【終章】
帰路はまったく散々だった。
ガーランド姫をなるべく早く領地へ帰す為、航路ではなく、またも漆黒の魔境の道を選んだのだが、ベルノは魔力酔いで──こればかりは自然に抜けるのを待つしか無く、魔物の力でただちに治すということは出来ない──無様にも三日間、指一本動かせない状態でアルヴァの背に乗せられ、荷物のように運ばれる有り様だった。アルヴァの背に揺られながら、他の仲間にも気づかれないようこっそりと、ベルノはゴーシュを思って何度か泣いた。
ガーランド姫とヴィクトルは暗く沈んでほとんど何も喋らず、ミラは何事か考え込んでいたし、ルーは無理にはしゃいでみんなを盛り上げようと必死だった。
ベルノが自分の足で歩けるようになり、やっと、みんなと食事の焚き火を囲めるようになった四日目の昼、ルーはようやくまともな話し相手を得られていろいろな意味でホッとした。
「空気が重くて、ボク、窒息するかと思ったよ」
「はははっ、おまえは容赦ないな~~っ」
ルーの物言いは不躾だが、乱暴にでも立ち直らなければならない場合には、これくらいが丁度良いのかも知れない。特に、ガーランド姫は多くの民の命を与かる領主なのだ。立ち直る責任がある。ヴィクトルが濃い紅茶を淹れ、檸檬の砂糖漬けを添えて一同に配ると、ガーランド姫はやっとほんの少しだけ微笑んだ。
漆黒の魔境の旅はそれ以降平穏に進み、森を抜けた時には、アルフィニア山脈に燃えるような朝焼け雲がかかっていた。鮮やかな黄金と薔薇色の──輝く夜明け。
東の王国には女神アルフィニアが世界を平定した後、命尽きて横たえた体が山脈になったという神話がある。あるいは、女神はまだ生きていてアルフィニア山脈は彼女の私的な領地であるから神聖不可侵の禁域なのである、という伝承も……
どのみち、女神との関わりはもう終わった。女神の剣も、今はもう無い。
ガーランド姫とヴィクトルは身分を隠して城下に戻り、それからダンジュール城の裏門から密やかに侯爵の私邸に戻った。侍従長以下、姫に使える近習の者達は歓喜の涙で主君の帰還を迎えた。ガーランド姫は清廉かつ論理的な気質で、臣下の諌言にも耳を傾け、民に積極的な善政をもたらす名君なのである。どうせ仕えるのであれば英邁な主君に、というのは当然の情だ。
半月ほどの不在であったが、その間に停滞した公務は山積みになっていた。姫がヴィクトルや他の文官を数人従えて執務室にこもる間、ベルノとミラ、ルーの三人は先達てあてがわれた兵士宿舎の上客用の部屋に逗留するよう、ガーランド姫から直々に泣きそうな顔で懇願された。居心地も良いし、数日中にせねばならない事も無い。結局、三日も食っちゃ寝でだらだらと過ごした。
そして、良く晴れたその日の午後──
ようやく公務に一段落を付けて、ガーランド姫とヴィクトルがベルノ達の部屋を訪れた。
露台に続く窓は解放され、美しい庭園に咲く白薔薇が目に優しい。鳥の囀りと遠くから竪琴の音が聴こえてくる。夢でも見ているように穏やかだ。人数分の紅茶に添えられた酒漬けの葡萄を練り込んだ焼き菓子が良い香りを漂わせている。
ガーランド姫はベルノの向かいの長椅子に腰掛けると、改まった態度で言った。
「これからどうするのです?」
なぜかガーランド姫の顔は赤くなっている。
ベルノの隣に座っているルーはそわそわし始めたし、壁際に立ったまま腕を組んでいるミラは素知らぬふりでそっぽを向いている。ガーランド姫の後ろに控えているヴィクトルに至っては、出会った当初のように不機嫌な仏頂面でぶすっと沈黙していた。
「もしも予定が無いのであれば、ダンジュールの騎士になってくださいませんか。領地を持って、できれば、私の側にいて頂きたいのです」
身に余る申し出に、参ったな、とベルノは頭を掻いた。
「いや、無理だろ。侯爵様の騎士が魔物憑きというのは外聞が悪過ぎる」
「そんなことはありません。あなたは世界を救った勇者です。私は、私はその……」
見かねて、苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔でヴィクトルが口を挟んだ。
「姫様、ハッキリ言わなければ、その唐変木には通じませんよ」
わたわたっ、と珍しくガーランド姫が動揺した。ひとしきり挙動不審に陥った後、もじもじと膝を動かし、意を決したように紅潮した顔を上げる。
「あ、あの、ベルノ・グランディス、私はあなたを……」
ああ、なるほど──
ルーとミラが早々に察知していたガーランド姫の気持ちと、ヴィクトルの意向にやっと気付いた。ベルノはヴィクトルを睨み付ける。どっちが唐変木だ、バカ子爵め。よりにもよって魔物憑きを姫の側に置き、いずれは配偶者に、と下らない考えを巡らしやがったようだ。
それこそ……騎士になる以上に無理な話だ。
ベルノは、すっと手を伸ばし、ガーランド姫の唇に指を当て必死な告白を遮った。
「悪いな。純情でいられるほど若くないんだ」
きょとんとしてガーランド姫は押し黙る。ふにっと唇を押すと子供のような表情になった。
「おいっ、貴様っ! ふざけた態度を──」
「おやめなさい、ヴィクトルっ」
ヴィクトルの怒声を、ガーランド姫が真っ赤になって抑える。年相応の可愛らしい態度。張り詰めた悲壮感は薄らいでいた。今の彼女ならば、父母の非業の死も、兄の悲惨で哀し過ぎる運命も、いずれは乗り越えられるだろう。ベルノは心の底からそう願った。
ところで、とヴィクトルに向き直る。
「一度は言ったと思うんだが……俺はおまえのじいさんより年上なんだよ」
「はあ?」
一旦はバカにしたように顔をしかめたが、あっ、とヴィクトルは素っ頓狂な声を上げた。半月も前に、竜神殿の橋の上で交わした会話を思い出したのだろう。
「そんなバカな……性質の悪い冗談かと……」
「ヴァンディールは願いを使い果たすまで、年を取らずに何百年でも生き続ける事が出来る。けっこう有名な伝承だと思うんだけどな。知らないのか?」
「いや、知ってはいるが、まさか、おまえのような軽薄な奴が?」
「軽薄って……人を外見で判断するなよな」
「外見が軽薄な自覚はあるのかっ!」
ヴィクトルばかりか、ミラとルーにまで突っ込まれた。
ふう、と溜息を吐き、ベルノは真剣な表情を浮かべた。
立ち上がってヴィクトルに近付くと、ヴィクトルは少したじろいだ。ベルノは、にやりと笑ってから、突然、がばっと頭を下げる。
「ルーを、ダンジュールで暮らせるようにしてやってくれ」
ヴィクトルは一瞬唖然として固まったが、その衝撃から立ち直ると、太々しい笑みを浮かべ、頭を下げたままのベルノの肩を、親しい友にするように軽く叩いた。
「ああ、任せてくれ」
もとより、そのつもりだった。
「ベルノ──!?」
ルーがガタッと椅子を跳ねさせて立ち上がった。
紅茶色の瞳は驚きに見開かれ、なんで、どうして、と不安に揺れている。
「ベルノはボクが嫌いになったの!?」
「バカ……そんなわけないだろ。大好きだ。おまえが大事だから、今ここで、信頼できる人間に、おまえを預かってもらいたいんだよ」
黙って涙を堪えているルーを引き寄せ、抱き締めて頭を撫でてやる。ルーはベルノの腕の中で、洟をすすり始めた。堪えようとしても堪えきれない。
「魔物憑きの俺と、一生放浪するわけにはいかないって分かってるだろ? ルーは人間だ。人間の幸せを掴まなきゃいけない。勉強して、身を立てて、自分の力で生きるんだ」
ルーの肩を抱き、ヴィクトルとガーランド姫に顔を向けさせる。
「この子には読み書きと簡単な算術は仕込んである。迫害されない身分を与えて、それなりの仕事を身に付けさせてやってくれないか?」
ヴィクトルが頷き、ガーランド姫が言を継いだ。
「責任を持ってお引き受けしましょう。ルーの身分は、私の遠縁が侍女に産ませた娘ということにいたします。ヴィクトルに付いてしっかり学べば、城付きの書記官にもなれます」
「そりゃ、すげえっ!」
血筋の定かでない侍女の子は珍しくない。魔物憑きの養い子だった事を隠すにはもってこいの出自だ。しかも、姫君の遠縁ということにして貰えるなら、どんな職も縁談も望める。王冠の無い副王とまで称されるダンジュール侯爵と縁故を結びたい者は幾らでもいる。ルーにとっては、最高にして最強の後ろ盾だ。
いよいよ話が煮詰まり、もはや退くことが出来ないと察すると、わっ、とルーは泣き出した。
「嫌だよ、ベルノ。ボク、ずっとベルノと一緒にいたい。置いて行かないでよっ!」
ベルノにしがみつき、声を上げて泣きじゃくる。何年も我慢していた感情がついに爆発し、止まらなくなったのだろう。思えばこの子は我慢強かった。涙もろい一面もあったが、どんなに怖い目に遭っても、骨を折るほどの大怪我をしてすらも、ただの一度も自分の事では泣かなかった。別れを決めた時に、こんなに泣かれるとは……
「泣くなよ、ルー。ちゃんと会いに来るから」
「やだっ、やだよう~~っ!」
「こんなに条件の良い社会復帰のチャンスは二度とないぞ」
茶化して額を小突いたら、ルーは大粒の涙を零しながらベルノをぽかすかと叩き始めた。
「分かってるよぅ。分かってるけど、ベルノと離れたくないんだよぅ」
「そっか。分かってるなら大丈夫だな。約束する。ルーがここでの暮らしに慣れた頃、そうだな……五年くらい経ったら、いろんな土産を、おまえが抱えきれないくらい、大量に持って帰ってくるから。居場所はきちんと知らせるし、手紙も、なるべくたくさん書くよ」
がばっ、とルーは顔を上げた。
「本当? 絶対、絶対に約束だからねっ!」
「ああ、おまえが年頃になって恋人が出来たら、そいつを脅してやるって言う楽しみもあるしな。帰って来ないと損するだろうが」
「こ、恋人なんて出来ないよっ! ベルノのバカッ!」
ルーは真っ赤になって、再びベルノを殴り始める。痛くないということもないが、気の済むまでそうさせておくことにした。次に会うルーは年頃の娘になっているだろう。こんな風にじゃれ付くのはこれが最後だ。
「それで、本当にこれからどうなさるのです?」
ガーランド姫に再び問われ、ベルノは遠くを見るように目を細めた。
「西の帝域に戻る」
しん、と場は静まり返った。
結局、内乱は止められなかった。クラヴィスの都は崩壊し、攻めていた大貴族連合の軍団も全滅に近く、盟主であるフェイ大公も混乱の中で死亡するなど、取り返しのつかない痛手を負った。政戦両面での力の均衡が崩れた。西の帝域はこれからますます荒れるだろう。
「また漆黒の魔境を歩くのか? 貴様は相当の物好きだな」
場の空気を変えようと、ヴィクトルはわざと呆れたように軽口を叩いた。
「そうなるな。ここのところひっきりなしに往復してるから魔の森に馴染んできちまったよ」
自虐的に笑ったら、ヴィクトルも笑った。屈託のない声で。
「まあ、俺だって本当はウンザリだけどな……」
ベルノは頭を掻く。どうにも落ち着かない気分だ。まさか自分が、見ず知らずの人々の為に何かを成そうと志す日が来るとは、以前は夢想だにしなかった。
「でも、あの国の乱れをこのまま放置するわけにはいかないだろ。ヴァンディールだからこそ出来る事があるかも知れないし、とりあえず行くわ」
一同それぞれの葛藤の末に、ついには納得して頷いた。
すっ、とガーランド姫が優雅な仕草で立ち上がる。悲壮ではない決意を込めた表情で。
「私も、陰ながらお力添えいたします。連絡を頂くことは出来ますか?」
「えっ? あ、そりゃ、魔法鳩を飛ばせば手紙くらい運べるが……いいのか? 他国の情勢に手出しなんかしたら侯爵様の立場が悪くなるぞ。東の王国の宮廷も黙ってはいないだろ?」
「迷惑ですか?」
そんな事は無い。むしろ行動しやすくなる。相応しい身なりを整えてダンジュール侯爵の紹介状を出せば、どこの宮廷にでも入り込める。西の帝域を平定するには、当然、西の帝域の貴族の力が要る。誰に協力を要請するにせよ、近づけない事にはどうにもならない。
「そりゃ、侯爵様の後ろ盾があれば色々やりやすいし、協力は願っても無いが……」
「では決まりですね。ベルノ・グランディス、私は恋い慕うあなたを支えたいのです」
おっと、とベルノはよろける。
「もしかして、まだ口説いてるのか?」
「はい、口説いています。諦めるには惜しい御方ですから」
淡い紫水晶の瞳に真摯に見詰められると胸がざわめくが、ダメなものはダメだ。
「いや……参ったな。お姫様は綺麗だし可愛いけど、年下過ぎるんだよ……」
「それが理由ですか?」
不思議そうにガーランド姫は小首を傾げた。
「あ、ああ、まあ、そうだ」
「そうですか……」
納得したのかどうなのか、ハッキリしない微妙な反応だった。姫様の機嫌が良さそうに見えるのは気のせいだろうか……
ひとしきり話が済んだところで、壁際に腕組みをして立っていたミラが、ベルノを婀娜っぽい視線で一睨みし、少し怒ったように溜息を吐いた。
「で、また私を置いて行くつもりかい?」
沈黙が流れる。
つい今しがたガーランド姫の求愛を無碍にしたところだ。ここで本音は言いづらい。
それでも言わなければならないだろう。いいかげん潮時だ。
ごほん、とベルノは咳払いをし、右手を差し出した。
「ミラ、今度は一緒に来てくれるか?」
「やっと言ったね。ベルノ坊や」
にやりと笑い、ミラはベルノの首に両腕を回した。ガーランド姫が見ている前で、奪うような接吻けをされる。当て付けなのかも知れない。
ガーランド姫は少しだけ傷付いたような表情を浮かべていた。
それにしても、舌に微かな痺れが広がる。魔力のせいだけではない。
ああ、まったく……火酒の味だ。
こんな危険なキスをする女は、きっと、世界中探してもミラしかいない。
同じ時を歩めるのも……
この想いは孤独を慰める為の錯覚ではない──と、お互いが認めるまで随分時間がかかってしまった。
ミラの情熱的なキスから解放されると、ベルノは照れて髪と服の乱れを直しつつ、バカにするような笑みを浮かべて自分を見ていたヴィクトルに近付き、ぐいっと肩に腕を回した。
「なんのつもりだ?」
無粋な唐変木に、小声で囁いてやる。
「おまえは俺達ほど長生きじゃないんだから、時間を無駄にするなよ」
「なっ、なっ、いったい何のことだっ!?」
ガーランド姫への献身が臣下としての範囲を大幅に超えている事は誰が見ても明らかだというのに、どうやら本人はバレていないつもりでいたようだ。
やれやれ、とベルノは大袈裟に両手を広げた。
「西の帝域の事といい、おまえの事といい、問題はまだ山積みのようだな……」
END