3-10:ロスト
朝起きた時からあった違和感は、午後になっても続いていた。
何かをしなくては、という焦りのようなものも感じた。
母が亡くなって以来、ザイオンは幽閉されたまま一人静かに過ごしてきたので、そんな風に焦ることなど殆どなかった。
北の離宮には教科書がたくさんあったから、ザイオンは子どもの頃から知識欲のままに勉強してきた。本を読む以外では、毎日森を見て回って、増えすぎた雑草を刈ったり、暖炉で焚き付けにする枝葉を集めたりした。どちらも、焦ってするような作業ではない。
今すぐしなくてはならないことなど、ザイオンには考えつかなかった。
情緒もおかしい。
何かが足りない、という気分が付き纏っている。その正体を見極められずに、ザイオンは苛ついた。使用人たちの数人が北の離宮に居座り、狭い居間や寝室を掃除し、彼の後を付いて回るのでゆっくりと考えられない。
外に出たザイオンは、数人の騎士が北の離宮周辺に配置されていることに気づいた。
(今更何を守っているんだ? 俺か?)
冷笑を浮かべると、彼は森の中を進む。
住み慣れたこの森は、これまでは人気のない快適な場所だった。
なのに数歩行くごとに騎士がいて、静かに会釈する。
距離を保って、使用人も一人付いてきていた。
馴染みの古い切り株に辿り着くと、そこに腰掛けて、ザイオンは本を広げた。
母の蔵書の一つで、カプリシオハンターズ共和国へ偶然辿り着いた海洋冒険家の記録だ。
子ども向けだが、貴重な情報が書かれている。何度も読んだことのある本で内容はほぼ知っていた。ただ、近いうちにここを出ることになるのなら、今のうちに再読しておこうと思った。
ふいに、強い違和感に襲われる。
本の中身のことではなく、ここまでの過程で見慣れないものがあったと、記憶を辿り始めた。
(何だ──?)
彼は顔を上げて、周囲を見回す。
少し離れた場所で、使用人一人と騎士が二人こちらを見守っていた。
それ以外は、よく知っている景色だ。
生まれてから今まで、ずっと眺めてきた森の木々──
(あんなところに、枝があったか?)
すぐそばの木をザイオンは見上げた。
おかしなところはない。
普通のオークの木だ。
初夏の日差しを受けて、枝葉を元気に広げている。
なのに、そこにある枝の一つについての記憶がおかしい。
『見て見て』
幼い声が呼ぶ。
『マクシー見て』
枝の裂ける、甲高い音。
ぞっとするような、恐怖の感情が駆け抜けた。
(そうだ──あの枝は、折れていたはず)
泣き声に、ほっとした。
あの時の……あれは?
(誰だ?)
懐かしいような、ムカつくような、相反する感情の入り乱れた妙な気分が迫り上がる。
記憶を辿るが、この場所に子どもが来たことなどない。
夢でも見たのか、本を読んで想像を働かせた映像を、実際にあったことと勘違いしたのだろう。
手元の本に集中しようとしたが、できなかった。
ザイオンは木を眺め、そこに確かに枝があることを記憶に留めた。
おかしいのは枝ではなく、自分だ。
結局同じページを何十分も眺めていた。
日が高くなり、日差しが強くなり始める。
ザイオンは本を閉じると、離宮へと引き返した。
午後のお茶を出した後、使用人たちは城へと帰っていった。
騎士たちは北の離宮を取り巻いている。
あの派手な色合いの制服は近衛兵だ、とザイオンは思う。
そんなことを知っている自分に驚いた。
この国や、王宮内のことには少しも関心がなかったはずなのに。
静まり返った部屋を、ザイオンは眺める。
静か過ぎる、と思った。
こんなにゆったりと過ごしたのは久しぶりだ──
そんなはずはないのに。
今までずっと、二十年近くも一人で過ごしてきた。
なぜ今になってこんな気持ちになるのかと、ザイオンはソファに座って居間を見渡しながら考える。
扉を開けて、誰かが騒々しく入って来そうな気がしていた。
(誰が──?)
どうかしている。
どうしてだ。
(なぜ、こんな気分になるんだ?)
寂しさなんて、今まで感じたことなどない。
一人でいることが当たり前だったからだ。
急にここを出ることになって、感傷的になっているに違いなかった。
ザイオンは冷めた茶を口に含む。
ベリー系のフルーツティの甘みが口の中に広がった。
カップを置いたザイオンは、テーブルの上のソーサーを眺める。
母のお気に入りで、ピンクの大きな花が薄く焼き付けられていた。
(懐かしい)
そんな感想が浮かんだが、奇妙過ぎた。
ずっとここにあって、日常的に使っていたはずの茶器だ。
懐かしいなどと思うわけがない。
『見て! 綺麗!』
指先でクルクルと皿を回す少年の姿が、思い浮かんだ。
母の使っていた、思い出のある大事なソーサーだ。
何やってる、と思わず大声が出た。
怒鳴るべきじゃなかったのに。
びっくりしたマクシミリアンが皿を落とし、結局割れてしまった。
泣きながら、破片を集めたことを思い出した。
(マクシーの馬鹿め……!)
怒りの感情を呼び起こされ、ザイオンははっとする。
「マクシー?」
違和感の正体がようやく、わかってきた。
(なんだ? どうなってる?)
記憶が切れ切れで連続していない。
何かがおかしいとわかったが、焦る気持ちが募るばかりで、どうすれば良いのかがわからなかった。
彼は北の離宮を隅々まで調べた。
「マクシー?」
本棚の並ぶ居間や寝室、台所を見て回る。
「どこだ?」
北側に接している地下への階段と、無人の地下牢にも下りてみる。昔母親が閉じ込められていたところだ。
どこにも、他の子どもの痕跡はない。
倒されて壊れたはずの本棚にも、傷一つ残っていなかった。
真っ二つに破られた絵本も綺麗なままだ。
(想像上の友達……なのか?)
それにしては、記憶が生々しい。
居間に戻り、ザイオンは扉の方を見た。
小汚い格好をした子どもが扉を開けて入ってきた、その瞬間のことが確かに記憶にある。
銀色の長い髪は、櫛を入れたことがないのではないかと思えるぐらいにもつれ合っていた。手足の爪も長い。着ている服は色が抜け落ちていて、丈が足りていない。
子どもの顔は、ザイオンの父親によく似ていた。
『城に浮浪児がいるなんて、とんでもないな!』
呆れてそう言った事を覚えている。
放置され、言葉も話せなかったマクシミリアン王子。
ザイオンがその面倒をみた。
あれが全て夢だったとは、到底思えない。
どこかにいるはずだ。
記憶が抜け落ちているだけで。
ザイオンは外に出て、北の離宮を取り巻く近衛兵の一人に声をかけた。
「マクシミリアン王子はどこだ?」
近衛兵は、ニキビがたくさんある若い顔に、不思議そうな表情を載せた。
「……随分昔に、お亡くなりになったと聞いています」
受けた衝撃を、ザイオンはそのまま表情に出してしまった。
近衛兵が不安そうに、もう一人の近衛兵と視線を合わせている。
『兄上』
笑顔で呼びかけてくるマクシミリアンの顔を、思い出す。
成長して、大人になったマクシミリアンだ。
だから、死んでいるはずがなかった。
死んでいれば、王族の墓地に埋葬されるから気づくはずだ。
北の離宮は元は王族の墓を保守する墓守の小屋で、墓地のすぐそばにあった。
ザイオンは母親の墓を訪ねた。
墓地の一番奥に、母の墓がある。
まだ新しい一輪の花が添えられていた。
毎朝訪ねてくる父王の仕業だ。
(今更いくら花を添えて後悔しても、何の意味も無いのに)
怒りに任せて、彼はその花を踏み付けようとした。
母親の墓よりも手前に、小さな墓があることに気づいた時、突き上げた怒りが消えた。
『マクシミリアン・モスタ』
十八年も昔の日付がそこにあった。
「お……まえ」
ザイオンは跪く。
「なんで、そんなところに」
あとは言葉にならなかった。
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