第5話 結局、同じなんだ
家の中は、重苦しい空気に包まれていた。
外は陽が高く、窓から差し込む光は穏やかなはずなのに、この部屋だけなぜか時間が止まったみたいに静かだった。
古い木造の家らしく、床板はきしみ、壁には長年の生活の跡が残っている。
ただ、どこか落ち着かない。
家具の配置が少しだけちぐはぐで、
必要最低限のものだけが申し訳程度に置かれているように見えた。
(……なんだろう)
誰かが慌てて場所を作ったような、そんな気がしないでもない。
そう思ったけれど、それ以上考えるのはやめた。
今は、目の前の少年から目を離すわけにはいかなかった。
寝台に横たわる少年。
年は十歳前後だろう。
浅く、苦しそうな呼吸。
額には冷たい汗。
蒼白な顔に、痩せ細った腕。
そして――
「……!」
私は思わず息をのんだ。
少年の胸元、薄いシャツの下に浮かぶ、黒い斑点。
まるで皮膚の内側から染み出してくるような、不気味な色。
「これが……黒死の病……?」
声が、震えた。
ついさっき路地裏で治した男とは、明らかに違う。
あの人は衰弱していただけだった。
咳はひどかったけどまだ歩けていたし、意識もはっきりしていた。
でも、この少年は――
身体そのものが、病に侵食されている。
(……進行度が、違う)
医学部で叩き込まれた“重症度評価”の感覚が、嫌というほど蘇る。
視線を上げると、父親が壁際に立っていた。
さっきまで路地裏で見た姿とは違い、今は上着を脱ぎ、乱れた髪を気にも留めていない。
それでも、分かる。
仕立てのいいシャツ。
靴は履き潰していない。
言葉遣いも、どこか抑制が効いている。
(……この人、たぶん……)
平民じゃない。
でも今は、そんなことを考えている場合じゃなかった。
「大丈夫……」
私は自分に言い聞かせるように、呟いた。
「きっと、治せる……」
そうであってほしかった。
私は少年の額に手を当て、深く息を吸う。
手のひら越しに伝わる体温は、まだ確かに“生”を感じさせた。
「回復魔法……!」
再び、あの眩い光が溢れ出す。
部屋の中が白く染まり、影が壁に揺れる。
(お願い……効いて……!)
だが――
「……っ?」
黒い斑点が、一瞬だけ薄くなった。
ほんの一瞬。
そして次の瞬間、何事もなかったかのように元の濃さに戻る。
「……え?」
胸が、ひやりと冷えた。
「もう一回……!」
焦りに突き動かされ、私は再び魔法を放つ。
一度、二度、三度。
光は確かに出ている。
魔力も、さっきと同じくらい流れている。
それなのに――
「……効いてない……?」
症状は、微動だにしなかった。
冷たい汗が背中を伝う。
心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。
「な、なんで……!?
さっきは治ったのに……!」
言葉が、空回りする。
(同じ“病気”じゃない……?
それとも、進行しすぎてる……?)
頭の中で医学的な仮説がいくつも浮かんでは消える。
でも、答えは出ない。
「……お願いだ……」
父親の声が、震えた。
「息子を……助けてくれ……」
かすれた声が、耳に刺さった。
私は、その声の主をまともに見ることができなかった。
顔を上げれば、そこには「期待」がある。
そして、それに応えられない自分がいる。
ここにも、あった。
——救えない命。
異世界に来た。
魔法を使えた。
人を治した。
それでも。
「……結局、同じなんだ」
胸の奥に、重たいものが沈んでいく。
日本にいた頃もそうだった。
知識はあった。
理論も理解していた。
それなのに、現場では立ち尽くすことしかできなかった。
「……治せる病と、治せない病がある」
その当たり前すぎる事実が、今になって骨身に染みる。
私の治癒魔法は、たしかに効果があった。
少なくともさっきの男の人の症状は、目に見えて改善した。
けれどそれが「強力な魔法」だと断言できるほど、私はこの力を理解していない。
どうやって発動したのか、何を消費したのか、どこまで治せるのか——何ひとつ分からない。
もしかしたら、たまたま相性が良かっただけかもしれない。
もしかしたら、症状が軽かったから偶然回復しただけかもしれない。
つまり私は、
“使えた”だけで、“使いこなしている”わけじゃない。
だからこそ目の前の少年を前にして、私は立ち尽くすしかなかった。
この病はさっき治したものとは明らかに違う。
同じ「治療」という言葉で括れるほど、単純なものじゃない。
——私は、まだ何も分かっていない。
この力の正体も、限界も、
そして「救える命」と「救えない命」の境界線さえも。
「……万能じゃ、ないんだ」
私は、そっと少年の手を取った。
小さくて、細くて、頼りない手。
それでも、確かに温かい。
まだ、生きている。
心臓は動いている。
呼吸も、微かに続いている。
だからこそ——
「……どうすれば……」
時間だけが、確実に前に進んでいく。
魔法では止められない。
祈っても叫んでも、どうにもならない。
「……ありがとう。もう……いい」
私は、振り返ることができなかった。
その言葉に込められたものを、直視する勇気がなかったからだ。
それは感謝であり、諦めであり、
そして――私に向けられた、静かな終止符だった。
逃げるわけじゃない。
諦めるわけでもない。
ただ今は、
私にはどうすることもできない現実を、受け止めるしかなかった。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
足が、わずかに震えているのが自分でも分かる。
膝の奥が、じんと痺れるような感覚。
けれど、不思議と倒れる気はしなかった。
視線は、寝台に横たわる少年から逸らさない。
——逸らしてしまったら、
きっと私は、この光景を「仕方のないこと」として処理してしまう。
それだけは、嫌だった。
「……やっぱり、もっと勉強しなきゃ」
思わず、口からこぼれ落ちた言葉。
それは後悔でも、言い訳でもない。
ただ、純粋な実感だった。
普通の医者じゃ、ダメだ。
普通の治療じゃ、届かない。
日本にいた頃、私はそれを痛いほど思い知らされてきた。
知識はあっても、判断が遅れる。
理論は理解していても、現場では動けない。
「知っている」ことと、「救える」ことは、まったく別物だった。
そして今。
異世界に来て、魔法という力を得ても——
「……同じ、なんだ」
治せる病と、治せない病がある。
届く力と、届かない命がある。
医学だけでは、足りない。
魔法だけでも、足りない。
なら、答えは一つしかない。
「……だったら」
私は、ゆっくりと拳を握りしめた。
「両方を、極めるしかない」
医学の知識。
人体の構造。
病の進行。
症状の意味。
そして——
魔法の理屈。
魔力の流れ。
なぜ治る病と、治らない病があるのか。
「黒死の病」というのは、ただの疫病じゃない。
魔法が効かないという事実が、それを物語っている。
なら、この病はきっと——
世界そのものと、深く結びついているはずだ。
世界の仕組みを知らなければ、この病の正体には辿り着けない。
「命」と「死」の境界を、
“神の領域”とか“奇跡”とかそんな曖昧な言葉では済ませたくない。
私は、はっきりと理解したかった。
なぜ、人は死ぬのか。
なぜ、救えない命があるのか。
そして——どうすれば、それを覆せるのか。
「必ず……見つけるから」
誰に聞かせるでもなく、私は心の中で誓った。
この少年の命を、無意味にしない。
救えなかったという事実から、目を背けない。
次は、必ず救う。
偶然でも奇跡でもない。
理屈と理解と、積み重ねた知識で。
——こうして彼女は、「医学」を極める者としての道を歩き始める。
それは、聖女のように祈る道ではない。
英雄のように剣を振るう道でもない。
ただひたすらに目の前の命と向き合い、逃げずに考え続ける者の道。
迷いながらでも、間違えながらでもいい。
それでも、前に進む。
ナナはもう一度、少年の顔を見つめた。
「……待ってて」
今は、まだ救えない。
でも、いつか必ず——。
その誓いだけを胸に、彼女は静かにその場を後にした。




