【四場】民衆を繋ぐ楔
―――翌日。街の広場に、教会からの告知書が張り出された。市民や旅人の憩いの場であったはずの中央広場は不穏な空気で満たされ、人々は不安を張り付けた表情で告知書を見つめている。
「あの子が魔女だなんて……」
「また教会の言いがかりだろう?」
「シッ! どこで誰が聞いてるかわかったもんじゃないよ」
街で幾度となくネルケと交流してきた人々が、告知書を前に声を潜めて囁きあう。この場にも市民に扮した協会関係者がいないとも限らないと、周囲を確かめ、見慣れない顔が無いか気にしつつ銘々言いたいことを言っている。
「それにしても、審議もなしに処刑だなんて……随分前にジークリンデ卿が教会の建設を拒んだこと、まだ恨んでるんじゃないだろうね」
「ああ、それがあったか……可哀想に。お父上が亡くなられて好機とみたんだろうな」
「だからって、火刑にされるようなことをあの子がするとは思えないんだけどねぇ……」
「そうは言っても、こうなってはどうしようもないよ」
市井の声は概ね「可哀想だが仕方ない」「どうすることも出来ない」といったもので、助けてやろうという気概のある者はいない。いくら慕わしげにしていた少女であっても、自分や家族の命を天秤にかけたとき、身近なほうを守ろうとするのは人として仕方がないこと。
「…………処刑は明日の夕刻……か」
ざわめきの後方、目深に被ったフードの下で呟く声が一つ。斜め前ではカンナがじっと告知書を見上げているのが見える。マントを羽織った人物は静かに告知書を睨むと、誰に気付かれることもなくその場を去った。
「ネルケ……もしかして、あのときの腐れ坊ちゃんのせいじゃ……」
広場の端で、カンナが小さく呟く。彼女はネルケから唯一、アレクセイに関する愚痴をネルケから聞いていた人物だ。いまになって元気がなかった理由がこれなのではないかと思い至るが、告知書が出てしまっては処分が覆ることはあり得ない。
「アイツの親は確か、教会派の枢機院だったわね。親も親なら子も子だわ」
カンナは唇を引き結ぶと、告知書に背を向けて駆け出した。
ジークリンデ家では、青白い顔をしたネルケの母が年かさのメイドに支えられながら、ベッドの上で薬を飲んでいた。
母はネルケの処刑が決まったと戸口で告げられ、そのまま昏倒してしまったのだ。共に対応に出た若いメイドが咄嗟に支えたため怪我をすることはなかったが、元より体が強いほうではない母は、一人娘が失われようとしている事実に耐えきれなかった。
「いまから、私があの子に出来ることはあるのかしら……」
「畏れながら奥様、お嬢様は、一時的に王都に幽閉されております。いまから向かっても入れ違いになってしまうかと……」
「ネルケ……私がもっと強く止めていれば……いいえ、最初から私が教えたりしなければ良かったのよ……」
教会の横暴によって壊されたオルゴールを眺めては哀しそうにしているネルケを見て、少しでも救いになればと教えたことが徒となってしまった。代わりのものを買い与えても意味がないと知っていたからこその、森の魔女の話だったというのに。
いまになって、後悔ばかりが募る。目を閉じると、真昼の太陽のような娘の笑顔が瞼に浮かぶ。窓の外はいつもと変わりなく抜けるような青空が広がっているのに、心に落ちた暗雲は晴れてくれそうにない。
「あの子の処刑は、明日の夕刻、広場で行われるのだったわね」
「はい。そう聞いております」
「それまでには、動けるようにならないといけないわね……あなたには手間をかけるわ」
「いえ、奥様のためでしたらどこへでもお供致しますわ」
力なく微笑む母の体を横たえ、メイドは傍に控えた。
「今日は帰らず、お屋敷におりますわ、ガルデーニエ様」
「ありがとう、ヴィンデ」
長年の付き合いを感じさせる言葉少なな会話をして、それから沈黙が部屋を包む。白く嫋やかなガルデーニエの指先が微かに震えていることに、ヴィンデは気付いていた。
まだヴィンデが未熟な若いメイドだった頃―――ガルデーニエが独身だった頃、故郷の屋敷にいたときから仕えてきた仲だ。顔色一つ、視線一つからもわかることは多い
「奥様。お休みのところ失礼致します」
静かな室内に、控えめなノックの音が届いた。扉の奥から若いメイドの呼ぶ声がして、ガルデーニエはヴィンデに目配せで応対に出るよう告げる。
「何事です」
ヴィンデはガルデーニエに目礼をして扉に近付くと、薄く扉を開いて応対に出た。長い黒髪と紫の瞳を持った若いメイドは、ひどく恐縮しながら頭を下げた。
「奥様にお客様です。奥様の体調が優れないようでしたらヴィンデさんに取り次ぐように言われました」
「すぐ向かいます。暫くのあいだ、奥様を頼みました」
「畏まりました」
端に避け、恭しく頭を下げるメイドに見送られながら、早足で階下へと降りていく。
ヴィンデが玄関へ向かうと、エヴァルトに住む認定錬金術師であるテオドールがいた。彼の傍らには、影の如く付き従う助手らしき青年、ルカもいる。
テオドールは帽子を軽く持ち上げて挨拶をすると時間が惜しいとばかりに、早速本題を切り出した。
「実はジークリンデ夫人に協力してほしいことがあって来たんだ。明日の処刑、このまま見過ごすわけにはいかないだろうと思ってねえ」
「申し訳ないのですが、奥様は臥せっておられます。私で構わなければ伺いますわ」
彼は、このエヴァルトを田舎集落から交易都市にまで発展させた人物だ。酪農と農作で保っていた集落だった頃を知るヴィンデにとって、テオドールの行いがどれほどのものか語るまでもなく理解している。だからこそ、こうして対面すると彼の底意知れなさを痛感するため、苦手意識を抱いてしまう。
それでもヴィンデはガルデーニエのため、平静を装って使用人頭として対応した。
「話を確実に伝えてもらえるなら、それで構わないよ」
「お約束致しましょう。奥様と、お嬢様のためになることでしたら、必ず」
ヴィンデが真っ直ぐに言い切ると、テオドールは満足げに笑みながら頷く。
「彼らのことだから、最期の慈悲だとか言って、恐らく奥方に焔石を火刑台へ添える役が与えられるはずだよ」
「……そうでしょうね」
過去の事例からも、処刑される者と近しい人間が最期の一手を詰める役割を課せられることが多かった。今回のように大々的に処刑するときなどは、特に。それはヴィンデにも覚えがあった。ジークリンデ家で勤めるようになって長い彼女は、使いで王都などの他の都市を訪れた際に処刑を目にしたことがある。そして、娘や恋人の下に火種を置くことがどうしても出来ずに拒んだ者が魔女に魂を売ったとされ、その場で切り捨てられたこともあった。目の前で愛する者が斬り殺され、その死体を見ながら焼き殺されるという苦痛を無実の女性が味わうのを、幾度となく目にしてきた。
「お嬢様には、奥様しかいらっしゃいませんから」
ヴィンデはこれから訪れる悲劇と夫人の心労を思い、眉を寄せた。
「そのときついでにこれを紛れ込ませてほしい」
ヴィンデに手渡されたのは、指の先ほどの小さな鉱石だ。薄水色と紫、緑の三種あり、このまま指輪にでも加工出来そうな輝きを放っている。
「これは……?」
「僕が特別に加工した鉱石だよ」
「それだけで良いのですか」
「うん、十分だよ。寧ろこれが上手く行かないと娘さんを助けられないから、お母上にはしっかりやりきってほしい。どうすればいいかは、彼女なら見ればわかるはずだ」
ネルケを助けると簡単に言うが、たとえ認定錬金術師であっても教会に逆らえばどんな目に遭わされるか知れたものではないはずだ。そう過ぎったのが顔に出たのか、にっこり笑ってテオドールは「大丈夫」と言った。
「僕に不可能はないから。ねえ、ルカ」
「はい。傷心の奥方には酷なことであるとは存じますが、しかしお嬢様の命に代えられるものではないかと」
僅かな感情も窺えない表情で、ルカが頷く。ヴィンデは整いすぎたルカの容姿に畏怖を覚えながらも、確と頷いた。
「確かに、お伝えしておきます」
「よろしく」
最後に一礼して、テオドールとルカは並んで去って行った。
いったい彼らが具体的になにをするつもりなのか、ヴィンデには知る由もない。だが、このまま仕えている夫人の大切な一人娘が処刑されるのを黙って見ているか、彼の提案を受けるかの二択しかないのなら、悩むことはなにもないのだ。
ヴィンデはガルデーニエの寝室に戻ると、部屋を任せたメイドを帰らせてから、彼らに言われたことを全て伝えた。話して聞かせるうち、蒼白で精気がなかったガルデーニエの顔に意志の光が灯っていく。
「これは……あの森で取れる鉱石を加工したものですね」
「奥様なら見ればわかると仰っておりましたが……」
「ええ、確かに。この鉱石に関しては、使い道程度ならわかります」
手の中にしっかりと握り締め、一度目を閉じてからゆっくりと開く。
この鉱石は、ある魔法を使う際に素材として使用するものだ。鉱石で取り囲んだものを正しい形に整える魔法の素材。
そんなものでなにをしようというのかはわからないが、命がかかっていることは事実。
「テオドール様の考えは、私のような凡人には到底及ばぬものなのでしょう。黙して娘の処刑を待つくらいなら……私は……たとえこの身に代えようとも……」
処刑を告げられたときと比べて遙かに力強くなった声音で言うガルデーニエに頷くと、ヴィンデは部屋のカーテンを閉めてベッドの傍についた。
街が、そこはかとなくいつもの賑わいを取り戻せないまま日暮れを迎えようとしている頃。カンナは馬を駆り、街外れの街道を目指して駆けていた。
「……いた!」
目当てのものを見つけ、一層足を早めて駆け寄っていく。カンナの目的は、ある貴族の紋章が入った馬車だった。馬車を追い越し、行く手を遮るようにして立ちはだかる。と、馬車が急停車し、中から豪奢な身形の青年が顔を出した。
「そこを退け! この馬車がアレクセイ・ツヴィングリのものと知らないのか!?」
「わかっててやってんのよ、この腐れ坊ちゃんが!」
馬乗から怒鳴りつけると、アレクセイは顔を沸騰しそうなほど赤く染めた。相手の服が明らかに平民であること、自分より年下の女であること、なによりネルケに似た生意気な口調と強気の態度が気に食わなかった。
「あんた、自分がなにしたかわかってんの!?」
「な……い、言いがかりで平民風情が貴族の馬車を止めたのか!」
あからさまに動揺したアレクセイを見下ろし、カンナは唇を噛みしめた。
何一つ覚悟をしていないくせに、ただ気に入らないという理由だけで他人を処刑させるこの男が赦せなかった。しかもただ教会に売り渡すだけ売り渡して、その結果を見届けることすらしない卑劣な根性が、なにより赦せない。
ネルケの言葉は全て真実だった。横暴で傲慢で自尊心と自己愛の塊が豪奢な服を纏って歩き回っているような男だと言っていた、その通りの人間だと確信した。
カンナは馬上からアレクセイを睨むと宿屋の仕事で鍛えた良く通る声に、静かに怒りを乗せた。
「いっつも貴族だ何だって偉そうに触れ回ってるくせに、いざとなったら日暮れに乗じて逃げるのね。そんなんだからネルケには相手にされないし、似たものレベルの馬鹿ばっか侍らす嵌めになるんじゃない」
「ッ! うるさい!! 下等な平民が、知った口を利くな!!」
「あんたは! その下等な平民以下だっていってんのよ!!」
権力を前面に押し出そうとも怯まない相手に、アレクセイは苛立ちが募るのを感じた。屈辱で仕方ない。なにが一番気に入らないかと言われれば、彼女と話しているとネルケを否応なく思い出すのが気に入らない。田舎貴族の女に言われるのも許し難いというのに、あろうことか平民如きが生意気な口を上から利いてくるのだ。
これまで思い通りにならなかったことは、一度だってなかった。皆父の名を出せば頭を下げて媚びへつらってくる人間ばかりだったのに、ネルケに出会ってからはなにもかもが上手く行かない。
「お前がどこの女か知らないが、調べ上げて父様に家ごと潰させてやるからな!」
「出来るもんならやってみなさいよ! あたしはね、あんたと違って覚悟もなしに喧嘩を売るほど馬鹿じゃないの。平民のあたしですらそうなのに、あんたはなに? くだらない理由でネルケを教会に売ったくせに、その末路を見届ける度胸すらない腑抜けじゃない。そんな腰抜け貴族崩れなんかの脅しに屈するあたしじゃないわよ!」
「……っ、い、言わせておけば……!」
「黙れ、アレクセイ」
アレクセイが怒りに震え、一触即発の空気となったときだった。馬車の中から彼よりもだいぶ大人びた男性の声がした。かと思えば馬車の扉が開き、身分の良さは窺える作りでありながら華美さのない格好をした男性が降りてきた。
顔かたちは兄弟らしく似ているものの、全身から滲み出る雰囲気は似ても似つかない。彼は身形だけでなく魂も貴族なのだと、カンナは一目見て理解した。
「お初にお目にかかる。私はアレクセイの兄、アルブレヒトという」
意外にも礼を尽くした挨拶をされ、カンナは僅かに毒気を抜かれた表情になった。
アルブレヒトはカンナに馬から降りるよう命じることなく、当然のように見上げたまま話し始めた。
「今し方、君が言ったことは全て事実と捉えて構わないだろうか」
「……ええ、全部言った通りよ。吐いたものを飲むつもりはないわ。あなたの弟は格下と見下してたのに思い通りにならなかった、田舎貴族の女を教会に売ったの。現場を見てたわけじゃない。でも、あたしはあの子の言葉を信じる」
そういうとカンナは馬から降り、アルブレヒトの正面まで近付くと、真っ直ぐその目を見据えたまま言う。
「あたしはエヴァルトの宿屋、フォーゲルの娘、カンナ。あたしの言葉が偽りだったならいくらでもお咎めを受けるわ。これはあたしの独断じゃない。母さんも承知してること」
カンナの言葉に、アルブレヒトは僅かに瞠目した。向こう見ずな少女が、後先考えずに暴走したものとばかり思っていたら、その親までもが彼女の行いを認知していたのだ。
「君は、家族の命運をかけてでも友人を信じるのだな」
「当然よ。さっきも言ったけど、なんの覚悟もなしに貴族に喧嘩売るわけないじゃない。それに、無実の罪で処刑されるあの子に比べたら大したことじゃないわ」
そう語るカンナの目には、深い悔恨の情が映っている。友人の処刑が決まったからと、涙に暮れて悲劇を嘆くだけではない胆力の持ち主だ。そして怒りを抱きながらも、教会に殴り込むほどの無謀は働かない、しっかりした理性の持ち主だ。
貴族の馬車の前に馬で飛び出してくる度胸は大したものだが、それも全て覚悟の上での行動だと言う。
アルブレヒトは手を顎に添えて俯き、少し考えてから、カンナを正面から見据えた。
「処刑日を聞いてもいいだろうか」
「明日の夕方よ。審議もなにもない。アイツら、うちの街に教会建設するのを反対してた邪魔な貴族をおおっぴらに処分出来る絶好の機会だって、大喜びだもの」
「……なるほど」
カンナの言葉を受け、アルブレヒトはアレクセイを見た。ビクリと肩を跳ねさせた弟を見据え、静かに口を開く。
「お前はここに残れ」
「な……!? 何故ですか兄上! そんな下賤の女の言い分を信じたのですか!?」
「少なくとも、愚か者のお前よりは信用出来ると判断した」
今度こそ言葉を失ったアレクセイを半ば無理矢理馬車から降ろすと、改めて街に残って己のしたことを最後まで見つめるよう命じる。
「逃げればその時点で勘当と思え」
「そ、んな……」
「では、カンナ。すまないが私は失礼させてもらう。やらねばならぬことが増えた」
「……そう。気をつけて」
カンナが道をあけると、愕然としたアレクセイを残し、アルブレヒトは馬車に乗り込み街道を駆けていった。それを見送ると、カンナもアレクセイには見向きもせず馬に乗り、街へ駆け戻っていく。
夜道に一人取り残されたアレクセイは、暫し呆然としたのち、ふらふらとエヴァルトへ引き返していった。
外はすっかり陽が落ちて、遠い星明かりと外灯だけが点々と街を照らしている。
堅く閉ざされた牢の一室で、ネルケは小さな格子窓から見える空をひとり眺めていた。罪人を閉じ込めるための地下牢ではなく王城を形成する塔の一つを使用するのは、魔女が他の罪人を惑わして脱獄しないようにするためと言われている。牢は城の屋根が目の前に見える高さにあり、仮に格子がなかったとしても逃げることは不可能だ。
無音が耳に痛いくらいの静寂が、時の流れを重く遅くしているような心地だが、野盗や罪人に囲まれて下品な野次を聞きながら夜を過ごす羽目にならなかったことは、ある意味良かったと言える。
「この部屋、普段どんだけ放置してるんだろ……雨のあともあるし、壁の端っこも欠けたままだし……アイツはこの場所のこと知ってるのかな」
手持ち無沙汰に室内を観察してみると、使いすぎて荒れているというより長く手入れがされていなくて荒れているのが見て取れた。石造りの壁には風雨に晒されて出来た染みが残っており、鉄格子はよく見ると付け根が僅かに錆びている。壁と床のあいだには小さな亀裂と穴が開いていて、ネズミの家でも出来ていそうな空間がある。天井も汚れており、通路から漏れてくるランプの明かりが届く範囲でさえ目立つ傷がそのままにされている。
「これ、逃げるつもりなんかなくても勝手に格子が壊れそうじゃない……しかも、窓だけじゃなくて扉のほうも滅茶苦茶古くなってるし……どうなってるのよ」
まるで、わざと隙を見せて逃げるかどうか試されているようだと、廃墟めいた牢屋内を眺めて思った。そうだとして、逃げた先で母が危険だとわかっていて逃げるはずもないのだが。
外は夜が更け、無数の星が黒い空で瞬いている。牢に寝台などはなく、あるのは粗末な毛布が一つだけ。それもどれほどのあいだここに置きっ放しだったかわからないような、埃と湿気に塗れたひどいものである。
真冬だったら凍えていたかも知れないが、いまは暖かい時期。処刑を待たずに凍死することはなさそうだ。それが幸福であるかは別として。
「お母様、具合悪くしてないかな……」
胸に下げたペンダントを見下ろし、小さく呟く。
四歳の頃、母からもらった初めてのプレゼントで、当時「決して手放したりせず、常に肌身離さずつけているように」と言われたことを忠実に守ってきた大事な宝物だ。衣服やペンダントを奪われたらどうしようかと思ったが、意外にもそれはされなかった。
牢の隅で膝を抱え、顔を埋めてただ時が過ぎるのを待つ。
「……?」
そうしていると、誰かが石階段を登ってくる硬質な足音が鼓膜に触れた。兵士のものとどこか違う、ゆっくりとした足取りで、余裕を感じさせる落ち着いた音だ。
どうせ暇なお偉いさんが見物にでも来たのだろうと無視していると、牢の前でピタリと足音が止まった。
「ネルケさんですね。クラウス王子から伝言を預かっています」
クラウスの名に反応してゆるりと顔を上げると、見たことのない男の人がそこにいた。理知的で真面目そうな、そしてなにより鋭く研がれた刃のような目を持った男だ。
「なに……?」
膝を抱えたまま視線だけやってネルケが訊ねると、男は涼やかな低い声で告げる。
「諦めるな、と」
その言葉を聞くや、ネルケは膝に顔を埋めて啜り泣く声を漏らした。己の軽率な行いでどれほどの人に心配と迷惑をかけているのか、思い知らされた心地だった。
肩を震わせ、声を殺してなくネルケを感情の窺い知れない眼差しで見据えたまま、男は静かな声音を揺るがすことなく続ける。
「それから、詩があなたを救うだろうと、テオドールからの言伝もあります」
「う、た……?」
唐突な単語に驚き、ネルケは反復するように呟いた。生きたまま火刑にされる苦痛が、詩で和らぐとでも言うのだろうかと頭を捻る。
「ええ。私にその意味は量りかねますが」
「そう……」
溜息を零すように答えてから、ネルケは袖で乱暴に目元を拭うと顔を上げて男のほうを見た。
彼は相変わらず人形めいた無表情でそこに佇んでいる。その服装からして枢機院の一人だろうか。しかし、いくら権力ある身分とは言え魔女に入れ知恵をしたなどと知られたら彼の立場も危ういのではないかと、他人事ながら心配になる。
「……あなたは、こんなところにいてへいきなの?」
ネルケが膝を抱えたまま横目で訊ねると、男はごく僅かに目を瞠った。が、すぐの元の表情に戻り、淡々と告げる。
「私のことはご心配なく」
「そう……ならいいの。あなたは、たぶんジルベールって人よね。以前に、クラウスから聞いたことがあるわ。何回生まれ変わっても勝てる気がしないって」
「そうですか。王子が……」
ジルベールは、枢機院最高の智略家であり、王家の頭脳とも言われる男だ。常に幾手も先を読み、浅い謀略など及ばぬ未来をも思慮のうちに入れて動く人物で、以前クラウスは「敵に回したらその時点で人生が終わったと思うような相手だ」と、畏怖を込めて言っていた。
それが反教会派だったとは知らなかった。が、遠謀深慮の人物が反教会派であるということは、教会がろくでもない組織であると益々確信するばかりだ。いまこうして、自分が牢に入れられている事実よりも、彼の存在と立場には説得力がある。
「……あたしは、なにをすればいいの?」
「なにも。強いて言うなら、なにも知らずに火刑台に上る憐れな犠牲者を演じて頂ければそれで構いません」
当然ではあるが、言外になにもするなと言われたようなものだった。ネルケもわかっていて訊ねたので、特になにを思うでもなく納得する。
「そう。まあ、それなら問題ないわ。今更周りに迷惑をかけてまで逃亡する気はないし」
先ほどまでの精彩を欠いた表情から、僅かに気を取り戻した様子でネルケが言う。その目に光が宿ったのを確かめると、ジルベールは「では、また明日に」と言って塔を降りていった。
「明日って……枢機院のお偉いさんがお見送りでもしてくれるっていうのかしら……」
冷たい石の床に体を横たえ、目を閉じる。眠れる気はしないが、それでも。帰りを待つ人がいるなら足掻いてやろうと決意を胸に秘め、ネルケは静かに時を待った。




