『泥を啜る日々、鉄板の重み』
学園横に口を開ける『試練の迷宮』。その第一層は、新入生たちが華々しく初陣を飾るための「演習場」であるはずだった。
だが、そこには一人、地面に這いつくばり、吐血混じりの荒い息を吐く少年がいた。
「……はぁ、はぁ……っ! まだだ……まだ動ける……」
シュウの目の前には、一体の『泥粘土』。
魔導理論の教科書によれば、子供でも棒切れ一本で追い払える最下位の魔物だ。しかし、固有スキル『魔物喰い』という戦闘に一切寄与しない能力しか持たないシュウにとって、その粘着質な体躯は、逃れられぬ死の檻のように見えた。
シュウが手にするのは、なまくらな短剣。
渾身の力で突き立てても、スライムの弾力ある表面に滑り、薄皮一枚傷つけることができない。逆にスライムが放つ鈍重な体当たりを受けるたび、シュウの細い体は木の葉のように吹き飛ばされた。
「おい見ろよ。特待生様がスライム相手に無様なダンスを踊ってるぜ」
迷宮の通路から、突き刺さるような嘲笑が響く。
アルトリウスだ。彼は伝説の聖剣を鞘に収めたまま、指先一つ動かさずに取り巻きたちを従えて立っていた。その隣には、生徒会長のフィオナ、そしてエルフの才女エレインの姿もある。
「アルトリウス様、あんな無能、放っておきましょう。見ているだけでこちらの魔力が汚れそうですわ」
取り巻きの女子生徒が扇子で口元を隠し、蔑みの視線を送る。
アルトリウスはふんと鼻で笑い、シュウのすぐ側を通り過ぎた。
「……シュウ。貴様のようなゴミがここにいること自体、この学園の、いや、私の『聖剣』に対する冒涜だ。明日の朝までに退学届を出しておけ。それが、唯一残された『人間』としての知性だぞ」
アルトリウスの放つ圧倒的な魔圧。初期ステータス『2,500』を超える彼の存在感は、それだけでシュウの呼吸を止めるほどに重かった。
フィオナは無言で、憐れみとも軽蔑ともつかない瞳を一度だけシュウに向け、アルトリウスの後を追った。
エレインに至っては、視界にすら入れていない。彼女にとってシュウは、道端の石ころ以下の存在だった。
「…………っ!」
一人残されたシュウは、震える手で地面を叩いた。
悔しさは、とうに限界を超えていた。だが、それ以上に彼を突き動かしていたのは、内側からせり上がるような「飢え」だった。
神託以来、シュウの胃袋は焼けるような熱を帯び、何かを――魔物の生命力を欲して叫んでいた。
ふらふらと迷宮を抜け出したシュウが向かったのは、学園の端にある廃材置き場。そこには、巨大な槌を振るうドワーフ、ガストンの姿があった。
「……なんだ。スライム一匹、仕留められなかったか」
ガストンは槌を止め、シュウのボロボロになった姿を一瞥した。
「ガストン、俺は……強くなりたい。あいつらを見返したいんじゃない。ただ、この『飢え』を止めたいんだ」
ガストンは無言で、足元に転がっていた分厚い鉄板を拾い上げた。それは盾の試作品として打ち捨てられた、数十足(数十キロ)はある重厚な代物だった。
彼はそれを、革紐で無理やりシュウの背中に括り付けた。
「ぐっ……!? 重い……!」
「当たり前だ。スキルがゴミなら、まずはその貧弱な体を作り直せ。今日から毎日、そいつを背負って迷宮の周りを五十周。その後、素振りを千回だ。飯は俺が余らせた黒パンだけ。文句があるなら今すぐ辞めちまえ」
「……辞めるもんか。やってやるよ」
そこから、地獄のような日々が始まった。
華やかな学生たちが放課後のカフェで談笑し、最新の魔導理論に花を咲かせている間、シュウは泥にまみれ、鉄板の重みに背骨を軋ませながら、学園の裏手を走り続けた。
ガストンは決して優しい言葉はかけない。だが、シュウの体力の限界を見極め、倒れ伏す寸前で「まだいけるだろ、根性なしが」と喝を入れた。
一週間後。
シュウの体は悲鳴を上げていたが、その瞳には変化が起きていた。
極限まで追い込まれた肉体が、生きるために環境に適応しようともがいていたのだ。
「……シュウ。短剣を抜け。今日こそ、あいつを喰うぞ」
ガストンの言葉に、シュウは静かに頷いた。
手にしたなまくらな短剣。だが、一週間前とは「握り」が違う。背中の鉄板を外したシュウの体は、驚くほど軽く、鋭い。
再び挑んだ、迷宮第一層のスライム。
シュウは迷いなく踏み込んだ。スライムの体当たりを、最小限の動きでかわす。ガストンの特訓で培った、泥臭い回避。
「――そこだ!」
シュウの短剣が、スライムの核を正確に貫いた。
粘着質な体が霧散し、手元に残ったのは、不気味に脈動する青い核。
「…………」
シュウは躊躇しなかった。
生臭い臭気を放つその核を、そのまま口へと放り込む。
ゴクリ、と喉が鳴った。
【条件達成:『泥粘土』の初捕食を確認】
【全ステータスが 0.10 上昇しました】
微々たる数値。アルトリウスたちから見れば誤差にすらならない成長。
だが、シュウの体の中で、初めて『境界線』への歯車が音を立てて動き始めた。
「……ガストン、不味いな。これ」
「ははっ! 最高の味だろうが。……次は十匹だ。食い溜めしろよ、相棒」
夕闇の中、最底辺の二人は不敵に笑い合った。
まだ誰も知らない。これが、後に世界を食い尽くす最強の捕食者の、最初の一歩であることを。
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