33:ユージーン
「ああ、アレクサ……僕の、アレクサンドラ」
両腕を広げて駆け寄ってきた男は、あと少しのところで、私のところまではたどり着けなかった。
「うぁ、な、何、誰っ」
マクシミリアンに襟首を掴まれて、為す術もなくぶら下がりながら暴れている。
「なにコイツ」
さっきまでの笑顔が嘘のように、冷たい声でそう言って、マクシミリアンは彼をぐいと締め上げた。
「王国での名前は捨てましたので、今後はクロエとお呼びください」
二人の側に立って、男の視線をしっかりと捉えた上で、私はそう言った。
「それでお兄様。どのようなご用件でこちらに?」
マクシミリアンが突然手を放したので、兄は地面の上に落ちた。
「クロエの兄上なの?」
マクシミリアンの表情に、驚きと憧憬が入り混じっている。
地面に尻餅をつく形でひっくり返っている兄は、喉を強く圧迫されたせいか、すぐには声が出ない様子だった。
暗殺要員として動員された可能性もあるが、今為す術もなく縊られたところを見ると、力も体力も無さそうな彼に、マクシミリアンを殺せるとは思えない。
それに、この貴族とは思えない、実用的で簡素な服装。
初心者狩猟民に支給されるデフォルト装備では?
「そう。兄の──」
と言いかけて、私は固まった。
(名前、何だっけ?)
思い出せない!!?
私は急いで記憶を辿る。
確か王国では毎日、父と兄と一緒に朝食を摂っていた。
使用人に傅かれ、各自が別室で一日を過ごす冷めた関係だったが、唯一家族の生存を確認できるのが朝食の場だ。
父親の喚起に触れないよう、兄も私も一言も喋らない食卓で、父親だけが話をする。
それは会話ではなく、朝礼で会社の社長がするような事務連絡と叱責だった。課されたノルマを達成できなければ、突き上げられて、罰を言い渡される。
そういえば、あの父親はいつも、おい、としか言わなかった。もしかしたら、子どもの名前を把握していなかったのかもしれない。
部屋も離れていたし、朝、そこに居るだけの存在だった兄。
向こうから会いに来る事もなく、私から会いに行くこともなくて、交流は全くなかった。
それでも、いくら何でも兄の名前を忘れるなんて。
『私かんけーありませーんって』
脳内ザイオンが、私の過去の罪業を蘇らせ、心を抉る。
『相変わらず他人には関心無いってか』
「アレ──」
兄がもう一度呼ぼうとしたので、私は急いで地面に膝を突き、念を押した。
「クロエ、です」
「クロエ」
兄は、私に飛びつくようにして、抱き締めてきた。
「僕も国を捨ててきた。お前だけが僕の家族だ。僕を、独りにしないで。僕を置いて行かないで──」
そう言ってむせび泣く彼の名を、私はまだ知らない。
この人もずっと、あの家で父親からの圧に耐えながら孤独に生きていたのだろうか。
言葉すら交わさない妹を、心の支えにせざるを得ないほどに。
本当に私って、ザイオンに言われたように、自分の事しか考えてなかったんだなと気づく。
同じ立場のこの人を、もっと気に掛けるべきだったのに。
「ごめんなさい、お兄様。独りにしてしまって……」
悔恨と共に、私は兄を抱き返す。
広場に居合わせた狩猟民達が周囲に集まってきて、私達兄妹の感動の再会を見守っていた。
妹が自分の名前を覚えていない事を知ったら、ショックを受けるだろうか。
受けるだろうな。
拍手したり、兄の様子にもらい泣きをし始める人まで出始める中、私は焦りながら、側に居たマクシミリアンに視線を送って合図した。
(この人に自己紹介してから、名前を訊いてあげて──!)
心得た、という顔をするマクシミリアン。
「お義兄さん」
マクシミリアンは兄に向かって、片膝をついた。
兄は、自分を締め上げた男に、濡れた目を向ける。
「先ほどは失礼しました。僕は、マクシミリアン。親しい人はマックスと呼びます。よろしければ今から、僕とクロエの家で、昼ご飯をいかがでしょうか」
違う!
何かいろいろと違う!
「貴方は……」
兄の瞳に、マクシミリアンをはっきりと認識した様子が見えた。
「もしかしたら貴方は……側近の男性と駆け落ちしたという、マクシミリアン第一王子殿下?!」
「そうです」
マクシミリアンが自信満々に肯定するが、ちょっと待って。
「マクシミリアン第一王子で合ってますが、噂の部分は間違いです」
何やら話が変な方向へ転がりそうなので、私がしっかりと訂正しておいた。
兄の手を取って立ち上がった私は、誤解されそうな部分を更に補足する。
「マクシミリアン殿下はこの拠点にお屋敷をお持ちですので、私は今はそちらに居候させてもらって、狩猟の方法を教えていただいているのです」
「中古ですが、クロエの好みに合わせて改装しました」
「側近との噂は、いろいろと間違っているので、後で詳しく説明させてくださいね」
狩猟民達に囲まれている状況で、国王の隠し子の話はできない。
「ザイオンは美味しいご飯を作ってくれます」
さっきから真顔で、変な合いの手入れるのやめてマックス。
兄は感激した様子で、マクシミリアンの両手を取って自分の額を押しつけんばかりに頭を下げた。
「ありがとう、……ありがとうございます。貴族社会しか知らない、か弱い妹が、この過酷な世界にたった一人で、無事でいられるのかと、ここに来るまでは本当に心配で、生きた心地がしなかったです。貴方が保護してくださっていたのですね。父の暴力のせいで、顔に傷を負って悲嘆にくれているかもと思っておりましたが、このような元気な姿を見る事ができて、本当にありがたいです」
こんなに喋る人だったのか、と初めて見る兄の姿に、私は驚いていた。
「父の暴力?」
マクシミリアンの顔色が変わった。
「どういう事か訊いてもいいですか?」
断罪されたあの日の事は、この国に来る過程の一つで、今となってはどうでもいいことだと思っていた。でも、婚約破棄の相手はマクシミリアンの弟で、王位継承権に関係のある話なのだから、もっとちゃんと、マクシミリアンには話しておくべきだった、と私は今更気づく。
そこに、聞き覚えのある、苛立った声が聞こえてきた。
「ユージーン!」
はっと顔を上げた兄の様子から、それが彼の名前だとわかる。
良かった。
最悪の結果にならなくて、本当に良かった。
その一瞬だけ私は、声の主に感謝した。
(そう、ユージーンだったわ。母親が心を病んで引き籠もってしまう前に、時々食卓で、そう呼びかけていたっけ。そのたびにあの父親が、甘やかすなと怒鳴っていた……)
「見つけたのか!?」
そう言って、私達を取り囲んでいた狩猟民達の輪をかき分けて近づいてきたのは、アッシュブロンドの髪の男、モスタ王国の第二王子だった。
兄のユージーンはさっと、私を背中側へかばう。
目の前に揃うと、第二王子とマクシミリアンは似た顔立ちをしていた。
……違う。
よく見ると、第二王子は性格の悪さがその顔に滲み出ている。
全然似てない。
背格好も、マクシミリアンの方が背が高くて、がっしりしている。
(マクシミリアンの方が、断然格好いいし、可愛いわ)
第二王子の、時間をかけて整えて撫で付けた髪より、マクシミリアンの、今朝ちょっとだけ整えました的な髪型の方が自然で、素敵に見える。
最後に会った時よりも一層、感情的に歪められた第二王子の口元を見ると、こんなのが婚約者だったのか、と愕然とした。
多分私は今初めて、『王子様』というフィルターを通さずに彼を見たのだろう。
服装は、カプリシオハンターズ共和国の気候が若干暑いためか王国にいた頃よりも簡素だが、フリル満載の白シャツに黒の騎乗用ズボン、黒色のブーツという貴族的な出で立ちだった。
狩猟民として移住してきたわけではなさそうだ。
王位継承権で何か異変があった、というような話は聞いたけれど、それでこちらに出向いたのだとしたら、用件の内容は聞くに値しないものに違いない。
私はとても残念な気持ちで、言った。
「ウィルヘルム……ここは自由の国、カプリシオハンターズ共和国よ。貴方のような高慢な方には相応しくないわ。さっさとお帰りになって」
「私の名前は、ウィリアムだ!」
モスタ王国第二王子が怒鳴った。
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