教えてくれた。
差し出された紙袋から、手の平に微かな熱が伝わる。
外に出ると、中身を取り出して確信した。
焼き色の濃さが違う……気がする。
(これはいいパンの耳だ……たぶん)
オーブンの熱に耐え抜いた、小麦の生命力を凝縮した芸術作品――などと、ありがたみを強調してみた。
さて、冷める前に食べるとしよう。
口の中に入れると、焼けた小麦の香りが鼻腔を突き抜ける。
奥歯で砕く。
快音。
抵抗。
僅かな甘み。
……。
…………。
――味、同じじゃないか?
俺は、違いの分からない男だったようだ。




