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落ちこぼれ医学生、転生先で個人診療所を開設する  作者: 平木明日香
第一章 目覚めたら異世界だったんだが!?
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第6話 お金がない


挿絵(By みてみん)



◇



少年の家を後にし、私はゆっくりと石畳の道を歩きながら、改めてこの世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


潮の匂いと、人の熱気。

どこかで焼かれている肉の香ばしさと、薬草の青臭い匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。


——ここは、ロストン。


ラント帝国南部に位置する海洋交易都市。

「北の門」とも呼ばれ、帝国と外の世界を繋ぐ重要な中継地だ。


——そう教えてくれたのは、さっきまで私に礼を言ってくれていた、あの少年の父親だった。


「ここはロストンだ。帝国の港町でな、北と南、東と西の荷が全部ここを通る」


彼はそう言いながら、家の前から見える港の方角を顎で示した。


「帝都から見りゃ端っこだが、商人にとっちゃ中心みたいなもんだ。

だから人も物も、良くも悪くも集まる」


ラント帝国の街でありながら、帝国の色だけでは語れない場所。

旅人や異国人が多い理由も、身分のはっきりしない人間が紛れ込める理由も、彼の言葉で腑に落ちた。


「困ったことがあっても、役所よりギルドに行け。

ここじゃ、金と信用がものを言う」


そう言って苦笑した彼の表情が、やけに印象に残っている。


——なるほど。

だから、この街はどこか雑多で、それでいて息苦しさが少ないのか。


私はその言葉を思い出しながら、改めて目の前に広がる街並みを見渡した。



地理的にも政治的にも、ロストンは特殊な立ち位置にある。

三つの国の勢力圏が交わる場所にあり、帝国の影響下にありながらも、完全な直轄領ではない。

形式上はラント帝国に属しているものの、実態は自治都市に近く、商人ギルドの力が非常に強い。


そのため、この街には——


商人、職人、船乗り、学者、旅人。

行き場を失った流れ者や、表の仕事では生きられない裏稼業の人間まで。


ありとあらゆる人々が流れ込み、溜まり、また去っていく。


「……なるほど。混沌としてるけど、生きやすそうでもある」


少なくとも、身分不明の異邦人が即座に排除されるような空気ではない。

それだけでも、今の私にはありがたかった。


私は歩きながら、周囲の街並みを改めて観察する。


「うわぁ……まさにファンタジーの世界……」


思わず、独り言が漏れた。


白を基調とした石造りの建物と、木造の家屋が混在し、屋根には青や赤の瓦が使われている。

窓辺には色とりどりの布や花が飾られ、風に揺れるたびに、街全体が生き物のように呼吸しているように見えた。


道は石畳で整備されているが、ところどころに古さが残っている。

それが逆にこの街が長い歴史を積み重ねてきた証のようで、妙な安心感を与えてくれる。


通りに面した市場は、特に活気に満ちていた。


木箱に山積みされた野菜。

見たことのない形をした果物。

乾燥させた薬草や、色鮮やかな香辛料。


売り子たちの声が、ひっきりなしに飛び交う。


「はいはい、新鮮な羊肉だよ! 今朝さばいたばかりだ!」


「魔法の灯りはいかがですか!? 夜でも使える不思議な光! たったの三銀貨!」


「旅人さん! 焼きパンはどう? 焦がしバターの香り、今が一番よ!」


「……」


私は思わず足を止めた。


……お腹が、鳴りそう。


いや、正確にはもう鳴っている。

さっきの少年の家では、ろくに食べられなかったし、ここまで歩いてきて完全にエネルギー切れだ。


「……ダメだダメだ。今は我慢」


食欲に引きずられるまま財布を出そうとして、私は現実に引き戻される。


——財布、ない。


というか、お金そのものがない。


「っていうか……この世界のお金の概念、どうなってるんだろ……?」


私は市場の端に立ち、さりげなく店先の値札を眺めた。


パン一斤が五銅貨。

果物が一銀貨。

魔法の灯りが三銀貨。


通貨は、銅貨・銀貨・金貨の三種類が基本らしい。

感覚的には、銅が小銭、銀が日常通貨、金は高額取引用……そんなところだろう。


「ふむふむ……」


私は頭の中で、必死に日本円換算を試みる。


——いや、無理だ。

経済基盤も物価も違いすぎる。


でも、相対的な価値は分かる。

パンが五銅貨で買えるなら、労働一日分がどれくらいなのか。

宿代はいくらくらいなのか。


「経済感覚をつかむのも大事だよね……」


医療知識も大事だけど、生きるためにはまず生活基盤。

医学生だろうが異世界人だろうが、空腹には勝てない。


私は再び歩き出す。


市場を抜けると、通りの雰囲気が少し変わった。

石造りの建物が増え、看板の文字も整っている。


商会の事務所。

工房。

倉庫。


「……ここが商業地区かな」


ロストンが「商人の街」と呼ばれる理由が、なんとなく分かる気がした。


この街は、動いている。

金も、人も、情報も。


そして——


「……ここなら、私みたいなのも、飲み込んでくれるかもしれない」


そんな根拠のない希望が、胸の奥に芽生え始めていた。


私はまだ、何者でもない。

名前すら、この街に刻まれていない。


それでも。


ロストンという街は、

そんな存在を拒絶せず、

ただ黙って「次はどうする?」と問いかけてくる。


私はその問いに、まだ答えられないまま、

再び石畳の道を踏みしめた。


——とりあえず、生き延びる。


そのための一歩を、確かめるように。

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