第11話:狂鬼ジル・ド・レの陣幕
Ⅰ. 潮目の変化と、泥犬たちの捕縛
パリ包囲戦の熱狂と敗退が過ぎ去った後のフランスの大地は、奇妙な倦怠と腐敗の匂いに包まれていた。
読者には歴史の針が少し進んだことを告げねばなるまい。戦況は、泥濘を這い回る末端の兵士たちには断片的にしか見えていなかったが、マクロな視点で見れば確実にイングランド側に有利な方向へと傾き始めていた。
シャルル七世がランスで戴冠を果たし、王としての目的を達成した後、ジャンヌ・ダルクが強行したパリ包囲戦は、王室の公式な支援を得られないまま「魔女の独断」として悲惨な失敗に終わったのだ。シャルルはすでに公式に兵を引き、ブルゴーニュ派やイングランドとの和平交渉(あるいは利権の分配)へと舵を切っていた。
そんな大きな歴史のうねりの中、使い捨ての遊撃隊として相変わらずあちこちの戦線で弾除けにされていたトマスとウィルは、ロワール川の支流近くの深い森で、ついにフランス正規軍の罠に落ちた。
数十名のイングランド遊撃兵が、圧倒的な装備と規律を誇るフランスの重装歩兵に包囲されたのだ。数分間の無意味な抵抗の末、トマスは血まみれのロングソードを取り上げられ、ウィルは愛用のショートボウをへし折られて、他の生き残った十数名の味方とともに泥の中に引き立てられた。
「……終わったな。若様」
後ろ手に縛られ、フランス兵の槍の石突で背中を小突かれながら歩くウィルが、泥だらけの顔で自嘲気味に呟いた。彼の口の中には、咄嗟に隠した金歯が一つだけ転がっている。
彼らが引き立てられたのは、森を抜けた先に広がる、フランス軍の大規模な野営地だった。
泥まみれの広場に、イングランド兵の捕虜たちが一箇所に集められ、泥の上に跪かされる。周囲を取り囲むフランス兵たちの目は冷酷で、身代金の取れない平民や下級兵士は、明日の朝には森の木々に吊るされる運命にあることは誰の目にも明らかだった。
その時、広場の奥から、明らかに周囲の空気を異質に歪める一団が近づいてきた。
Ⅱ. 選別と通敵の種
カメラが、冷たい泥の地面からゆっくりとパンアップしていく。
泥まみれの野営地に不釣り合いな、鮮やかな青と金色の絹で織られた陣幕群。そこから歩み出てきたのは、フランス王国元帥、ジル・ド・レ(Gilles de Rais)であった。
その男の年齢は、すでに四十に手が届こうとしているはずだった。しかし、トマスの前に現れたその姿は、病的なまでに白く滑らかな肌と、神経質そうな細い顎の線により、まだ二十代後半の青年のように若々しく見えた。その不自然なまでの若さは、彼が抱える底知れない狂気と暗黒の執着が、時間を凍結させているかのようで、見る者にぞっとするような嫌悪感と畏怖を抱かせた。
ジルは、豪華な黒貂の毛皮をあしらった漆黒のダブレットを纏い、泥を避けるように優雅な足取りで捕虜たちの前を歩いた。
彼の目は、汚物を見るような無関心さでイングランド兵たちをなぞっていたが、トマスの前でピタリと止まった。
「……君か」
ジルは薄い唇に、三日月のようなどこか残酷な微笑を浮かべた。
「顔を上げたまえ。君がトマス・アシュボーンだな?」
トマスが驚愕に目を丸くして顔を上げると、ジルは満足げに頷き、背後の護衛の騎士に顎でしゃくった。
「この若い騎士と、その後ろの小柄な従者を、私の天幕へ連れて行きなさい。他の連中は……そうだな、適当に地下牢にでも放り込んでおけ。殺すには泥が跳ねて鬱陶しい」
その瞬間、広場の空気が凍りついた。
跪かされていた他のイングランド兵たちが、一斉にトマスを見た。彼らの目には、死への恐怖を上回る、強烈な猜疑心と憎悪が宿っていた。
なぜ、この薄汚い三男坊の小貴族だけが、フランスの最高司令官の一人に名指しされ、特別扱いを受けるのか?
「てめえ……アシュボーン、フランスの犬に寝返って、俺たちを売ったのか……!」
隣にいた味方の兵士が血を吐くような声で罵倒したが、直後にフランス兵の槍の柄で顔面を殴り打たれ、泥の中に崩れ落ちた。
トマスは反論できなかった。彼自身、なぜ自分が選ばれたのか理解できていなかったからだ。しかし、この瞬間、トマス・アシュボーンという男に「味方を売った裏切り者(通敵者)」という致命的な烙印が、泥犬たちの間で確かに押されたのだった。
Ⅲ. 狂鬼の天幕と、終わる聖戦
背中を強く押され、トマスとウィルは、最も巨大な青いビロードの陣幕の中へと押し込まれた。
足を踏み入れた瞬間、分厚いペルシャ絨毯が革靴の泥を優しく吸い込んだ。テントの内部は外の寒さが嘘のように暖かく、純銀の燭台に立てられた何十本もの蜜蝋燭が、室内を病的なほど明るく照らし出している。
没薬と乳香のむせ返るような香木の煙。そして、熟成された甘い葡萄酒の香りが、戦場の死臭に慣れきったトマスたちの鼻腔を暴力的に犯す。
「ようこそ、名もなき泥犬たち」
黒檀の豪奢な椅子に深く腰掛け、ルビーのようなどす黒いワインを揺らしながら、ジル・ド・レが言った。
「なぜ、俺の名前を知っている」
トマスが警戒心を剥き出しにして問うと、ジルはくつくつと喉の奥で笑った。
「ある日、私の陣営に美しい友人が立ち寄ってね。神出鬼没の白銀の騎士、リアナだ。彼女が、つまらない作戦報告のついでに、ふと君の話をしたのだよ。『イングランドに、泥の中から空を掴もうとする、ひどく滑稽で面白い野犬がいる』とね」
(リアナ……!)
トマスの胸の奥で、あの夜の白檀の香りが蘇る。しかし、ジルの口調は、リアナと深い関係があるというよりは、単なる世間話の延長のような、ひどく軽いものだった。
「勘違いしないでくれたまえよ、トマス。私は彼女に頼まれて君を助けたわけではない。ただ、私は今……ひどく退屈し、ひどく絶望しているのだ」
ジルはワイングラスをテーブルに置き、その不自然に若い、蒼白い顔に深い虚無を漂わせた。
「戦争は終わるよ。いや、私たちの『聖戦』はすでに終わってしまったのだ」
ジルは立ち上がり、天幕の奥に飾られた、ジャンヌ・ダルクの象徴である白百合の軍旗を悲しげに見つめた。
「シャルル王は、すでにジャンヌを見捨てた。パリ包囲戦は、彼女が王の制止を振り切って起こした無謀な戦いだ。王は公式に兵を引き、イングランドとの和平交渉に向けて、彼女を……あの美しく純粋な神の使いを、政治の供物としてイングランドに引き渡そうとさえ考えている」
「……あんたたち側近は、それを見過ごすのか」
「見過ごす? まさか。私やラ・イル、そしてリアナたち三聖女騎士も、この先の道が破滅に続いていることなど、とうの昔に気づいている。王の裏切りも、政治の腐敗も、すべて分かっているのだ」
ジルの声に、狂気に似た熱が帯びる。
「だが、それでも我々は彼女に従う。説得など無意味だ。あの少女が放つ絶対的な『聖なるオーラ』の前では、我々のような血に汚れた男たちは、ただ付き従うしかないのだ。……たとえそれが、ともに炎に焼かれる運命だとしてもな」
中世の戦争は、ただ殺し合うだけではない。金と権力、そして巨大な政治的駆け引きが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
ジャンヌ・ダルクという一個の圧倒的なカリスマは、王権が安定した今、シャルル七世にとって最も邪魔な存在へと成り果てていた。そして、側近たちはその破滅を理解しながらも、彼女の光に焼かれることを選んだのだ。
Ⅳ. 悪魔の晩餐と、退屈しのぎの玩具
「……だから、私は退屈なのだよ」
ジルは突如として振り返り、先ほどまでの悲壮感が嘘のように、冷徹なサディストの顔に戻った。
「聖女は死に向かって歩き、戦場はただの政治の交渉の場に成り下がった。もはや、命を懸けて殺し合うような熱気はどこにもない。……そんな時に、リアナが話していた『泥犬』をたまたま見つけた。君たちのような、底辺の泥の中から這い上がろうとする強烈な『生への執着』を観察するのは、この退屈な日々を紛らわすための、最高の玩具になると思ってね」
ジルが指をパチンと鳴らすと、天幕の奥から小姓たちが、銀の盆に乗せられた山盛りのローストミート、焼きたての白パン、そして新鮮な果物を運んできた。
数日前まで、泥にまみれたカビた芋一つを巡って殺し合いをしていたトマスとウィルの胃袋が、その圧倒的な「食物の匂い」に反応し、雷鳴のような音を立てた。
「食いたまえ。当分、私の部隊(陣営)に留まることを許可しよう。戦況は落ち着きつつある。私がイングランド本隊の近くまで移動した際に、こっそりと放してやろう。それまでは、私の気まぐれな客分として、この美味い肉とワインを味わうといい」
ウィルはすでに理性を失い、縛られた手のまま、銀の盆に顔を突っ込んで肉を貪り食っていた。獣のような咀嚼音が響く。
「若様……! 毒が入ってようが知ったこっちゃねえ! 食わなきゃ死ぬんですから!」
口の周りを脂だらけにしたウィルが叫ぶ。
トマスは縛られた両手のまま、深呼吸をした。
頭の中で、猛烈な速度で思考を巡らせる。同胞からの「裏切り者」という視線。シャルル七世の裏切り。ジャンヌの孤立。そして、彼女の側にいるリアナ。
敵将の退屈しのぎの玩具になる屈辱。しかし、このままジルの部隊に潜り込んでいれば、確実にリアナのいるジャンヌの本隊、あるいは歴史の核心へと近づくことができる。
(……届く。あの白銀に、手が届く)
トマスの目に、かつての純粋な騎士の光はもうない。
あるのは、戦場の泥と政治の腐敗を養分にして成長した、狡猾で黒い野心の炎だった。
「……一つ、条件がある」
トマスは、拘束されたままジルを見据えて言った。
「俺の縄を解け。そして、俺にまともな剣と、手入れされた鎖帷子を用意しろ。あんたの退屈しのぎに付き合って玩具になるなら、ただの豚として飼われる気はない」
その不敵な態度に、ジルの護衛の騎士たちが色をなして剣の柄に手をかけた。
しかし、ジルはそれを手で制し、トマスの目を見つめ返して薄く笑った。
「……素晴らしい。やはり君は、面白い目をする。いいだろう、特別扱い(ヴィップ)だ」
ジルは小姓に合図を送り、トマスとウィルの縄を解かせた。
自由になった両手。右肩の痛みはまだ残っているが、トマスはゆっくりと立ち上がり、銀の盆の上のワイングラスを手にした。
「契約成立だ、狂鬼殿」
トマスはワインを一気に飲み干した。
数ヶ月ぶりの、本物のワインの味。それは血のように濃く、そして恐ろしいほどに甘かった。
Ⅴ. 陰謀のチェスボードへ
その夜、トマスとウィルは、ジルの陣営の端に与えられた乾いた天幕の中で、柔らかな毛布に包まれていた。
泥の冷たさも、飢えの恐怖もない。奇跡のような一夜だった。
「……若様。本気ですか」
暗闇の中で、ウィルが低い声で尋ねた。彼の声には、美味いものを食った満足感と同時に、巨大な罠に足を踏み入れたことへの野生の警戒感が張り付いていた。
「他の連中の目、見ましたか。俺たち、完全にイングランドを売った裏切り者扱いですよ。ここを無事に抜け出せても、戻る場所なんてねえ」
「戻る場所など、最初から俺たちにはないさ」
トマスは、新しく与えられた手入れの行き届いたロングソードの柄を暗闇の中で撫でながら答えた。
戦場は泥沼から一変し、今や巨大な陰謀と裏切りのチェスボードへとその姿を変えようとしていた。ジャンヌ・ダルクという神の使いが、政治の重圧によって十字架に磔にされようとしているその舞台裏。
トマスたちのような最底辺の泥犬が、その盤上の奥深くへと招き入れられたのだ。
(待っていろ、リアナ)
トマスは暗闇の中で、静かに目を閉じた。
(お前が仕組んだこの狂った遊戯盤……お前自身が破滅に向かっているというのなら、俺がその首元まで這い上がってやる)
外では、ジルの陣営の豪奢な篝火が、夜の闇を病的なまでに赤く照らし出していた。




