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蒼い翼 ~深江郡主の婚姻~  作者: 海土 龍
10.葵暦199年 随州

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2.好き。すごく好き


「お前はこういう時にそういうことを言うのか」


 卑怯だと言わんばかりだ。

 蒼潤も我ながらズルいと思った。

 

「ごめん。でも、お前が好きなんだ。――抱き締めて欲しい」


 どこで何をしてきたのか、峨鍈に話してしまっても構わなかった。

 おそらく柢恵も必要な時に雨を降らすことができたので、もう構わないと言うだろう。

 だけど、蒼潤の本能が、蒼潤の力を峨鍈に告げてはならないと警告する。だから、蒼潤は何も告げずに布団の中で体を震わせて彼の温もりを求めた。

 峨鍈の視線は、蒼潤の青い髪に注がれている。彼は蒼潤の髪から簪を抜いた。

 雨が天幕を激しく打ち、雨音がうるさいほど鳴り響いている。眩しいほどだった陣中の篝火の多くは消えてしまっていた。


「伯旋」


 催促するように彼を呼べば、舌打ちをして峨鍈が布団を捲って蒼潤の隣に潜り込んでくる。

 すぐに蒼潤は彼の大きくて温かい体に体を添わせて、両腕で力いっぱい抱きついた。


「ごめん。本当にごめん。もう二度と勝手に側を離れたりしないから」


 彼がなかなか抱き締め返してくれないので、蒼潤は唇を彼の首筋に触れさせて、舌先でぺろりと舐めてからその場所を吸った。

 彼の背中に回した両手で彼の体から袍を剥ぎ取って、はだぎの中に手を差し入れれば、冷たいと峨鍈が短く言葉を放った。

 更に怒りをかったと思い、身を引こうとした蒼潤の腰を峨鍈の腕が捕らえる。


「もう1度、儂が好きだと言ってみろ」

「うん。伯旋が好きだ」

「もう1度」

「伯旋が好き」

「もう1度」

「伯旋が好き。すごく好き」

「もう1度」

「好き。お前になら殺されてもいい」


 好き、と言葉にする度に蒼潤の胸は熱くなって、想いが溢れ、苦しいほど切なくなる。

 ここでこのまま死んでもいいという気持ちになって、再び峨鍈の背に両手を回してその体に縋りつく。


「お前に嫌われたり、遠ざけられたら、俺は死んでしまう」

「お前を嫌ったりはしない。常に目の届くところに置いておきたい」

「でも、お前、まだ怒っているだろう?」

「ああ、怒っているな。じつに腹立たしい。――お前、今夜だけで、いったい何人に青い髪を晒した?」


 青い髪と言われて蒼潤は思いを巡らせる。

 夏銚と夏範に見られたが、その前に柢恵にも見られていた。そう正直に答えると、その口が忌々しいとばかりに荒く口付けてくる。

 乱暴に扱われているのに蒼潤は心地良くなって彼の首に両腕を回して、もっとと強請った。

 そうしているうちに、先に胸の中が熱くなり、やがて体も温まる。


 翌日、柢恵は体調を崩して臥牀に伏すことになったが、蒼潤は別の理由で臥牀から起き上がることができなかった。



△▼



 珂原城の囲みを解いて、峨鍈は軍を引いた。

 そして、新たな陣を珂原城から北西に30里のところに敷く。

 2日前の夜に降り始めた雨は未だにシトシトと降り続いており、涕河の堰も陲河の堰も十分な水量が溜まっていた。

 それを確認した柢恵は咳き込みながら、巻き込まれぬように軍を移動することを進言し、峨鍈がこれに従ったというわけだった。


 堰を壊す者たちだけを残して夜更けに軍を動かしたので、夜が明け、城壁の外に峨鍈軍の姿が消えていると知った唔貘軍はさぞかし驚いたことだろう。

 そして、その直後、2つの川の堰は壊される。

 

 どうどうと音を立てて二方向から押し寄せてきた水は珂原城の手前で合流し、ひとつの大きな流れとなって、珂原城の城壁へと押し寄せた。

 川の水で城壁を砕くことはできなかったが、柢恵の計算した通りに水の直撃を受けた城門が大破し、城壁の中に水が流れ込む。

 冬の冷たい水が珂原城を満たし、唔貘軍の兵士たちは膝下まで水に浸かった。しかも、その水は一向に引くことがなく、それどころか、どんどんと嵩が増していた。

 兵糧庫が浸水し、たちまち城内に暗雲が立ち込める。


 5日目の朝を迎えた頃、ようやく雨が止んだ。すると、涕河も陲河も普段の水量に戻ったが、新しい流れに沿って珂原城に流れ続けている。

 あともう2日経てば新しい年が明けるという頃になり、城内で叛乱が起こった。

 籠城に堪えられなくなった者たちが唔貘に対する不満と不信を爆発させて、晤貘に剣を向けたのだ。

 彼らは珂原郡に古くから暮らしている豪族であり、或いは、唔貘が随州に入った以降に彼に臣従した部下だった。

 

 長く苦楽を共にしてきた鍾信が唔貘の側にいたら、また違った結末があったかもしれない。

 しかし、この時、唔貘の側には軍師として唔貘に仕えている陳非ちんひしかいなかった。


 陳非はかつて峨鍈の配下であり、峨鍈が椎郡太守に任じていた者である。

 裏切り者の汚名を着せられたことに憤り、峨鍈とたもとを分かち、唔貘のもとに下った。

 陳非は戦略や計略を必要としない唔貘になかなか苦労をしたが、ただ武だけしか持ち得ていない唔貘にとっての智になりたいと、唔貘に対して最期まで忠実に仕えた。

 部下たちの裏切りにあった唔貘を守ろうと城内を駆け回ったが、力及ばず、唔貘の目の前で背中から切られて絶命した。


 峨鍈が全軍を率いて珂原城にやって来ると、城門から縄に縛られた状態で晤貘が城から出てきた。

 己を裏切った部下たちに家畜のように引きずられて、峨鍈の前に転がされると、晤貘はギロリと峨鍈を睨みつける。


 不意に唔貘が暗く嗤った。

 唇の端からゆっくりと血が流れ、彼が舌を噛んだのだと知る。

 峨鍈は晤貘の躯が地に沈むと、その体を引き起こさせ首を刎ねさせる。そして、その首を城壁に晒すよう命じた。――これが天下無双の豪傑と謳われた晤貘の最期である。


 峨鍈は珂原城の後始末を随州牧に任じた衛善えいぜんとその補佐に据えた阮能げんのうに任せて、その日のうちに珂原城を発った。

 向かった先ははい郡である。


 明けて、葵暦199年。

 裴城にて蒼潤は姉妹たちと再会を果たす。

 久方ぶりに3人が揃ったのだ。時間を忘れて話に花を咲かせていることだろうと思っていると、腹を立てた様子で蒼潤が峨鍈のもとに戻ってきた。

 

「どうかしたか?」


 蒼邦が裴城の一番良い客室を峨鍈に用意したので、そこで葵陽から届けられた書簡に目を通していた峨鍈は、室の中に飛び込んで来た蒼潤に視線を向ける。

 蒼潤は甄燕を伴なっており、その腕を強く握りしめていた。


「姉上が安琦を返せって言ってきた!」

「何? 安琦は姉君のものなのか?」

「っんなわけがない! たしかに、安琦は姉上の乳母の息子だけど、ずっと、ずっと、俺と一緒だったんだ」


 峨鍈は説明を求めて甄燕に視線を向けた。甄燕は蒼潤に腕を掴まれたまま峨鍈に向かって膝を折り、片腕だけで礼を取った。


「河環郡主様の乳母のおん氏は、わたしの実の母です。わたしは6つの時に郡主様から命じられて天連様に仕えることになりました」

「つまり、真の主は河環郡主ということになるな」

「なんでだよ!」


 納得がいかない、と蒼潤は声を荒げた。

 蒼潤は甄燕のことを友として慕っている。だが、それだけではなく、蒼潤が深江軍を率いるためには甄燕の存在はなくてならなかった。実質、深江軍を率いているのは甄燕だからだ。

 峨鍈としても甄燕には蒼潤の側にいて貰いたいところだ。

 甄燕ほど蒼潤を理解し、蒼潤の突拍子もない言動についていける者はいない。尚且つ、甄燕は蒼潤の言うがままにならず、時には諫めたり、必要であれば蒼潤の意に反することも行えた。


 峨鍈は手にしていた書簡を文机の上に置くと、蒼潤を自分の近くへと手招く。

 蒼潤は甄燕から手を放すと、文机の前まで歩み寄って来て峨鍈の正面に座った。甄燕はそのまま室の入口で控えている。


「だが、戦乱の世だ。主を見限ることも、己自身で主を選ぶこともできよう」


 蒼潤の瞳を見つめながら言えば、蒼潤が言葉を呑み込んで、ぐっと喉を鳴らした。

 峨鍈は文机に肘を着き、片腕を伸ばして蒼潤の頭をくしゃりと撫でる。そして、甄燕に向かって言った。


「それで、安琦。お前はどうしたいのだ?」

「身の振り方を自分で選ぶことができるのでしたら、わたしは天連様の側にいたいです」

「安琦!」


 蒼潤が嬉々として甄燕に振り返る。


「何故?」

「大した理由はないのですが、今の境遇に不満がないからです。天連様はわたしを必要として下さいますし、殿にも目を掛けて頂いています」

「ふむ」


 峨鍈が満足げに頷くと、甄燕は、ですが、と言葉を続けた。


「郡主様のもとに行けば、おそらくわたしは3日で逃げ出すでしょう。あの方とは考え方が合いませんし、意見を述べてもまったく聞き入れて頂けませんので、あの方の側にわたしがいる必要性を感じられません。なので、新たな主を探すために出奔します」

「ならば、今後も天連の側にいれば良い。郡主が何か言ってきたとしても聞き流せ」

「だけど、姉上はうるさいぞ」

「こう言えば良い。一度頂いたものは返せないとな」

「くれてやったつもりはないと言ってきたら?」

「既に自分のものだと言い通せ」


 峨鍈は片手を払って甄燕を下がらせる。

 すると、蒼潤が甄燕が去ったのを見て文机に両肘を乗せ、峨鍈の方に顔を寄せて来た。


「実は、清雨も返せって言われている」

「清雨?」

「俺が密かに使っている者だ」


 ああ、と峨鍈は思い至って唸るように声を漏らす。

 蒼潤の側には間者として動いている者がいると、かつて不世が言っていたのを思い出した。


「清雨も元は姉上が使っていた者だったんだ。お前と婚姻を結び、互斡国を発つ時に姉上から譲って貰ったんだ」

「ならば、安琦と同じだ。貰ったものは返せないと言えばいい。しかも、それは婚姻祝いだろう。安琦よりも返す理由がない」

「なるほど! そうだよな。うん、そうする」


 蒼潤は心から安堵したという顔をする。

 それから、むっと眉を顰め、気まずそうに唇を尖らせて言った。




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