第7章:猛将(ラ・イル)の咆哮
フランドルに降り続く秋雨は、人間の尊厳を溶かす毒だ。しかし、トマスとウィルの二人は、完全にその毒の海に適応しつつあった。
初陣での凄惨な死闘と麦角菌による熱病を乗り越えてから数週間。イングランド軍の強行軍と、前線での果てしない小競り合いの中で、彼らの身体と精神は劇的な変貌を遂げていた。
トマスの纏う鎖帷子は、もはや銀色の輝きを完全に失っていた。幾度もの遭遇戦で切断されたリングは、死体から剥ぎ取った革紐で無骨に結び合わされ、その上から雨と刃を防ぐための分厚い茹で革の胸当てが無造作に重ねられている。兜の面頬は歪み、もはや完全には閉まらない。
かつて彼が抱いていた「小貴族としての虚栄心」は、泥の中に完全に埋葬されていた。今の彼を満たしているのは、敵の刃がどこから来るかを嗅ぎ分ける、研ぎ澄まされた野犬のような嗅覚だった。
「若様。右の茂み、鳥が鳴くのをやめましたぜ」
ぬかるんだ獣道を歩きながら、背後からウィルが囁いた。彼の足音は全くしない。革靴の裏にボロ布を巻きつけ、泥が跳ねる音すら殺す技術を、彼はこの数週間で完璧に身につけていた。
「ああ。風下に回り込む。クロスボウの弦を張る音に気をつけろ」
トマスは剣の柄から手を離し、より乱戦に向いた短いメイス(戦棍)に持ち替えた。
遊撃や斥候の任務は、正規戦とは全く異なる論理で動く。名乗りを上げる暇などない。待ち伏せ、罠、そして背後からの奇襲。それが全てだ。
トマスは身を低くし、泥と同化するように茂みへと滑り込んだ。前方から、小枝の折れる微かな音が聞こえる。フランス軍の斥候だ。
二人の呼吸が完全に一致する。ウィルが泥を固めた石をあらぬ方向へ投げ、敵の視線が逸れた瞬間、トマスが跳躍した。
美しい剣術など一切使わない。トマスはメイスを男の膝裏(装甲のない関節部分)に向けてフルスイングし、骨を砕く。男が悲鳴を上げて崩れ落ちた直後、背後から音もなく忍び寄ったウィルが、男の兜の隙間から脳天へ向けてロンデル・ダガーを垂直に叩き込んだ。
即死。血が泥に吸い込まれる音だけが響く。
「手際が良くなってきやしたね、若様」
「お前の目潰しよりは上品だろう」
ウィルが手早く死体の身ぐるみを剥がすのを、トマスは冷ややかな目で見下ろしながら警戒を続ける。初陣で震えていた若者はもういない。彼らは完全に「戦争」という名の巨大な暴力機構の末端を担う、効率的な殺戮の歯車となっていた。
数時間後、彼らは味方の本隊が野営する開けた盆地へと帰還した。
薄暗い野営地を歩く二人の目を、ある一団が強烈に惹きつけた。本隊の陣形から少し離れた場所に陣取る、異様な熱気と暴力の匂いを放つ集団。
彼らはイングランド軍に雇われた「自由傭兵団」、あるいは「ルティエ(略奪者)」と呼ばれる者たちだった。
「……見なせえ、あの肉の匂いを。俺たちの食ってるカビた麦とは大違いだ」
ウィルが、焚き火で丸焼きにされている豚を睨みつけながら唾を吐き捨てた。
傭兵たちの装備は、正規軍のトマスたちから見ても明らかに異質だった。統一された軍服などない。ある者はイタリアから略奪したような流線型の美しい胴鎧を纏い、ある者はベルベットの布地に無数の鉄鋲を打ち込んだブリガンディン(装甲を内蔵したジャケット)を着込んでいる。手にする武器も、人間の背丈ほどもある両手剣(ツヴァイヘンダーの原型)や、禍々しい刺を備えたハルバードなど、一撃の破壊力に特化したものばかりだ。
「奴らには騎士道も忠誠もない。金と略奪品だけで動く野盗の群れだ。だが……」
トマスは、傭兵たちが武器を手入れする無駄のない動きから目を離せなかった。
数日前の会戦で、トマスは彼らの戦いぶりを間近で見ていた。フランス軍の強固なパイク(長槍)陣形に対し、イングランドの正規歩兵が次々と串刺しにされていく中、この傭兵部隊は突如として戦場の側面に現れた。彼らは陣形など組まず、ただ個々の圧倒的な腕力と暴力的な質量だけでフランス軍の側面を叩き潰したのだ。
巨大な両手剣が、槍の柄ごと敵の兵士の胴体を両断し、ハルバードが騎馬の脚を叩き斬る。血肉の雨を降らせながら戦列を食い破る彼らの姿は、戦術というよりは、巨大な鉄球による破壊そのものだった。
「あいつら、将軍閣下からも大層な待遇を受けてやがる。戦場で一番危険な場所(最前線)に突っ込まれる代わりに、一番最初に略奪する権利を与えられてるんだとよ」
ウィルの目には、明らかな憧憬が混じっていた。
名誉や家名に縛られ、わずかな給金のために泥を這う正規軍の惨めさ。それに引き換え、自らの腕っぷし一つで血路を切り開き、金と女を強奪していく彼らの無法な生き方は、底辺を生きるウィルにとって奇妙な魅力を持っていた。
「……あんな風に生きられたら、このクソみたいな泥沼も少しはマシになるかもしれねえな」
「馬鹿を言え。あいつらは明日の命も買えない連中だ。俺たちは騎士として……」
トマスは無意識に言い返したが、その言葉はかつてのように力強くはなかった。
泥に塗れ、敵の背中を刺して生き延びている今の自分と、あの無法者たちに、一体どれほどの違いがあるというのか。トマスの心の中で、旧来の価値観が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。
その数日後のことだった。
トマスとウィルが所属する前衛部隊約三百名は、パリ南方の深い森を進軍していた。
森は分厚い朝靄に包み込まれ、太陽の光はねじ曲がった枯れ枝の隙間から病的な青白い筋となって差し込んでいるのみだ。足元は腐葉土と泥が深く堆積し、馬の脚を容赦なく絡め取る。
「静かに。……前方、不自然に鳥が飛んだ」
前方の斥候から、小声で伝令が回ってきた。
トマスは即座に面頬を下ろし、ウィルと背中合わせになるように立ち止まった。大気の温度が、急激に数度下がったような錯覚を覚える。森の奥から、圧倒的な質量の移動音が響いてきたからだ。
鎧が擦れ合う鈍い音。蹄が泥を蹴る音。
それは、少人数の斥候部隊のものではない。数百、いや千を超える重装兵の行軍音だった。
「……フランス軍の先鋒隊だ。ぶつかるぞ!!」
部隊長の絶叫と同時に、霧の壁を突き破って、無数の黒い影がイングランド軍の前衛に突っ込んできた。
「神よ、我を見捨てるな!!」
フランス語の怒号が森を揺らす。
大混戦が始まった。トマスは本能のままに動いた。前方から突っ込んできたフランスの歩兵に対し、ロングソードを抜く。しかし、普通には振らない。トマスは剣の刀身の中腹を左手の分厚い革手袋で直接掴み、まるで短い槍のように構える「ハーフソード(半剣)」の構えをとった。
敵の振り下ろす剣を、自分の剣の「柄と左手の間」の刀身で受け止める。凄まじい衝撃を腕で殺し、そのままテコの原理を利用して敵の体勢を崩す。敵がたたらを踏んだ瞬間、ウィルが足元をすくい、泥に倒れた敵の首の隙間にトマスが柄の十字鍔を思い切り叩き込む。
完全に自動化された、生き残るための殺人システム。
二人は泥の中を転がり回りながら、次々と敵を処理していった。
しかし、戦場の空気が突如として凍りついた。
森の奥から、尋常ではない怒号――いや、それは人間の声帯から発せられた咆哮だった――が轟いたのだ。
『神よ! ラ・イルが神であり、神がラ・イルであったなら、神にして欲しいと思うことを、どうかラ・イルの為にしたまえ!! だが、邪魔をするなら神だろうとぶっ殺す!!』
冒涜的極まりない祈りとともに、霧を引き裂いて「それ」が現れた。
エティエンヌ・ド・ヴィニョル。通称「ラ・イル(憤怒)」。
魔女ジャンヌ・ダルクの先陣を切り、イングランド兵から悪魔のごとく恐れられたフランスの猛将である。
トマスは、その姿を見て完全に呼吸を忘れた。
ラ・イルは、黒光りする分厚い特注の重甲冑に身を包んだ巨漢だった。装飾など一切ない。全身が実戦でついた無数の傷と凹みに覆われ、まるで血を吸って生きている鋼の化け物のようだ。
彼が両手で軽々と振り回しているのは、重騎兵の甲冑すら紙のように粉砕する、長柄の巨大なポールアクス(長柄斧)だった。
「死ねェェェッ!! イングランドの豚ども!!」
ラ・イルが咆哮とともにポールアクスを横薙ぎに一閃する。
トマスから十数歩離れた場所にいた味方の重装兵三人が、まるで枯れ枝のようにまとめて宙に吹き飛ばされた。分厚い胸当て(キュイラス)がへこみ、内臓を破裂させて泥に沈む。
美しさなど微塵もない。ただ、絶対的な質量と暴力のエネルギーが、空間そのものを破壊しているようだった。
「ひっ……!」
「若様、下がりなせえ!! あれは人間じゃねえ!!」
ウィルが悲鳴のような声を上げ、トマスの腕を引いた。
ラ・イルは止まらない。彼は泥濘など存在しないかのように突進し、イングランドの前衛部隊を単騎で蹂躙していく。彼に続くフランスの狂信的な兵士たちも、将軍の背中に取り憑かれたように目を血走らせて突撃してくる。
イングランド軍の陣形は、わずか数分で完全に崩壊した。
「退け! 退けェッ!!」
部隊長が叫んだが、その直後、ラ・イルのポールアクスの先端が、部隊長の兜の面頬を正確に貫いた。鉄と頭蓋骨が砕ける不快な音が響き、部隊長の首から上が兜ごと引きちぎられて宙を舞う。血の雨が、霧の中を真っ赤に染め上げた。
ラ・イルの血走った目が、泥の中で硬直しているトマスとウィルを捉えた。
巨獣が、息を荒げながらこちらへ向き直る。
死ぬ。
トマスは確信した。剣術も、ハーフソードも、ウィルの卑劣な目潰しも、この圧倒的な暴力の権化の前では全て無意味だ。あのポールアクスが振り下ろされれば、自分たちは虫のように潰される。
その極限の恐怖の中で、トマスの脳裏に浮かんだのは、高潔な騎士としての最期ではなく、泥まみれになりながらも生き残ろうとした、この数週間の惨めな自分自身の姿だった。
(死んでたまるか……こんな所で、こんな肉の塊になってたまるか!!)
「ウィル!! 飛べ!!」
トマスは剣を捨て、ウィルの背中を思い切り突き飛ばした。そして自分も、ラ・イルがポールアクスを振りかぶった瞬間、一切のプライドを捨てて、味方の死体が折り重なる泥の溝へと自ら頭からダイブした。
ゴオォォォッ!!
トマスの頭上数十センチを、死の風が通り過ぎた。ラ・イルの一撃が、彼らが先ほどまで立っていた場所の地面を激しく抉り、泥と石を散弾のように撒き散らす。
トマスとウィルは、死体と血の混じった泥沼の底で、息を止め、自らも死体の一部になったかのようにピクリとも動かなかった。他人の血が口に入り、死臭が鼻腔を塞いでも、絶対に咳一つ漏らさなかった。
ラ・イルの重い足音が近づき、二人のすぐ横で止まった。
心臓の音が、自分自身の耳を突き破りそうだった。バレれば、その巨大な鉄靴で頭を踏み潰される。
『……チッ、逃げ足の速いウジ虫どもめ。前進だ! 逃げる背中を全て叩き斬れ!!』
ラ・イルは興味を失ったように唾を吐き捨てると、崩走するイングランド軍の残党を追って、深い森の奥へと巨大な背中を消していった。
……数十分後。
フランス軍の最後尾が通り過ぎ、森が再び死の静寂に包まれた頃。
血の池と化した泥の溝から、二つの泥の塊が、ゆっくりと蠢きながら這い出してきた。
「……ゲホッ……オェェェッ……!」
トマスは四つん這いになり、肺に入り込んだ泥と血を吐き出した。全身が瘧のように震え、歯の根が合わない。隣では、ウィルもまた仰向けに倒れ込み、灰色の空を見つめながら引き攣った笑いを浮かべていた。
「ハハッ……若様。俺たち、また地獄の釜から抜け出しましたぜ」
「ああ……ああ……」
トマスは、泥に塗れた自身の手を見つめた。
惨めだった。敵を倒すこともできず、ただ死体に紛れて泥をすする。騎士としての名誉など、そこには欠片も存在しなかった。
しかし、彼らの胸の奥底で燃えている生への執着は、以前よりもはるかに黒く、太く、研ぎ澄まされていた。ラ・イルの圧倒的な暴力を見せつけられたことで、彼らは「真の力」とは何かを骨の髄まで理解したのだ。
「ウィル。俺は決めたぞ」
トマスは泥だらけの顔を上げ、冷たい雨に打たれながら、低く、這うような声で言った。
「俺は、あの傭兵たち(フリーカンパニー)のようになる。このクソみたいな軍隊のルールも、騎士の誇りも全て捨てる。……俺たちが生き残り、全てを奪い取るためには、あの化け物と同じ、絶対的な暴力と自由が必要だ」
ウィルは起き上がり、驚いたようにトマスを見つめた後、深く、悪魔のような笑みを浮かべた。
「……最高の思いつきだ、マイ・ロード。地獄の底まで、お供しますよ」
二人の若き獣は、味方の死体が散乱する森の中で、泥に塗れた手を固く握り合った。
百年戦争という巨大な歴史のうねりの中で、名もなき二人の兵士が、自身の運命の歯車を狂気と流転の方向へと自ら大きく回した瞬間だった。




