プロローグ
雨の匂いがした。
重く、冷たい雨だった。
石畳を叩く雨音の中、セレナ・ヴァルハイトは静かに顔を上げる。
両手には枷。
首には罪人用の拘束具。
かつて王国近衛騎士として剣を握っていた指先は、血が滲むほど鎖に擦れていた。
「歩け」
背後の騎士に押され、セレナはゆっくりと階段を上る。
処刑台。
その単語だけで、民衆の歓声が大きくなった。
「裏切り者だ!」
「王女殿下を誑かした女!」
「死ね!!」
飛んできた石が額を掠める。
鈍い痛みに襲われるがセレナは眉一つ動かさなかった。
痛みなど、戦場で嫌というほど慣れている。
それよりも――。
(……殿下)
セレナは視線を王城へ向ける。
高くそびえる白亜の城。
雨に煙る窓の一つ一つを、彼女は探した。
第一王女リリアーナ・エルフォード。
自らが剣を捧げた主人。
誰より敬愛し、命を賭して守ってきた人。
だが……
どの窓にも、その姿はなかった。
「…………」
胸の奥が、静かに冷えていく。
騎士団へ入った日のことを思い出す。
泥だらけの平民の娘だった自分へ、リリアーナは笑いかけてくれた。
『貴女、強いのね』
その言葉だけでよかった。
だから剣を振った。
血を流した。
人を斬った。
全てはあの人を守るためだった。
なのに。
「……来て、くださらないのですね」
小さく呟く。
雨音に消えるほど小さな声だった。
その時だった。
カツ、カツ、とヒールの音が響く。
処刑台の下。
真紅の傘を差した女が立っていた。
カミラ・ローゼンベルク。
王女付きの側近であり、社交界の華と呼ばれる公爵令嬢。
そして――。
自分をここへ送った女。
「まあ、なんて惨めなのかしら」
カミラは扇で口元を隠し、楽しそうに笑った。
「……」
「ずいぶん探しているようだけれど、リリアーナ殿下は来ないわ」
セレナは答えない。
だがカミラは続ける。
「当然でしょう? 反逆者を庇えば、殿下まで立場を失うもの」
「…………」
「貴女はもう捨てられたのよ、セレナ」
その言葉が、妙に静かに胸へ落ちた。
怒りはなかった。
悲しみも。
ただ、空っぽになる感覚だけがあった。
すると、処刑人が大斧を担ぎながら前へ出る。
「罪人セレナ・ヴァルハイト」
冷たい声が響いた。
「国家機密漏洩、反逆罪、ならびに王族への叛意により、斬首刑に処す」
民衆が沸く。
セレナは静かに目を閉じた。
否定はしない。
どうせ誰も信じない。
証拠は揃えられ、証人は買収され、全ては完成していた。
完璧な罠だった。
唯一、心残りがあるとすれば。
最後に一度だけでも、王女の声を聞きたかった。
「最後に言い残すことはあるか」
処刑人が問う。
セレナはゆっくり目を開けた。
雨空の向こう。
灰色の空を見上げる。
そして。
「……貴女の剣でいられたことだけは」
掠れた声で呟く。
「誇り、でした」
その瞬間だった。
「お待ちなさいッ!!」
鋭い声が広場に響いた。
セレナの目が見開かれる。
この声は。
間違えるはずがない。
「処刑を止めなさい!! その判決は――!!」
リリアーナ王女だった。
王城側の門が開き、雨の中を駆けてくる。
ドレスの裾も構わず。
息を切らしながら。
だが。
カミラが薄く笑った。
「……遅いのよ」
直後、処刑人の斧が振り下ろされる。
「やめ――!!」
王女の叫び。
雨。
歓声。
そして。
視界が、赤く染まった。
――ああ。
最後に。
来て、くださったのですね。
その言葉を最後に、セレナの意識は闇へ沈んだ。
……はずだった。
「本当に申し訳ありませんでしたー!!」
「…………は?」
気が付くと、真っ白な空間だった。
床も。
空も。
何もかも白い。
その中心で、見知らぬ女が勢いよく土下座していた。
金髪美女。
背中から生えた光の羽。
どう見ても人間ではない。
「えっとですね! その! 説明すると長くなるんですが!」
女は顔を上げ、引き攣った笑みを浮かべた。
「死なせる人、間違えました!」
「…………」
数秒、沈黙が落ちた。
セレナはゆっくり瞬きをする。
そして静かに聞き返した。
「……何を言ってるの?」
「だからその、貴女、本当はまだ死ぬ予定じゃなかったんですよね!」
女はあわあわと両手を振る。
「いやもうほんとごめんなさい! 書類が似てて!」
「書類」
「はい!」
「似ていて?」
「はい!!」
セレナは無言になった。
長い沈黙。
やがて。
「……つまり」
彼女は静かに口を開く。
「私は貴方のミスで首を刎ねられたと?」
「はい!」
満面の笑みで答えられた。
ぶちっ、と。
何かが切れる音がした。




