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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
10.葵暦199年 随州

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4.楚が瞬く間に滅ぶ


 蒼潤は峨鍈の左腕を両手で掴むと、内側の柔らかいところに唇を押し当てる。

 微かな痛みと、もどかしさやくすぐったさを感じながら峨鍈は蒼潤を見下ろした。

 痕をつけようと懸命になっている姿が愛らしくて、どうして蒼潤以外の者に目がいくものかと思う。

 

「ついたか?」

「うん。でも、薄い。すぐに消えてしまいそうだ」

「またつければいい。――だが、このようなことをしなくとも、儂はお前のものだぞ」


 ぱっと蒼潤が顔を上げて峨鍈を見た。その顔がみるみるうちに赤く染まっていったので、峨鍈はますます蒼潤から目が離せなくなり、堪らなくなって蒼潤の唇に自分の唇を重ねる。

 この頃の蒼潤からは峨鍈に対する『好き』が溢れていた。その想いを言葉にしていない時でも蒼潤はその表情で想いを伝えてくる。


 互斡国で蒼潤と出会ってから8年が経ち、ようやくここまでたどり着けたという心地だった。

 泥だらけの汚らしい悪童ガキだった蒼潤を誰もが振り返り息を呑むような貴公子に育て、性的なものにいっさい関心がなく、まったく触れずに育ってきた蒼潤のその体に少しずつ教え込み、蒼潤自ら誘うようになるまでに育てたのだ。

 あとは、成人してもなお、幼過ぎる精神面だけだと思っていたところ、蒼潤は嫉妬心や独占欲に目覚め、『好き』に違いがあることに気が付いたようだった。

 そして、己にとってその特別な『好き』が向く相手は峨鍈だけなのだと蒼潤は理解している様子だ。


「天連、愛している」


 峨鍈は蒼潤の唇から唇を放すと、囁き漏らすように言った。

 蒼潤は吐息を漏らしただけで、答えない。――そう。あともう少し。蒼潤が『愛』に気付けば、峨鍈の体に己の痕をつける必要がないことを知るだろう。

 蒼潤が薄く唇を開き、小さく舌を出して離れた峨鍈の唇を追ってくる。再び深く重なり、蒼潤の両腕が峨鍈の首に回ったのを感じて、峨鍈は蒼潤の体を床に組み敷いた。



 △▼



 長らく所在が分からなかった鍾信しょうしんが裴城に2千の騎兵と共にやってきて峨鍈に投降した。峨鍈はこれを受け入れる。

 その後、夏銚を赴郡に戻し、夏葦を斉郡に向かわせた。

 蒼邦から琲州刺史の任を解き、太守として杜山郡に向かうよう命じると、峨鍈は瓊堵討伐のために裴城から予州栖郡瑞俊に向かって進軍した。


 安尾県に攻め込んでいた瓊堵は、熊匀と卞豹がそれぞれ2千の兵を率いて迫っていると知るや否や安尾県から撤退し、瑞俊に向かって逃げたので、峨鍈は瑞俊の手前で瓊堵を待ち構えて討つつもりである。


 そんな中、杜山郡に向かったはずの蒼邦が随州古壌郡に進軍し、古壌こじょう城を占拠した。

 随州には、かつて随州牧であった彭顕ほうけんの配下が未だに残っており、彼らは彭顕が後継として定めた蒼邦を慕っていた。

 一方、蒼邦も随州から唔貘を追い払った後は、当然、自分が随州に入れるものと考えていたのだろう。

 峨鍈に杜山太守を任じられて不満を抱いたに違いなかった。


「不満があったのなら、直接言えばいいのに!」


 声を荒げた蒼潤に峨鍈は、まったくだ、と同意する。

 だが、近年、峨鍈に対して面と向かって物を言える者は、蒼潤を含めたごく少数しかいなかった。その少数のうちである夏銚や夏葦でさえ、時折、言葉を選んでいる様子を見せる。

 蒼邦が峨鍈の前で不満を口にできなかったとしても、それは致し方がないことだった。


 かくして、峨鍈が随州牧に任じた衛善えいぜんが、蒼邦を討つべく珂原城から出陣した。

 すると、蒼邦も古壌城から出陣し、彭顕の遺臣たちの力を借りて衛善を討ち、峨鍈軍を随州から追い出した。

 衛善の補佐に付けていた阮能げんのうは逃げ延び、裴城を抑えて峨鍈の帰還を待っているという。

 衛善はまだ若く、今後を期待できる人材であったのに、蒼邦のために失ってしまったと思うと峨鍈は怒りが湧いてきた。


「瑞俊を落とし、熊匀ゆうきん卞豹べんひょうと合流した後、随州に向かう」


 瓊堵が瑞俊に戻ってくるのを待っていられないと、峨鍈は瑞俊に攻め込み、これを陥落させた。

 帰る場所を失った瓊堵は栖郡を彷徨い、その間にも次々と臣下たちに見離されて、最期はたった3人の側仕えと共に民家に潜んでいたところ、卞豹の兵に発見される。


 しかし、卞豹が駆け付けた時には瓊堵に息はなく、痩せ細った体はとても皇帝を自称していた者のものとは思えず、卞豹にはそれが本当に瓊堵であるか判断がつかなかった。

 卞豹は遺体を瑞俊に運び、峨鍈の判断を仰ぐ。

 峨鍈は、物言わぬ瓊堵と対面し、確かに瓊堵だと断じて、その遺体を瓊堵の遺族に引き渡した。


 こうして、瓊堵が興した『楚』は瞬く間に滅ぶ。


 餓えた瑞俊の民のために安尾県からの食料の運搬を命じると、峨鍈は随州に兵を進めた。

 裴城で兵糧を含む物資を掻き集めていた阮能がこれに加わり、蒼邦が占拠した古壌城を攻める。


 蒼邦は掻き集めた5千の兵を率いて城から出てきたが、峨鍈は同数の兵でこれを破り、さらに夏銚が5千の兵を率いて赴郡から進軍してくる気配を見せたので、蒼邦は夜を待って古壌城を逃げ出した。

 彭顕の遺臣たちの多くは逃げ遅れ、随州に蒼邦を招いたことを悔やみ、峨鍈の前に膝を屈する。


 峨鍈は熊匀に命じて蒼邦を追わせると、蒼邦は北の壬州に逃げ込んだ。壬州は瓊倶の長男の支配下にあった。

 壬州の手前で引き返してきた熊匀は、馬車を一台だけ伴って古壌城の城門をくぐる。

 先に古壌城に入っていた峨鍈は内城の正殿で熊匀を迎えると、熊匀の後ろから面紗で顔を隠した少女が正殿に入ってきた。


天鈺てんぎょく!」


 すぐさま蒼潤が峨鍈の隣で声を上げ、引き止める間もなく峨鍈の側を離れて少女に駆け寄った。


「大丈夫か? 怪我はないか? 乱暴なことはされていないか?」

「兄上」

「どうしてお前がここに? 姉上はどうした?」

「私は逃げ遅れてしまったのです。姉上は大丈夫です。無事に逃げられました」

「姉上に置いて行かれたのだな。可哀想に。怖い思いをしただろう」

「大丈夫です。ゆう殿がとても親切に接して下さいました。ですから、私よりも殿が……」

「魏殿?」


 蒼潤は少女の視線の先を追って振り返る。

 峨鍈もそちらを見て驚いた。魏壬が体に縄を掛けられて、熊匀の配下の兵士たちに引き立てられて来るではないか。

 蒼潤の妹――蒼麗が面紗の奥で声を震わせながら蒼潤に告げた。


「魏殿は逃げ遅れた私を助けようと、引き返して来られたのです」

「なんて愚かな」


 蒼潤は、信じられないとばかりに魏壬を見やる。

 すると、魏壬が蒼潤を真っ直ぐに見つめ返したので、左右から兵士たちが慌てて魏壬の膝の裏を叩き、跪かせた。

 蒼潤は魏壬に歩み寄りながら続ける。


「天鈺は俺の妹だ。天鈺を害そうとする者など、ここにはいない。――とは言え、妹を守ろうとしてくれたことに対して礼を言う」


 魏壬ほどの人物だ。蒼麗のことさえ気に掛けなければ、易々と逃げられたはずである。

 その上、蒼麗は郡主で、蒼潤の同母妹だということを考えれば、峨鍈軍の兵士たちが蒼麗に無体を働くはずがないのだが、万が一のことを案じて蒼麗のために引き返してくれた魏壬を蒼潤は素直に嬉しく思った様子だった。

 魏壬の前で片膝を着き、蒼潤自らの手で魏壬の縄を解く。


「だが、俺の一存でできることはここまでだ。縄は解けても、お前を解放し、主のもとに帰してやるわけにはいかないだろうな」


 助けを求めるように蒼潤が振り返って峨鍈に視線を向けてきたので、峨鍈は親指の腹で顎をひと撫でしてから口を開いた。


「魏壬。お前の主は瓊倶を頼って北に向かったが、瓊倶は瓊堵同様、自らの力を誇り、陛下に代わって天下を治めようと考えている。青王朝の敵となるのも時間の問題だろう」


 瓊堵は最期、あれほど仲が悪かった瓊俱を頼り、北に向かおうとしていたようだった。楚の玉座を譲るとの書状を持たせた使者を瓊俱に送っている。

 これを受けて瓊俱は瓊堵に迎えを送ろうとしていたので、瓊俱が帝位に興味を抱いていることは確かだ。

 峨鍈の言葉を聞いて蒼潤がハッとした表情を浮かべ、再び魏壬に振り向いた。


「蒼邦は、なんとかっていう郡王の末裔だと聞いた」

陸成りくせい郡王です」


 うろ覚えの蒼潤に甄燕が囁く。甄燕は魏壬を警戒して蒼潤の傍らに控えていた。

 蒼潤は甄燕の囁きに大きく頷く。


「そう、陸成郡王だ。その末裔を名乗るくらいなのだから、蒼邦には青王朝と敵対する意志はないはずだ。ならば、いずれ青王朝に背くであろう瓊倶に臣従するなどあり得ない」


 真意はどうあれ、蒼邦は青王朝の再興を掲げて挙兵している。

 蒼邦の臣下には蒼邦が掲げたその言葉を強く信じて彼に従っている者も少なくないだろう。

 己の根底を支えるものであるのだから、蒼邦がそれを易々(やすやす)と捨てることはできないはずだ。


「つまり、蒼邦は遠からず瓊倶のもとを去る」


 今はただ、生き延びることを第一とし、峨鍈に対抗できる勢力として瓊倶を選んだだけなのだ。


「――であるのなら、魏壬。お前まで瓊倶のもとに行くことはないだろう。むしろ、今ここで、お前が主に代わって青王朝のために力を尽くせば、お前の行いは後にお前の主を救うことになる」


 一時的に青王朝の敵の陣営に身を置いていたとしても、それはあくまでもそうすることでしか生き延びる術がない状況だったからで、己の本意は青王朝のもとで忠誠を尽くし続けた魏壬と共にあったのだと、蒼邦は言い訳がたつ。

 魏壬も蒼潤が言わんとすることを察したようだ。


「殿下のお言葉に従います。青王朝のために力を尽くすことは我が主君の宿願。我が主君との再会が叶うまで主君に代わり、そのお役目、果たさせて頂きます」


 あくまでも己は蒼邦の臣下であり、仕える相手は峨鍈ではなく青王朝であると明言して魏壬は深く頭を下げる。

 その様子を見て満足すると、蒼潤が峨鍈のもとに戻ってきた。峨鍈の座る牀の横に立つ。

 峨鍈は蒼潤ほど満足していなかったが、兎にも角にも魏壬を手元におくことができるのだ。今後の状況や峨鍈の彼に対する接し方で、彼が蒼邦を見限り、峨鍈に仕えたいと望む日が来るかもしれない。

 峨鍈は賓客として魏壬を遇することを決めた。




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