【終曲】常夜の森の魔女
「リリィ、遊びに来たよ!」
全てを隔てなく照らす太陽のような女性が、今日も暗闇の森に一条の光を齎す。
濃い橙色のワンピースに、茶色い革製の太いコルセットベルトを巻き、小花柄の刺繍が入った白いエプロンを身につけて。足元は白いタイツと茶色いショートブーツを履いて、弾むような足取りで魔女の工房を訪れる。
世界はもう、魔女を恐れない。
扉をノックすれば、中から明るい声が返ってくる。
「お待ちしていました」
魔女はもう、世界を恐れない。
ずっと、ずっと、このときを待っていた。
外からの声に怯えたりせず、扉は大きく開かれ、訪う者を拒むことなく迎え入れる。
「今日はやっと許可が出たから子供と一緒に来ちゃった。ほら、ご挨拶して」
そう促され、ネルケの傍らにいた幼い少年が、ぺこりとお辞儀をした。年の頃は十歳か十一歳程度で、リーリエと大差なく見える。だが幼げなリーリエに対して、少年のほうはしっかりとした教育が施された、小さくも立派な王子の風格を帯びていた。
「フィン・クラウス・ヴォルフラートといいます。初めまして」
「初めまして。わたしはネルケの友達で、リーリエといいます」
「母様からお話は伺っています。どんなものでも直してしまう、凄い人だって。それと、母様と父様を結びつけてくださった方だとも。エヴァルトのみならず王家や王都を救った恩人でいらっしゃるのですよね」
「えっ」
覚えの無い評価が飛び出してきて、リーリエはネルケを見上げた。
初めて会ったときはお転婆な少女だった彼女も、もう一児の母だ。元来の明るい性格は変わらないが、どこか落ち着きを得た振る舞いをしている。そしてなにより、息子であるフィンを見る優しい眼差しが、彼女の母ガルデーニエによく似ていた。
そしてフィンは、鮮やかな金髪と若草色の瞳という、両親の特徴をどちらも受け継いだ容姿をしている。意志が強そうでいて優しさも思慮深さも宿した瞳は大きく真っ直ぐで、二人に心から愛されているのだろうと一目で伝わってくる。
「そっか……あのときはドタバタしちゃって言えてなかったんだっけ」
ネルケは懐かしむように目を細め、遠くを見ながらゆっくりと話し始めた。
「あのときさ、リリィに話したでしょ。アイツのこと特に理由もないのに避けてたって。そう言葉にしてみたら自分がどんなに馬鹿なことしてたか自覚して、態度を改めたらね、向こうはずっとあたしのこと好きだったって言うの。もう、くだらないことを気にしてた自分が凄く恥ずかしくて……」
「そうだったのですか……」
「で、リリィががんばってくれたから街も王都も救われたの。あのまま放って置いたら、街に教会は出来ちゃっただろうし。余計に腐れ枢機院連中に好き勝手されてたわ」
王族の一員になっても、ネルケの嫌いなものに対する口の荒さは変わっていない。寧ろ遠慮が無くなった分加速したようにも思える。
玄関先で話していると、奥からエルレフリートの声がした。
「お嬢様、お客様をお招きしてください」
「あっ……」
リーリエとネルケは顔を見合わせ、そして同時に笑い出した。
「ごめんなさい。どうぞ、入って」
「お邪魔しまーす。フィンもおいで」
「はい。お邪魔致します」
中に入ると、部屋の内装は記憶と殆ど変わっていなかった。街で買ったと思しき人形と絵本が増えている以外、大きな変化は見られない。暖炉には薪の代わりに炎石が転がっていて、橙の炎を揺らめかせては部屋を暖めている。
暖炉の傍にある長椅子には、ネルケが火刑されかけたときに出会った―――というより魔法で生まれた不思議な生物が腰掛けていて、膝にイーリスを乗せている。
来客に気付いたフラウクローシェがイーリスを抱えてネルケの傍まで来ると、ぺこりとお辞儀をしてイーリスの手を人形遊びのように操って小さく振った。
「ネルケ、こんにちは」
「こんにちは、イーリス。久しぶりだね」
「はい。おいわいのとき、まちであいました」
「うん、あのときはありがとね。手作りの絵本、凄くうれしかった」
エヴァルトで会った際に産まれてくる子供の性別を聞き、その数ヶ月後に無事産まれたことを手紙で知った。出産直後に会うことは出来ないからと、代わりに子供への贈り物として手製の絵本を贈ったのだ。森の魔女と一人の少女が出会い、仲良くなる物語。
「フィンはいまでもあの絵本がお気に入りなのよね」
「母上のご友人が、僕のために作ってくださったものですから、僕の宝物です」
「うれしいです……ありがとう、フィン」
ふわりと微笑むイーリスの手は、相変わらずフラウクローシェが好きに動かしている。
そんなふたりを―――というより、フラウクローシェを、フィンは不思議なものを見る目で見つめている。この鳥のような人のような存在が何者なのか気になるのに聞けないとわかりやすく顔に書いてあった。
「フィン、どうしたのですか……?」
「そっか。フィンは魔法生物を見るのは初めてなんだっけ」
フィンの不思議に満ちた視線は、フラウクローシェに注がれている。工房に入った際にエルレフリートを見たときは普通にお辞儀をしただけだったことに気付いたリーリエが、首を傾げる。
「フィンは、エルのことは気にならないのでしょうか……?」
「従者さんは、なんていうか、わりと街に居ても違和感ないっていうか……左手見るまであたしも全然気付かなかったし」
「あの方も、魔法生物だったのですか?」
フィンの問いに、リーリエが頷く。改めてフィンがエルレフリートを見つめるが、彼はにっこり微笑むだけでなにも言わなかった。
「……全然、気付きませんでした」
「そうかも知れませんね。エルはクローシェに比べると、とても人間らしいですから」
腕が翼で目元を布で隠し、肌には古代文字が刻まれていて、全身に鎖が絡みついているフラウクローシェに比べて、エルレフリートは良家の執事そのものな姿をしている。仮に王都の屋敷で出会っても、全く違和感がなかっただろう立ち姿だ。
「どうぞ。いまエルがお茶を淹れてくれているわ」
「ありがと。従者さんが淹れる紅茶も久しぶりだなぁ……楽しみ」
ネルケとフィンに席を勧め、リーリエもいつもの椅子に腰掛ける。フラウクローシェとイーリスは長椅子に戻り、別の絵本を読み始めた。
ふと、リーリエはネルケの足元に目を止めた。薄い茶色のブーツに小さなリボンと赤い鉱石がついたそれに見覚えがあった。
「ネルケ、その靴……」
「あ、気付いた? リリィにもらった靴、履いてきちゃった。お城だとどうしてもドレス姿でいることが多いから、なかなか履けなくてさ。街に出かけるときとリリィに会うとき用の特別な靴なんだ」
屈託なく笑って言うネルケの言葉は、どこまでも真っ直ぐで温かい。
「ありがとう、ネルケ。気に入ってもらえてうれしいです」
「えへへ、だってうれしくって。リリィの中ではエヴァルトのあたしなんだなって、この靴を初めて見たときに思ったんだ」
そう言うと、ネルケは隣のフィンを見た。愛おしげな眼差しと、優しく髪を撫でる手は確かに母のもので、リーリエは羨ましく思った。
「フィンのこともアイツのことも大好きだし、お城暮らしが嫌なわけじゃないんだけど、でも、あたしの故郷はエヴァルトなんだよね。きっとお母様もこんな気持ちだったんじゃないかな。いまなら、お母様が子守歌をあたしに聴かせた理由もわかるんだ」
「子守歌……」
リーリエとフィンが、同時に同じ言葉を呟いた。
ネルケの持ち込んだオルゴールが、全ての始まりだった。壊れたオルゴールを直して、ネルケと縁が出来て、それから色々あったと一言で言うにはあまりにも多すぎる出来事が一気に襲ってきたのを、いまでも昨日のことのように思い出せる。
「……それって、母上が僕に聞かせてくださっていたものですか?」
「うん、そう。あたしもお母様から聞いてた歌でね、オルゴールはいまでも宝物なんだ」
「そんな大切な子守歌を、母上は僕にも受け継いでくださっていたのですね」
誇らしげに言うフィンの顔はとても優しい。眩しそうにネルケを見つめていたフィンの目が、ふいにリーリエのほうを向いた。
「リーリエ様が直してくださったオルゴールの音色は、僕も好きです。母上のお母上や、リーリエ様と母上の絆を感じることが出来て……改めて、ありがとうございます」
「え、い、いえ……わたしは、わたしに出来ることをしただけですもの」
褒められると恐縮して、小さい体がより小さくなるところは変わらない。ネルケは白い頬を赤く染めて俯くリーリエを微笑ましく思いながら見つめた。
「リリィは変わらないね」
「そうですか……?」
きょとんとした顔でネルケを見つめるリーリエは、出会ってから十年ほど経ったいまも全く変わらない。ただ、初めて会ったときと比べて表情豊かになった分、外見の年相応に見えるようになったのは、ネルケにとって喜ばしいことだった。
「うん。ずっと変わらない。可愛くて綺麗なまま。でも、魔法は上達したんだっけ?」
「えぇと……少し、だけ……」
気恥ずかしそうに言うリーリエに、ネルケは「修復も?」と訊ねてみた。リーリエは、小さく首を横に振ってから困ったような顔でエルレフリートを見上げる。
これは、ネルケも把握している、リーリエが困ったときと悩んだときにする癖だ。
「それは……エルの手助けがないと、まだ……」
「そっか。でも、がんばってるんだよね。えらいなぁ」
変わったもの、変わった人の中にも変わらないものがある。
それが何だかうれしくて、ネルケは小さな恩人の変わらない横顔を見つめた。
常夜の森には魔女がいる。
壊れた懐中時計も、螺子が飛んだオルゴールも、割れて粉々になった食器も、立ち所に直してしまう、不思議な魔女が。そんな噂に加えて、純白の魔女は、壊れて歪んだ王都の有り様までをも直してしまったと、新たな噂が加わった。
常夜の森に立ち入ってはならない。
そこは魔女の庭で、彼女の魔力を受けて育った薬草や鉱石が山とひしめいているから。壊れたものを直してもらうとき、彼女が困らないよう森を維持しなければならないから。
誰も恐れなくなった森は、いまでは一本の道が出来ていた。荊の泉を超えて、細い道を真っ直ぐに進むと魔女の工房がある。その道を作ったのは、一人の少女だった。
魔女はもう日の当たる世界を、街の雑踏を恐れない。街の人々はもう魔女を恐れない。持って生まれたままの自分で生きることを恐れない。
壊れたものを、壊れかけたものを直してあるべき姿へ整える魔女は、今日も常夜の森で静かに暮らしている。時折訪れる、一条の光を楽しみに。