[Die dritte Nacht]『ファミーリエ』――愛と十字架 3
[3]
アイナの教会に身を置く者として、その廃教会の存在は勿論知っていたし、危惧してもいた。悪童どもの溜まり場や、犯罪者の隠れ家に転用されてしまう可能性もあったし、そうでなくとも、古く手入れのされない廃墟には事故の危険が付きまとう。
とは言え、それがアイナ教会の管理下から離れて久しかったし、そも、最早「彼女」以外、誰もそれを気に掛ける者などいなかった。本来ならば、わざわざ「彼女」自ら、視察に出向くほどのことはなかったかも知れない。
……まして、夜更けに供も付けずに一人で、ふらりと思い付きみたいに、だなんて。感情豊かな「彼女」の娘が知ったら、不用心だと憤慨したことだろう。
――それでも。その夜、「彼女」はその場所に在った。取り立てて理由などはない。ただ、月の輝く夜空を眺めていたら。今、出向かなければならないような気がした。
……馬鹿なことだとヒトビトは笑うだろう。今時、虫の知らせや第六感を信じる者など、迷信深い片田舎にしかいやしない。
けれど、その馬鹿げた行動こそが、「彼女」にその尊い出会いをもたらした。
それは、二つ。
一つ目は、愛らしい少女との出会い。
澄んだ大きな黒瞳と艶やかな黒髪が印象的な、おそらくは十にも満たないだろう、素朴な雰囲気の少女。思わず、出会っただけで頬が緩んでしまうような少女。
――けれど、出会った瞬間に、少女がただの人間でないことは知れた。望むと望まざると、「彼女」にはそれが分かってしまうから。
だが同時に、そんなことは「彼女」の中では何の意味も持たない。少女が庇護すべき対象であるのは間違いがなかったし、救いたいと願う気持ちが揺らぐこともなかったから。
――それ故に。「彼女」は、少女を害そうとする男たちを看過することが出来なかった。
細かい事情などは分からない。けれど、彼らはどこかで、この幼い少女が『人外のモノ』――『闇の眷属』であることを知ってしまったのだろう。
「シスター、どいてくれ、俺たちは『化け物』を殺しに来ただけなんだっ」
誰かが言った。
少女は、「彼女」のスカートを小さな手でぎゅっと握り締めたまま、怯えた顔で身を震わせる。
……化け物? この、ただ震えることしか出来ない幼子が、化け物? ……馬鹿げている。興奮に眼を血走らせ、震える手で物騒な得物を振り上げる彼らの方が、よほど化け物ではないのか。
「彼女」は、状況も忘れて、今すぐ神に祈りたい気持ちだった。
だが、そんな「彼女」の思いを余所に、痺れを切らせたような怒号が響く。
「どかねえってんなら、あんたごとぶっ殺してやるっ!」
その声の恐ろしさに、少女が強く「彼女」の脚にしがみついた。
――その時だった。
まるで黒い閃光のような何かが、「彼女」と男たちの間に飛び込んで来た。
それは、狼。灰色のたてがみをした、大きな黒狼。
――それが、二つ目の出会い。「彼」との――ずっと待ち望んでいた出会いだった。
困惑する男たちに「彼」は、
《――去れ。愚かなるヒトの子らよ》
そう、低く鳴いた。
その声の迫力に狼狽しながらも、男たちは「彼」に襲いかかった。
けれど、「彼」の強靱な牙はどんな得物だろうと物ともしない。あっと言う間に彼らを丸腰にして、吠え声一つ。あっけないくらいあっさりと、暴虐の徒を解散させてしまった。
……そうして。暴漢が去り、打ち捨てられた聖域に再び静寂と安寧が戻った頃、「彼」はゆうるりとその姿を変えた。
女性と見紛うような、美しい人間の男。……いいや。人間でないのはもう分かっている。そんなことは百も承知。灰の髪と瞳をして、夜闇のような黒衣に身を包んだ、ヒトに似たヒトならざる者。今も脚にしがみつくその少女とも違う、混じり気のない純粋なる闇の化身。
麗しき――『闇の魔獣』。
けれど、「彼」の本質はケモノなどではない。幼き少女のため、暴虐の徒に立ち向かったその姿は、物語の中のどんな英雄よりも英雄的だった。
ヒトの姿となった「彼」は、眼前の「彼女」を一瞥したが、すぐにその視線を足下の少女へ移すと、膝を折ってそっと微笑みかけた。
「……君が、リーヴェの妹君か」
「! おにいちゃん、おねえちゃんをしってるのっ!?」
「彼」が口にした名前に、つい今し方まで怯えていた少女は、驚きと喜びと困惑の入り交じったような、けれど確かな明るさを湛えた声で言った。
「彼」は、穏やかな笑みのままこくりと頷いて見せる。
「ああ、もちろん。さっきまで、お姉ちゃんと同じ格好をしていたろう? 私はね、君のお姉ちゃんに頼まれて、君を助けるために、ここまで来たのだよ」
ゆっくりと、幼い少女が理解しやすいように、易しい言葉を紡ぐ「彼」。
「そういえば……おねえちゃんのにおいがする」
安心したような呟き。
「本当に……無事で良かった」
今一度微笑んで、「彼」は最後にそう呟くと、黒革の手袋に包まれた大きな手で、そっと少女の頭を撫でてやった。
と、その手の温かさに安心したのか、少女は瞬間、大粒の涙をぼろぼろと零し始めた。
「――う……う~……うぅぅぅぅっ……」
泣くことに慣れていないのか、不器用な声を上げながら、号泣する少女。
普通の男ならば、ふいなことに慌ててしまったことだろう。けれど、「彼」はそうなることなどお見通しだったのか、はたまた子をあやすことに慣れていたのか、微塵も慌てる素振りなど見せず、少女をそっと抱き締めてやった。
少女も、「彼」に逆らわない。子供と言うのは、対峙した大人が自分の敵か味方かを瞬時に判断する能力を持っていたりする。「彼」が味方であることを、少女は理解していたのかも知れない。
――そして、「彼女」自身も。
「……お優しいのですね」
大人の女性らしさに溢れた、たおやかな声。「彼」へ、初めてかける言葉だった。
「彼」は少女を抱いたまま立ち上がると、改めて「彼女」に眼を向けた。
「……何方かは存じ上げないが、貴女がいなければ、この少女の尊き命は無残に散らされていたことだろう。礼を言わせて頂く――シスター」
「彼女」は自嘲的に微笑んでかぶりを振った。
「いいえ、わたくしは何も。貴方様がいらっしゃらなければ、わたくしも天へと召されていたことでしょう。……わたくしこそ、お礼を申し上げなければ」
そう言って頭を垂れた「彼女」に、「彼」は愉快そうに笑った。
「貴方は不思議なヒトだな、シスター。幼い少女とは言え、『闇の眷属』である者を助けるばかりか、私のようなモノに躊躇いなく頭を垂れる。貴方にそうさせるモノが何なのか――些か、興味が湧いてくる」
そんな言葉に、「彼女」もにこやかに返す。
「まあ、貴方様のような殿方に興味を持って頂けるなんて、光栄ですわ。けれど、わたくしはむしろ、闇の化身の頂点たる『闇の魔獣』でありながら、ケモノの狂気を微塵も感じさせない貴方様の胸中に、いったいどのような想いが渦巻いているのか――そちらの方が、興味深くありますわ」
どこか底の知れない笑顔に、ふむ、と「彼」は思わせぶりに笑った。
「……そうだな。ならばいっそ、我が深淵を覗いてみるか? ――『神に仇なすケモノ』を恐れぬならな」
「貴方様こそ。わたくしの心に踏み込んでみますか? ――主の威光を恐れぬのなら」
言って、見つめ合う。……お互いに、どこか共犯者めいた笑みが湧いた。
「……なんのおはなし、してるの?」
ふと気が付けば、「彼」の腕の中で泣きじゃくっていた少女も、すっかり落ち着きを取り戻している。
「……なにか、たのしいこと?」
二人の顔を交互に見やってから、きょとんとした顔で。
「彼」は優しく微笑んで、
「ああ、とても愉快なことさ。とても愉快で――嬉しい、ことさ」
腕の中の幼子に、そう言った。
けれど、その言葉の意味は少々難しかったらしい。
「……よくわかんない」
少女はそう言うと、不機嫌そうに唇を尖らせた。
丁度、そんな時だった。
「――ティータ!」
そんな声が、教会の入り口の方から響いた。
見れば、そこには三人の人影。怪我でもしているのか、中央の背の高い人物を、両側のやや小柄な人物が支えるようにして立っている。
中央の人物は女性のようだった。長い黒髪をして、黒いドレスを身に纏っている。声を発したのはこの女性。……ヒトではない。状況を鑑みるに――つまりこの女性が、リーヴェと言うのだろう。
リーヴェを支えるうちの一人は、少年のようだった。体躯から察するにまだまだ子供のようだが、身なりは不似合いなほど小綺麗だ。この少年も、ヒトではない。それに、服装の趣味を見るに――おそらく、「彼」の身内なのだろう。
――そして、もう一人。純白のカソックを身に纏った、ふわりとした肩ほどの金髪が美しい少女。
「おねえちゃん!」
「おかあさま!?」
二人の少女が同時に声を上げた。
一人の少女はリーヴェを見て。
もう一人の少女は――「彼女」を見て。
信じられないモノを見たと言う顔をする金髪の少女に、
「まあ。こんなところで出会うなんて……奇遇なこともあるものね、リリス?」
冗談めかすようにそう言って、「彼女」――聖ダヴァンツァティ学院長ラピニール・フェアシュタントは、おどけるように笑った。




