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常夜の森の魔女~ネルケと救済の子守歌  作者: 宵宮祀花
【三幕】救済の子守歌

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【四場】夜明けの世界

 暖炉前の長椅子に腰掛けて、リーリエは落ち着きなく辺りを見回していた。暖炉の中で赤い炎が揺らめきながら、パチパチと鉱石の爆ぜる音を奏でている。時計の針が一つ進むその間隔が、なぜかいつもより長く感じる。

 アトリエから僅かに漏れ聞こえる声は細く遠く、内容がわからないだけもどかしい。


「ねえ、エル……イーリスは大丈夫よね……?」

「錬金術に関しては、テオドール様にお任せするしかありません。我々に出来ることは、信じて祈り、彼らの気を逸らさぬよう静かに待つだけです」

「そう……そうよね……わたしには、なにも出来ないのだもの……」


 リーリエの傍らでは、フラウクローシェが翼の毛繕いをしている。彼はエヴァルトから連れ帰って以降、イーリスと共にいることが多い。言葉を持たないのか声を持たないのか不明ではあるが、彼はイーリスと同様声に出して会話をすることがない。しかし、互いのあいだでは意思疎通が出来ているらしく、時折絵本を指しては楽しそうにしている様子が見られた。

 聖女として魔女を処する役割だけを与えられたイーリスと、火刑台として魔女を拘束し共に焼けるためだけに作られたフラウクローシェは、とてもよく似ていた。


「イーリス……」


 アトリエに続く扉を心配そうに見つめ、小さく呟く。

 イーリスはいま、テオドールとルカによって調整が施されている。彼女は教会で聖女として扱われていたとき、より彼らの都合にそって使えるようその肉体を改造されていた。無から有を生み出すことは難しくとも、既にある素材を生かして別のものに変えることはそれなりの腕の者にも出来る。

 生きたホムンクルスを作り出すことが難しいなら、生き物をそれに近いものへと変えてしまえば良い。

 そうして体を作り替えられた彼女は、教会の命令で魔女を火刑に処す呪文のみを唱える装置として、彼らに使われてきた。聖女としての役割が「清らかでなければならない」と条件付けられていたことだけが幸いだが、本当にそれだけが唯一の幸いといえるほどに、彼女の状態はひどいものだった。

 教育もなにも施されていないため、同い年のリーリエに比べてイーリスの精神はだいぶ幼い。恐らくはリーリエと離ればなれになったときから、僅かも成長していないだろう。


 ――――こんな粗悪な作りで、よく今日まで壊れずにいたものだね。


 テオドールがイーリスを一目見た際に零した言葉が、全てを物語っている。

 だからこそ、錬金術師の中でも最高峰の技術と知識を持つ彼に託したのだ。リーリエの持つ力と技術では、彼女を『直す』ことが出来ないから。

 だから代わりに、テオドールが彼女を直す。魔術と技術、双方を操る人形師が、肉体の大半を失った少女を正しく人形に生まれ変わらせる。


「まさか、殆ど使い物にならないとはねえ……」

「森で調整をさせて頂くことにして正解でしたね。工房にある素材では足りなかったかもしれません」

「足りたとして、使い切っていたよ。これは認定錬金術師の腕じゃあないね」


 高さのある簡素な寝台に寝かせた少女を前に、テオドールは呆れて嘆息する。寝台には少女の体の他に、大量の鉱石や薬草、様々な錬金機構が並んでおり、それらを適切に配置して調整していく。

 少女の体内には人間が本来持っているはずの部位が僅かも残されておらず、首から下は自立人形と同じ作りになっていた。全身を巡る管も劣化し、あと数日調整が遅れていたら機能停止していたであろう有様だった。


「せっかくだ、君に並ぶ出来にしてあげようね」

「……確か、イーリスという名でしたか。孤児だった少女が唯一の家族であるリーリエと引き離され、教会に囚われ、聖女として使われた挙げ句に、人としての生も奪われて……それでも彼女は」

「笑っていたね」


 ルカが眉を寄せる。

 幼い身に溢れんばかりの不幸を詰め込まれて、それでも初めてテオドールとルカと顔を合わせたとき、好奇心を水色の瞳に映して微笑んだのだ。


「教会で施術をされたとき、怖かっただろうにねえ……同じことをするって説明しても、怯えたりせず受け入れて……無知であることも、ときには助けになるんだね」

「知らなくて良いことは知らないままで良いのです。そのために我々がいるのですから」

「ふふ。そうだね」


 粗悪な素材、粗雑な作り、それでも再会を信じて生き続けた少女に祝福を。

 細い手足は白く滑らかな材質に、動力や機構部は魔女でもメンテナンス可能な作りに、奪われた声は体格や骨格から推測して再現し、そしてなにより持って生まれた魔力を己の意志で引き出し、自在に扱えるように。記憶媒体は市販の響石からテオドールが加工した一級品に取り替えて、瞳もリーリエから聞いた、元の彼女が持っていた輝きを再現。

 磨き上げた水色の鉱石を乳白色の鉱石と組み合わせて、記憶媒体と接続する。音声認識機能と記憶媒体との接続も忘れずに行い、視覚と聴覚双方から得られる情報をスムーズに識別出来るよう丁寧に調整を行う。

 手足の動作も誤差がないよう適切に配置し、指先まで滑らかに動く素材を用いて繋ぐ。知覚と認知は元の彼女のものをそのまま残して、旧素材に保存されていた僅かな情報を、慎重に書き写していく。


「こんな容量でよくリーリエのことを忘れなかったものだと感心したけど、これはたぶん教会が余計な教育をしなかったのが却って良かったのかな」

「聖女とは名ばかりの、火打ち石同然の扱いだったようですからね」


 雑談に興じながらも、手先は淡々と作業をこなしていく。

 イーリスを構成していた粗悪な部品は全て取り除かれ、こぶし大の鉱石を心臓石とし、体内を錬金機構と鉱石と魔法陣を描いた基板で埋めていく。やわらかな少女の体を可能な限り再現出来るよう、持てる技術を全てつぎ込んだ。

 そうして内部機構を調整し終えると、開かれていた箇所を全て閉じ、傷口を塗り潰す。皮膚が残っていたのは幸いだった。お陰でそれを元に肌を再現することが出来た。


「さあ、出来た。この体なら僕の調律は殆どいらない。リーリエがしてもいいし、魔術を学べばこの子自身で済ませることも可能だからね」

「お疲れさまです、ご主人」

「ありがとう。さて、そろそろ起こしてあげようね」


 ルカの労いの言葉を受けて微笑むと、テオドールは簡潔に目覚めの詞を奏でた。


「Ell glandde. Fear. Iris」

(目覚めよ、イーリス)


 その言葉と共にイーリスの体を白い光が包み、部屋中に光が膨張したかと思うと一気に収束し、ややあってからイーリスの閉ざされていた瞼がゆっくりと押し上げられた。

 淡い水色の瞳が不思議そうに周囲を見回し、テオドールの姿をとらえるとふわりとした笑みの形となった。


「おはよう、イーリス。気分はどうかな?」

「お、はよ、う、せんせ」


 辿々しく目覚めの挨拶を紡いだかと思うと驚いた顔になり、イーリスは自分の喉に手を添えた。ずっと失われていたものが戻ってきたのだと遅れて実感し、大きな双眸から涙が転がるように落ちた。


「うん、良かった。声も問題なく出るようだね」

「わ、たし、こえ……どうし、て……」

「どうしてって、声も記憶も君のものだからね。失ってしまった肉体は無理でも錬金術で取り戻せるものはなるべく戻しておいたよ」


 イーリスは次々こぼれ落ちる涙を堪えることが出来ず、寝台に蹲って泣き出した。

 教会にいた頃は泣く機能がなかったため、どれほどつらくとも泣くことはおろか、声をあげることも痛みを訴えることも出来なかった。それが、戻ってきた。

 人間らしさを削ぎ落とされて、恐怖に怯える女性たちに火を放つためだけに使われて、胸を痛めていてもそれを表現することが出来ないせいで、冷血な道具だと思われてきた。

 教会に奪われて失われていた魂が、いまやっと戻ってきた心地だった。そして、教会が潰れても未だ暗い檻に囚われたままだった心が、漸く解放された。


「これからは火を放つ法術以外も紡ぐことが出来るよ。勉強すればリーリエのお手伝いも出来るし、錬金術が学びたいなら僕のところへ来ればいい。もう君はやりたくないことを無理矢理やらされる人形じゃないんだからね」

「あ……あぁ、う、ぁ……あぁあああっ!」


 テオドールに縋り付き、イーリスは声を上げて子供のように泣いた。細い肩を震わせ、流れ落ちる涙を拭うこともせず、心の向くままに泣き続けた。

 そうして落ち着いた頃、扉を控えめに叩く音がした。


「先生、大丈夫ですか……? なにか、大きな声がしましたけれど……」


 心配になったリーリエが様子を見に来たらしい。作業中は入らないよう言っていたため扉越しに声がかかる。イーリスは涙を拭うとテオドールを見上げた。


「わたし……もう、へいき……?」

「うん、大丈夫だよ。会っておいで」


 テオドールが頷きながら寝台から抱え降ろすと、イーリスは体の挙動を確かめるようにその場で手を握って眺めてから、恐る恐る足を踏み出した。

 慎重に歩いて、歩いて、然程広くない部屋を端まで行くと、ゆっくり扉に手をかける。ただ握るだけではない。握って、適度に力を込め、適切な角度で捻る。扉をただ開ける、その何気ない行動も、複数の動きが正しく組み合わさって初めて出来るのだ。

 扉を引き開けると、目の前にリーリエがいた。


「リィエ……」

「イーリス、あなた、声が……!」


 目尻に涙を浮かべ、泣き笑いの表情でイーリスが頷く。リーリエは思わず飛びつくと、そのままきつく抱きしめた。記憶と違わぬ細くやわらかい体に、覚えのある甘い声、頬を伝う涙は熱く、命の温度さえ感じる。

 体を離すと、イーリスの目尻がほの赤く染まっていた。人形とは思えない自然な姿に、改めてテオドールの技術力を思い知る。


「よかった……やっと、あなたが帰ってきたわ……」

「リィエ、わたし……いいたいこと、あったの」


 未だ辿々しい言葉遣いながら、懸命に伝えようとするイーリスを真っ直ぐに見つめて、リーリエは彼女の思いが紡がれるのを待った。


「ずっと、あいた、かった。リィエだけ、のこして……わたし、きょうかいで、いきて、いた、から……しょけい、するとき、いつも、リィエじゃなく、て、あんしん、して……でも、わたし……ずっと、ずっと……こわか、った……しらないひと、だって、わたし、しょけ、い、なんて……っ、したく、なかっ……のに……」


 後半は殆ど涙声になりながら、離れていたあいだに抱えていた想いを吐露していく。

 イーリスの想いを受け、リーリエは涙に濡れた彼女の頬を手のひらで包んだ。そして、小さく息を吸うとリーリエも離れているあいだ胸に蟠っていた想いを零す。


「わたしも……あなたを置いて逃げてしまったあの日から、森の奥で静かに暮らしているあいだも、あなたのことを想わない日は、一日だってなかったわ……聖女として生きるということがどういうことか、知っていたのに……」

「リィエ、わたし、ひどいこと、たくさんした……たくさん、ころして、ずっと……」


 イーリスの脳裏には、無実を訴えて泣き叫ぶ女性たちの悲鳴が張り付いている。火刑に処された人の中には身ごもっていた女性も、子供がいる女性も、婚約を控えている女性もいた。幸せの最中にいた人も、不運なことがあったばかりの人もいた。親と喧嘩して家を飛び出してきて、そのまま謝れずに焼かれた人もいた。

 彼女たちには間違いなく彼女たちの人生があり、未来もあるはずだったのに、それらを全て奪ってきた。その記憶が、事実が、イーリスの胸をいまも苛んでいる。

 つらい記憶を消さなかったのは、イーリスが望んだからだ。テオドールの腕なら記憶を選別して残すことも出来たが、罪は罪だからとイーリスが背負うことを選択した。


「わたし……どうすれば、いいの、かな……」

「イーリス……それはあなたが気にすることではないわ。……といっても難しいわよね。死んでしまった人たちは還らないけれど、それならせめて、生きている人のために出来ることをするといいわ」

「できる、こと……」


 何度も頷き、涙を拭う。イーリスは背後のアトリエを振り返ると、丁度片付けを終えて部屋を出てきたテオドールを見上げた。


「せんせ、ありがとう……わたし、おべんきょ、して、たくさん、つぐないます」

「いい心がけだね。僕に教えられることなら何でも教えてあげるから、落ち着いたら街においで」

「はい……」


 リーリエとイーリスの頭を優しく撫でると、テオドールはルカを伴って玄関へ向かう。外套を纏うと扉の前で一度振り返り、帽子を軽く掲げて微笑んだ。


「それじゃあ、また。体の仕様については指南書を残してあるからそれを見てね。暫くはゆっくり体を慣らすように」

「はい、せんせ」

「テオドールさん、ありがとうございました」

「どういたしまして」


 テオドールの言葉と共にルカが頭を下げ、扉を開ける。ふたりが外に出ると、ゆっくり扉が閉じ、足音が遠ざかっていった。


「イーリスの体のこと、わたしも知っておかないといけないわね」

「しなん、しょ? って、いってた……」

「作業台にあるかしら。見てくるわ」


 開け放ったままだったアトリエへ続く扉を越えて、テオドールたちがイーリスの調整をしていた寝台に向かう。長テーブルに布を敷いたような形のそこに、羊皮紙が一枚置いてあるのが見えた。

 手に取ってみるとイーリスの内部機構についてと、メンテナンスの方法などが事細かに記されていた。


「これだわ。……わかってはいたけれど、人と同じものは食べられないのね。でも鉱石の加工によって、味覚を感じることが出来るみたい。そうはいっても、錬金術の加工方法はわたしもよくわからないのよね……あとで聞きに行こうかしら」


 項目は箇条書きでわかりやすく、普段の手入れ方法から生活上の注意事項などが綺麗な文字で書かれている。リーリエは、どうにか踏み台を引きずって天井を行き交うロープの下まで来ると、仕様書を見やすい位置に吊した。

 人間と同じ食事は不可能だが、代わりに鉱石を食べて動力とすること。森から採集してそのまま食べるも良し、加工してから食べるも良し。入浴は人間と同じ方法で行う。耐熱温度は二千度からマイナス六百度まで。それ以上は内部機構に障害が出る恐れあり。


「夏や冬程度ならなんともなさそう……どうしてここまで強い体にしたのかしら」


 他にも耐衝撃や斬撃耐性など、戦場に放り出されても生きて帰れそうな強度を付加したことが記されていて、リーリエは首を傾げた。


「あら……?」


 目線が高くなったことで、ふと寝台に仕様書以外にもなにか残っていることに気付き、台を降りて手に取ってみた。錬金術でも魔法でも使う鉱石が詰まった、リーリエの手にも収まる小さな瓶だ。


「この小瓶は……先生が忘れていったのかしら?」


 小さな鉱石が詰まった小瓶が三つ。よく見ればそれぞれにラベルが貼られている。

 一つは花蜜。一つは氷飴。最後の一つは花茶。先ほど仕様書で見た、加工次第で違った味覚を楽しめるという鉱石だろうかと、改めて仕様書に目を通すと、吊したおかげで光が当たり、裏が透けて見えた。


「裏にも書いてあったのね。見落としていたわ」


 踏み台に上り直して仕様書の裏を見ると、そこには表書きの畏まった文字と比べて少し砕けた字体でこう書いてあった。


 ―――お試しでどうぞ。気に入ったものがあったら、買いにおいで。歓迎するよ。


 彼の優しい声音が聞こえるような文字だった。

 リーリエは踏み台を降りると小瓶を三つ持って、イーリスの元へと戻った。


「イーリス。あなたのために先生がこれを残してくださったわ」

「これ、は……?」

「あなたの体でも、食事に似たことが出来るみたいなの」

「ほん、とう……? これを……?」


 目を丸くするイーリスに頷くと、リーリエは試しに花蜜と書かれた小瓶を開けた。中の鉱石を一つ取り出し、イーリスの唇まで持って行く。


「食べてみて。先生が仰ることだもの、きっと大丈夫よ」


 こくりと頷き、イーリスの唇が薄く開く。薄桃色の鉱石を口に含むと、不安そうだった表情が、一瞬で驚きと喜びに染まった。


「リィエ、これ……あじが、するの……とても、あまく、て、やさしい……」

「ほんとう? よかった……これならあなたとお茶をすることも出来るわね」

「うれしい……ずっと、わたし、たべること、できな、かった……たべて、も、なにも、なくて、かなしかったの」

「イーリス……あなたの体が馴染んだら、一緒に街へ行きましょう。先生に、もっと他の味も作れないか訊ねてみましょう」


 しあわせそうに頷くイーリスの頬を包み、リーリエもうれしそうに目を細めた。


「お嬢様、お茶が入りました」

「ありがとう、エル。イーリスも、お茶にしましょう」

「わたしも、いっしょに、できる、の……うれしい……」


 頬を紅潮させて、囁くような声で言うイーリスの手を取り、リーリエは並んで長椅子に腰を下ろした。手持ち無沙汰に揺り椅子で前後に揺れて遊んでいたフラウクローシェが、イーリスに気付いて翼の手をぱたぱたと振る。


「クー、ただいま」


 こくりと頷いたフラウクローシェを見、イーリスがうれしそうに微笑む。イーリスには声が戻ったがフラウクローシェは相変わらずで、イーリスにしか彼の思いは通じない。

 フラウクローシェを作ったのは間違いなくリーリエだというのに、なぜ彼と話すことが出来ないのか疑問だったが、イーリスも声を持たないためずっと聞けずにいた。いまならわかるだろうかと、カップを手にイーリスを見る。


「ねえイーリス。クローシェの言っていること、イーリスにはわかるのよね?」


 イーリスは少し考えるふうに遠くを見てから、曖昧に頷いた。

 どういうことなのだろうかと思っていると、言葉が聞こえるわけではないという。首を傾げるリーリエに、イーリスは言葉を探しながら続けて話した。


「クーのこと、なんとなく、だけ。ことばは、わたしも、クーも、あまり……」

「そう……不思議ね。作ったのはわたしなのに、わたしはなにもわからないの」


 見れば話題の中心であるフラウクローシェは、揺り椅子の小さな揺れと部屋の暖かさで溶けるように眠ってしまっていた。絵本に興味を示したり、かと思えば甲斐甲斐しく妹の世話をする兄のようにイーリスの世話をしたりと、フラウクローシェには謎が多い。

 フラウクローシェとイーリスを見ていると、幼い兄妹のように思えてくる。


「エルのこともクローシェのことも、どうして修復が行き過ぎると魔法生物になるのかもわからないのよね……わたしの魔法がただ未熟なだけなら良いのだけれど」


 チョコレートを練り込んだタイル状の焼き菓子を口に運び、ぽつりと呟く。リーリエの傍らで給仕をしていたエルレフリートは、花茶のお代わりを注ぐとまた静かに控えた。


「ありがとう、エル」


 リーリエはエルレフリートに礼を言うと、温かい花茶で胸を温めた。体内を巡る魔力が穏やかに凪いでいくのを感じる。

 花茶の水面越しに、エルレフリートを見つめて思う。


 このエルレフリートもまた、謎が多い。

 リーリエは孤児だった。暗い路地裏が故郷で、焼けるような夏も凍える冬もイーリスと身を寄せ合ってどうにか生きていた。

 手の中にあったのは、小さなアンティークの鋏だけ。なぜ鋏を握っていたのか、どこで手に入れたものなのかはわからない。誰かが棄てたものを拾ったのか、或いは覚えてないだけでなにかきっかけがあったのか。とにかくリーリエには、イーリスと小さな鋏だけが拠り所だった。

 お守りのように大事にしていたそれが壊れたとき、心の一部が崩れ落ちたような、深い悲しみが襲った。半ば本能で詩を紡いで、そうして現れたのが彼だった。

 瀟洒で清廉な刃。産まれた瞬間から彼は従者として完璧だった。主人であるリーリエに全く貴族の暮らしに関する知識がなかったのに、エルレフリートは完璧に仕えて、そして食器の存在すら知らない野良猫同然だったリーリエを淑女に育て上げたのだ。

 彼はリーリエが礼を言うと、必ずこう答えた。


 ―――私は、お嬢様のために存在するものです。お嬢様のためならどのようなことでも致します。


 彼と―――いや、彼の本体である鋏との出会いを思い出せれば、彼の振る舞いの理由もわかりそうなのに、リーリエの記憶は、路地裏でイーリスと小さくなっているところから始まる。人間ならば必ずある、生まれたところや親の存在などの記憶は全くない。それが嫌な出来事だから忘れてしまったのか、他に理由があるのか、それすらわからないのだ。

 以前、エルレフリートに孤児になる前のことを聞いたとき、彼は「お嬢様にわからないことは私にもわかりかねます」と、困ったように答えられた。確かにその通りなのだが、現にエルレフリートはリーリエの知り得ない知識をある程度持っている。

 彼はなにを知っていて、なにを知らず、なにを隠しているのか。


「お嬢様」

「……! ぇ……エル、どうかしたの?」


 不意に声をかけられ、リーリエはビクッと肩を跳ねさせた。驚いたリーリエの反応に、エルレフリートもまた驚いたらしく、不思議そうに見つめている。


「いえ、ぼんやりしておいででしたので」

「ごめんなさい。ちょっと、昔のことを思い出していたの」


 そう言って、花茶を一口。いつの間にか、随分とぬるくなっていた。


「あなたは、わたしが作ったときにはもう、わたし以上に知識を持っていたわね」

「そうでしょうか」

「ええ。あなたが教えてくれなければ、知らなかったことがたくさんあるもの」

「……恐縮です」


 いつもと変わらない、恭しい態度で傅く刃の従者。

 彼の表情が思案深げであったことに気付いたものは、この場にはいない。


「私は、いまも昔も、そしてこれからも、お嬢様だけにお仕えするものです」


 幾度となく聞いた台詞が何だかいつもと違って聞こえてエルレフリートを見上げるが、リーリエには彼の機微を察することは出来なかった。


「エル……」


 訊ねようとしたリーリエの目の前に、一通の手紙が差し出される。

 いつの間にか起きていたフラウクローシェが、家を訪ねてきた鳥から手紙を受け取っていたらしい。上質な素材に、王家の紋章が入った赤い蝋封。差出人の名は、ネルケだ。


「ネルケからだわ……なにかあったのかしら」


 開いて見ると、中には一枚の便せんと写し絵が同封されていた。

 写し絵にはネルケとクラウスが仲睦まじく並んで映っている。そして手紙には、子供を授かったので、無事産まれたらまた知らせたいとのことだった。まだ比較的動けるいまのうちに会いたいが森に行こうとすると怒られるので、リーリエさえ良ければエヴァルトで会いたいと書かれていた。


「子供が……ネルケもお母さんになるのね」

「おかあ、さん……?」

「ええ、そうよ。とても喜ばしいことなの。お祝いをしないといけないわ」

「おいわ、い……」


 イーリスは小さな指先を玩びながら暫く考えて、顔を上げるとリーリエの手を握った。


「リィエ、わたしも、おいわい……それと、おれ、い……? ネルケ、リィエとわたし、たすけ、て、くれた……」

「ええ、ええ。そうね。それがいいわ。お祝いと、お礼をしましょう。きっと、ネルケも喜んでくれるわ」


 花茶を飲み干し、イーリスの手を取って立ち上がる。弾む心のままに抱きしめて、頬に口づけをした。擽ったそうなイーリスの笑みを間近で見つめ、額を合わせて笑い合う。


「そうと決まったなら手紙を出さないと。きっとこれから、たくさん素敵なことが待っているわ」


 イーリスの手を握ったまま、リーリエはエルレフリートを見上げた。


「ねえ、エル。お願いがあるの」

「はい、何なりと」

「わたしにお手紙の書き方を教えて頂戴。いままで縁が無かったことだから、どう書けばいいかわからないの」

「畏まりました。片付けを終えましたら、すぐに」


 初めて外と繋がるリーリエは、当然手紙も書いたことがない。ならば、そのリーリエが作った魔法生物であるエルレフリートも知らないはずなのだが、彼は胸に手を当てて頭を下げ、了承の意を示した。


「ありがとう。わたしたちは部屋で待っているわ。行きましょう、イーリス」


 頷いたイーリスの手を引き、リーリエは奥の私室へと入っていった。

 小さな後ろ姿が扉の奥へ消えたのを見送ると、エルレフリートは茶器を片付け始める。隣室から楽しげになにを書こうかと話す声が漏れ聞こえてきて、僅かに口元を緩めた。


「すぐに参ります。……お嬢様のしあわせが、私のしあわせですから」


 銀刃の従者は刃を収めると、人の姿となって主の部屋を訪った。

 在りし日を想い、主に仕える喜びを胸に。


「さあ、手紙を書きましょう。遠い友人に、祝福の言葉を」


 綺麗に微笑む従者の瞳には、無垢な主のうれしそうな笑みだけが映っていた。

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