第10話:幻影を追う行軍
灰燼の再編と斥候の呪い
パテーの惨劇から数日。フランドルからロワール渓谷へと至る道は、敗走するイングランド軍の血と排泄物、そして絶望によって舗装されていた。
辛くも本隊の残党に合流したトマスとウィルを待っていたのは、安堵でも休息でもなかった。軍は半ば瓦解状態にあり、輜重隊はフランス軍の追撃によってその大半を失っていた。生き残った兵士たちは、泥まみれの亡霊のように虚ろな目で、ただ次の命令を待つだけの肉の塊と化していた。
トマスたち遊撃隊の生き残りは、即座に最も過酷な任務――「斥候」へと再編された。
騎士階級であるトマスには、乗り手を失って肋骨が浮き出た痩せ馬があてがわれたが、従者であるウィルは、馬の横を自身の足でひたすら走ってついていくことを強要された。彼らの任務は、前衛部隊よりもさらに前方を先行し、敵の伏兵を嗅ぎ回ること。それはすなわち、フランス軍の「魔女」ジャンヌ・ダルクが率いる本隊の狂気的な進軍速度に食らいつき、常に背後から死の息遣いを感じながら泥濘を這い回るという、緩やかな自殺に他ならなかった。
世界の色彩は死に絶えていた。
空は永遠に晴れることのない鉛色。木々は焼け焦げて黒い骨のように天を突き刺し、足元には冷たい泥と灰が、どこまでも果てしなく続いている。
「……ハァッ……ハァッ……クソッ……!」
トマスの馬の鐙にすがりつきながら、ウィルが血を吐くような息遣いで泥を蹴る。
斥候の任務は、華々しい戦闘とは無縁だ。それは病的なまでのパラノイア(偏執症)を要求される泥仕事である。森の入り口の不自然な折れ枝、風に乗って微かに漂う馬の糞の匂い、泥に残された蹄鉄の深さ。それらすべてを神経を削って読み取り、もし森の奥からクロスボウの太矢が飛んでくれば、味方に警告するために死に物狂いで馬を走らせて逃げる。
彼らは「狩人」でありながら、同時に常に敵に狙われる「獲物」だった。
「若様……もう、馬を止めてくだせえ……」
「駄目だ。馬を止めれば、泥に沈む。まだ進むぞ」
鞍上で手綱を握るトマスの顔もまた、生者のそれではなくなっていた。
脱臼から無理やり治した右肩は、馬が歩を進めるたびに鈍い痛みを脳髄に叩き込んでくる。三十ポンドの鎖帷子は雨水を吸ってさらに重くなり、鞍擦れを起こした内股からは血が滲み、馬の毛と泥にへばりついていた。
「どうして……どうしてこんな死に急ぐんですか……!」
ウィルが恨みがましい目でトマスを睨む。
ウィルには分からなかった。指揮官のいない遊撃隊の斥候など、適当な森でやり過ごし、適当な虚偽の報告をして本隊に戻ればいい。なぜトマスが、わざわざ死の危険を冒してまで、ジャンヌの軍勢の正確な轍を追おうと執起するのか。
トマス自身、その理由をウィルに語ることはできなかった。
飢えと疲労で霞むトマスの脳裏には、国への忠誠など微塵もなかった。ただ一つ、あのケントの宿場で出会った白銀の女騎士――リアナの幻影だけが、熱病のように彼を突き動かしていた。
この泥の道の先に、あの白檀の香りを纏った白銀の装甲がある。彼女がジャンヌの側近であるなら、この軍勢を追えば必ず再び相見えることができる。その狂気じみた妄執だけが、トマスの折れそうな背筋を無理やり支えている、唯一の骨組みだった。
金貨の無価値と、胃袋の悲鳴
行軍三日目。彼らを襲ったのは、敵の刃よりもはるかに残酷で絶対的な暴力――「飢餓」だった。
「……銀貨が、銀貨が何枚あろうと……何の意味もねえ……!」
ウィルが、焼け落ちた農村の残骸の中で、泥にまみれた銀貨を握りしめたまま嗚咽を漏らした。
フランス軍は、イングランド軍の補給を絶つために徹底した焦土作戦を展開していた。村の畑はすべて焼かれ、井戸には動物の死骸が投げ込まれ、納屋の麦は一粒残らず灰にされていた。
彼らの革袋の中には、フランス貴族から奪った銀貨や金歯が確かに重みを持っていた。しかし、この灰と泥の世界において、硬貨を齧って腹を満たすことはできない。金は、食物が存在する世界でのみ価値を持つ幻影の石ころに過ぎなかったのだ。
人間の身体は、飢えに直面すると、まず己の脂肪を食い潰し、次に筋肉を溶かし始める。
トマスの目は窪み、頬骨が不気味なほどに突き出していた。口の中は常に乾き、唾液は鉄のような味がした。胃袋は内側から自身の粘膜を消化し始めているかのように焼け付くように痛み、時折、全身の筋肉が意志とは無関係にピクピクと痙攣した。
「若様……駄目だ……目が見えなくなってきた……」
泥の中を引きずるように歩いていたウィルが、ついに膝をついた。
その足の裏は完全に破裂していた。ボロ布の靴はとうにすり切れ、泥の中の鋭い石や棘が容赦なく肉を裂き、膿と血が混ざって異臭を放っている。
「立て、ウィル。……追いつかれるぞ」
トマスは落馬しそうなほど体を揺らしながら、乾いた声で命じた。しかし、ウィルは泥に顔を突っ伏したまま動かない。
「……もう、無理だ。置いていってくだせえ……。ここで死んだ方が、マシだ……」
「立てと言っている!!」
トマスは馬からずり落ちるように下馬し、ウィルの胸倉を掴んで無理やり引き起こそうとした。しかし、トマスの腕にも力が入らず、二人は無様に泥の中へと倒れ込んだ。
冷たい雨が、二人の飢えた獣の体温を奪っていく。
静寂。聞こえるのは、自身の腹の虫が鳴る、みすぼらしくも絶望的な音だけだ。
トマスは泥に仰向けになりながら、灰色の空を見た。幻影を追うなどと、どの口が言ったのか。自分はただの飢えた野犬だ。ここで泥の肥料になって終わる、名もなき肉の塊だ。
泥土の馬鈴薯
その夜。彼らは焼け落ちた教会の廃墟の陰で、火も起こせずに身を寄せ合っていた。
火を焚けば、フランス軍の斥候に見つかり即座に殺される。濡れたキルティング鎧の重みと冷たさが、体力を限界まで削り取っていく。
トマスは浅い微睡みの中で、ふと目を覚ました。
真横にいるはずのウィルの気配がない。
トマスは痛む身体を軋ませて身を起こした。暗闇の中、廃墟の崩れた祭壇の裏側から、微かな音が聞こえる。
……クチャ、クチャ。
泥と何かを一緒に咀嚼するような、生々しい音。
トマスは這うようにして祭壇の裏へと回った。
月明かりが雲の隙間から差し込み、その凄惨な光景を照らし出した。
ウィルが、両手で何かを抱え込むようにして、一心不乱に齧り付いていた。
それは、灰の中から掘り出したのであろう、半ば腐りかけ、泥にまみれた一つの小さな馬鈴薯だった。
どこかの農民が隠していたのか、焼け残っていた奇跡のような一つの根菜。ウィルはそれをトマスに隠し、自分一人で貪り食っていたのだ。
「……ウィル」
トマスの声は、自分でも驚くほど冷たく、そしてドロドロとした殺意に満ちていた。
ウィルがビクッと肩を震わせ、振り返る。その口の周りは泥だらけで、狂気じみた独占欲で目を血走らせていた。
「ち、違う……若様、こいつは俺が……俺が見つけたんだ……!」
「貴様……主を差し置いて、隠れて食おうとしたのか」
騎士の忠誠も、主従の絆も、この極限の飢餓の前では薄紙よりも脆かった。
トマスの内側で、理性の糸が完全に焼き切れた。気づけばトマスは、ウィルに向かって獣のように飛びかかっていた。
飢えた獣たちの交響曲
「よこせェェッ!!」
「嫌だッ! 俺が見つけたんだ! 俺のモンだァァッ!!」
二人は廃墟の泥の中を、折り重なるようにして転がり回った。
美しい剣術も、戦闘技術もそこにはない。ただの飢えた二匹の犬の、醜悪極まりない取っ組み合いだった。
トマスはウィルの上に馬乗りになり、その口の中に突っ込まれた馬鈴薯を取り出そうと、ウィルの顎に指をねじ込んだ。
「アガッ……! 離せ、このクソ貴族がッ!」
ウィルがトマスの顔面に泥まみれの拳を叩きつける。
ゴッ! という鈍い音が響き、トマスの鼻血が噴き出した。しかしトマスは痛みすら感じず、ウィルの首を両手で力任せに絞め上げた。
「吐き出せ! 吐き出せ泥棒野郎!! 俺の馬鹿げた行軍に付き合ってやってるのは誰だ! 俺の馬の横を走らせてやってるのは誰だ!!」
「ふざ……けんな……! 狂ってんのは、あんただろ……!!」
ウィルは白目を剥きかけながらも、手探りで泥の中に落ちていた石を掴み、トマスの側頭部を思い切り殴りつけた。
視界がフラッシュのように白く弾け、トマスの拘束が緩む。その隙にウィルがトマスを蹴り飛ばし、馬鈴薯を泥ごと飲み込もうとする。
しかし、トマスは地を這う蛇のようにウィルの足首に組み付き、再び泥の中へと引きずり倒した。
「殺す……! 殺してやる、ウィル!!」
「やってみろよ豚野郎!! 返り討ちにして、あんたの肉を食ってやる!!」
冷たい雨が降り注ぐ中、二人は互いの顔を殴り、髪を掴み、泥水に顔を押し付け合った。
トマスの歯がウィルの耳を引きちぎらんばかりに噛みつき、ウィルの爪がトマスの目を抉ろうと顔面を引っ掻く。息は絶え絶えになり、全身は泥と互いの血で真っ黒に染まり、もはやどちらが主人でどちらが従者か、人間なのか獣なのかすら判別できない。
限界まで削られた体力が、やがて二人から動きを奪っていった。
ゴフッ、と血の混じった胃液を吐き出しながら、二人はついに互いの襟首を掴んだまま、泥の中に大の字になって倒れ込んだ。
「……ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
廃墟に響くのは、壊れた鞴のような二人の荒い呼吸音だけ。
トマスは、泥まみれの空を見つめながら、自身の顔が笑いの形に歪んでいくのを感じた。
「……ハハッ……ハハハハハッ!!」
「……何が、おかしいんだよ、イカレ野郎」
ウィルもまた、口から血と泥を垂流しながら、力なく笑い声を漏らした。
「一つの……泥まみれの芋だぞ……。銀の拍車をつけた騎士と、その従者が……腐った芋一つのために、殺し合いだ……」
「……ああ。全くだ。最高に笑える悲劇だぜ」
トマスはゆっくりと首を横に向けた。
彼らの間には、取っ組み合いの最中にウィルが吐き出した、半ば潰れた泥まみれの馬鈴薯が転がっていた。
トマスは震える手を伸ばし、その冷たい泥の塊を拾い上げた。半分に割り、その一つを、隣で倒れているウィルの胸の上に無造作に放り投げる。
「……食え。これを食って、明日も俺の馬の横を走れ」
ウィルは胸の上の芋を掴むと、泥ごと口の中に押し込み、ボロボロと涙を流しながら咀嚼した。
「……クソ不味い。死体の肉の方がマシだ……」
「ああ。だが、生き延びるための味だ」
トマスもまた、泥にまみれた半分の芋を口に放り込んだ。
土の味と、強烈なえぐみ。しかし、それが胃に落ちた瞬間、身体の奥底で微かな熱が生まれ、生命が無理やり引き伸ばされるのを感じた。
彼らは、もはやかつての主従ではない。
この絶対的な飢餓と地獄の泥沼の中で、互いの醜悪な底の底まで見せ合い、芋一つで殺し合い、それでもなお分かち合った、呪われた運命の共犯者だった。
トマスは、口の中の泥を飲み込みながら、再び目を閉じた。
こんな惨めな地獄の底にあっても、彼の閉じた瞼の裏には、あざ笑うようなリアナの白銀の幻影が、いまだに焼き付いて離れなかった。
(見ていろ……必ず、這い上がってやる……)
冷たい雨が、飢えた二匹の獣の熱を奪っていく。
果てしない行軍の夜は、狂気とともに深く静かに更けていった。




