第1話 甘い断罪
――ぱちん、と。
シャンパングラスが割れる音がした。それは奇妙なほど澄んでいて、まるで硝子細工の小鳥が首を折られたような、そんな音だった。
その音を合図に、わたくしヴィオレッタ・アシュフィールドの十八年間は、粉々に砕け散った。
「――ヴィオレッタ・アシュフィールド。貴様との婚約を、破棄する」
王太子殿下の声が、大広間に響き渡る。
シャンデリアの光が、蜂蜜のように甘く降り注ぐ夜会。
薔薇の香りが、鼻の奥を焼くほど濃い。
わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。
感情は、動かない。動かせない。幼い頃から、公爵令嬢とはそういうものだと教え込まれてきた。頬に微笑を貼りつけ、菫色の瞳を伏せ、そして――静かに、殿下の隣に立つ少女を見た。
「聖女リリアーナに対する数々の悪行、もはや看過できぬ。処刑塔にて、沙汰を待つがよい」
聖女リリアーナ・ヴァイスローゼ。
蜂蜜色の巻き毛。若草色の瞳。神が誂えたような、砂糖菓子めいた愛らしさ。
彼女はうつむき、震え、殿下の腕に縋りながら――涙を、こぼしていた。
愛らしい、可哀想な、聖なる乙女。
誰もがそう思ったことだろう。
けれど。
わたくしだけは、見てしまった。
伏せられたその睫毛の下、若草色の瞳の奥に――歓喜が、光ったのを。
まるで、待ち望んだ贈り物を、ようやく手に入れた子どものような。
そういう、色を。
処刑塔。
王城の北端、忘れられた古い塔。
石造りの螺旋階段を、鎖に繋がれたわたくしは上っていく。冷たい風が、剥き出しの首筋を撫でた。夜気に混じるのは、雪の匂い。そして、なぜだろう――薔薇と、蜂蜜の香り。
処刑塔とは、こんな匂いのする場所だっただろうか。
衛兵が最上階の扉を開ける。
その瞬間、わたくしは息を呑んだ。
牢獄ではなかった。
そこは、まるで――童話の中の、お姫さまの部屋だった。
深紅の絨毯。金糸の刺繍がほどこされた天蓋つきの寝台。窓辺には白磁のティーセット。焚かれた暖炉が、部屋全体を蜂蜜色に染めている。
そして、その中央に。
彼女が、立っていた。
「――お姉さま」
聖女リリアーナが、両手を胸の前で組み合わせ、微笑んでいた。
先ほどまで殿下の隣で涙を流していた少女が、今は蕩けるような笑みを浮かべて、わたくしを見つめている。
その瞳から、ぽろり、と涙が一粒、こぼれ落ちた。
「……お待ちしておりましたわ。ずっと、ずうっと」
衛兵は、扉を閉めた。
鍵の掛かる音がした。
外側から。
わたくしと、聖女を、二人きりにして。
「リリアーナ……様」
声が、わずかに掠れた。
なぜ、聖女がここに。処刑を待つ罪人の部屋に。
問おうとした唇に、白い指がそっと押し当てられる。
冷たい。氷のように。それでいて――微かに震えていた。
「しっ。もう、様なんて要りませんわ、お姉さま」
聖女は、そのまま、わたくしの頬に触れた。
まるで壊れやすい硝子細工に触れるように、慎重に、うっとりと。
「わたくしのこと、リリィと呼んでくださいまし。昔みたいに。ね?」
昔。
昔とは、いつのことだろう。
わたくしは、この少女と、面識がなかったはずだ。少なくとも、この人生では。
混乱するわたくしを、聖女はふわりと抱きしめた。
蜂蜜と、薔薇と、それから――ほんの少し、鉄の匂いがした。
「怖い思いをさせて、ごめんなさい。でも、もう大丈夫。もう、誰にも邪魔されませんもの」
抱きしめる腕に、力がこもる。
骨が軋むほど、強く。
「婚約破棄も、断罪も、この塔も、ぜぇんぶ――わたくしが、用意しましたの」
息が、止まった。
「殿下を誘導するのは、簡単でしたわ。神託を一つ、囁くだけで。教会も、貴族院も、みぃんな。あの人たちは、聖女の涙がとぉっても好きですから」
うふ、と。
彼女は、幼子のように笑った。
「だってわたくし、お姉さまと二人きりになりたかったんですもの。ずうっと、ずぅっと、そればかり考えて生きてきましたのよ」
抱擁が、解かれる。
聖女は、わたくしの手を取り、そっと窓辺のティーテーブルへと導いた。
紅茶が、注がれる。琥珀色の水面に、湯気がゆらり、と立ちのぼる。
「お座りになって、お姉さま。冷めてしまいますわ」
わたくしは、椅子に、腰を下ろした。
ほかに、どうすればいいのか、わからなかったから。
カップを、口元に運ぶ。
――そこで、気づいた。
紅茶に添えられた砂糖菓子。薔薇のかたちに絞られた、白い、白い砂糖。
それは、わたくしが幼い頃、たった一度だけ、母のいない夜に泣きながら食べた、あの菓子と、まったく同じかたちだった。
誰も知らないはずの。
誰にも、話したことのない。
わたくしだけの、記憶。
カップを持つ手が、震えた。
「……なぜ」
掠れた声で、問う。
「なぜ、あなたが、これを」
聖女リリアーナは、頬杖をつき、蕩けるような瞳でわたくしを見つめた。
窓の外で、雪が降り始めている。
あの日と、同じ雪が。
彼女は、微笑んだ。
砂糖菓子よりも甘く、毒よりも静かに。
「だって、わたくし――前のわたくしたちのことも、ぜぇんぶ、覚えていますもの」
紅茶のカップから、湯気が、ゆらり、と立ちのぼる。
その向こうで、聖女の若草色の瞳が、ゆっくりと細められた。
まるで、逃げ場を失った小鳥を見つめる、猫のように。
「さあ、お茶会をはじめましょう、お姉さま。――永遠に、終わらない、お茶会を」




