[Die dritte Nacht]『ファミーリエ』――愛と十字架 2
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彼女は名を、エアデリーヴェと言った。『闇の眷属』の中では最も繁栄すると伝えられる『人狼』、その中でも取り分け古い歴史を持つ一族の出身で、数年前までは、プロイセンの外れにある、深い森の中の小さな集落で暮らしていた。
族長家の長子――「人狼の姫君」として生を受けた彼女は、それが当然そうであるように、一族を深く愛し、家族を愛し、故郷の森と大地を愛した。
けれど、非情なる運命は、彼女からその全てを奪う。
ある日突然襲来した軍隊によって、彼女の故郷の森は焼かれ、大地は無残に踏み荒らされた。一族は己が『人狼』の力を以て対抗したが、元より人足の限られた小さな集落だ。大量の火器を要する軍団に敵うべくもなかった。
火器に焼かれる同胞と愛する故郷の森。それらを脳裏に焼き付けながらも、しかし人狼の姫は、敢えてそれらに背を向けた。それが、一族の最後の望みだったから。それが、族長家に生まれた者の使命だったから。
彼女に与えられた使命はただ一つ。ただ一つ残された、一族の未来を守ること。ただ一つ遺された、小さな肉親を護ること。
――自身の幼い妹を、護ること。ただ、それだけだった。
「……経緯は分からないが、つまりはそう言うことか」
話を聞き終えると、ファウストは噛み締めるようにそう呟いた。
「え? そーゆーことって、どーゆーことよ?」
――リリスには、全く意味が分からなかったわけだが。
ファウストは嘆息しつつも、リリスへ聞かせるように人狼姫――リーヴェへ問うた。
「……妹の身に、危険が迫っているのだろう? 大方、お前たち姉妹の素性に感付いた狂信者どもの暴走か――その傷も」
リーヴェは、重々しく頷く。
「妹は……貧民街の廃教会におります。そこで独り、わたくしの帰りを待っているのです――お腹を、空かせて……」
苦々しく呟いて、リーヴェは唇を噛む。
そんな彼女に、ファウストはしばし黙してから、言った。
「……人狼の姫リーヴェよ――私を、信じて貰えるか」
「え……?」
戸惑ったような表情を浮かべるリーヴェ。当然だ。ファウストが何を意図しているのか、リリスにも分からない。
「――……」
己の身に巻かれた真新しい包帯に手を当てて、人狼の姫はじっと眼を閉じる。
自分を信じろ、と。彼はそう言った。何の根拠もない言葉。ただ偶然、暗い夜の中で出会っただけの、素性も分からぬヴァンパイアの言葉。頷けと言う方が無理な話だったろう。
――けれど。
「……はい。あなたを……信じますわ――ファウスト……さま」
静かに眼を開けた彼女は、彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見詰めたまま、穏やかな声でそう言った。まるで憑き物が落ちたかのような、安らいだ表情だった。
先ほどまでの強ばった表情が嘘のような顔。
けれどそれこそが、本来彼女にあるべき貌だったのだろう。その微笑の美しさに、リリスは同性であるにもかかわらず、瞬間、見惚れてしまった。
もしかすると、そのせいだったのかも知れない――制止が間に合わなかったのは。
「――失礼する」
唐突に言った次の瞬間。ファウストはリーヴェの白い首筋に――『闇の魔獣』の象徴たる、その鋭利な歯牙を突き立てていた。
「な――何やってるのよっ……!?」
ハッとして、困惑混じりの怒声を上げるリリス。
けれど、ファウストがリーヴェを解放する素振りはなく、その口元には確かな赤いモノが見えた。
「――っ……ん……あっ……あ……は……ぁん……ふあ……ぁ……」
艶を含んだ、そんな声。自らの生命を嚥下されながら、それでもリーヴェは陶然としたような虚ろな表情を浮かべる。
――リリスは、その光景に見覚えがあった。他でもない。『闇の魔獣』と生まれて初めて遭遇した夜。自らの不甲斐なさを思い知らされた夜の出来事だ。
娼婦の首に食らいつく魔性。苦悶なのか快感なのかも曖昧な喘ぎ。首筋から溢れ出る赤い液体。それを嚥下する黒きケモノ。後に残ったのは――
「っ……アルっ――!」
ぞくりとして、リリスは再度声を上げた。
だが。
「……? アベル……君……?」
振り返れば、アベルが腕を掴んでいた。彼はそのまま、ゆっくりとかぶりを振る。
放っておけと言うのだろうか。いや、制止している以上、それ以外の理由などないのだろうが、しかし、このままでは――……そう考えかけて、ハッとした。
ファウストの先ほどの言葉。
――私を信じて貰えるか。
信じろ、と言うことなのか。この男を、この――『闇の魔獣』を。
だが、その結論を出すよりも早く、その「儀式」は終わりを迎えた。野獣の口蓋は美女の首筋から離れ、美女は熱い吐息を吐く。上気した美女の顔には快感の余韻しかなく――死を連想させる、暗い影はどこにもなかった。
「へ……? 何とも……ないの……?」
拍子抜けしたように呟くリリス。
「はい」
頷いたのはアベルだった。
「あれは、僕ら『闇の眷属』の『特性』を取り込むための……儀式、なんです。もちろん、悪意なんてありません。儀式の結果もたらされるのは、幾ばくかの幸福感と深い親愛……それだけです」
何かを思い出すように、アベルはそっと眼を閉じて、自らの胸に手を当てる。
リリスには、彼の胸中の想いも、その言葉の意味も良く分からなかった。――しかし、眼の前で何が起きているのかだけは辛うじて理解出来た。
――それは、『変化』だった。だが、先ほどのリーヴェとは真逆の『変化』。「彼」の身を覆う外套が、まるで別の生物のように「彼」の身を包み込み、締め上げ、蠢き、粘土細工のように形を変える。
やがてそこに現れたのは――狼。紛う方なき狼の姿。灰色のたてがみをした、リーヴェよりも幾分、逞しく精悍な印象のする黒狼。
《――アベル、後は頼む》
少しだけくぐもってはいるが、もう聞き慣れた声。耳に心地良い、低く艶のある声。それは、確かに黒狼の口蓋から響いていた。
つまり、その黒狼は「彼」――ファウスト・アルカード、そのヒトなのだ。
「はい、アルさま」
答えると、アベルは恭しく頭を垂れて見せる。
黒狼は満足げに頷くと、リリスたちを置いて一人闇の中へと駆けて行く。
その速度は、リーヴェのそれすらも遙かに凌駕したもので――リリスはただ呆然と、闇に消える灰色のたてがみを見送ることしか出来なかった。




