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十年間の「お飾り妻」、本日をもちまして退職いたします。  作者: 月雅


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第9話「帰還の使者」

港の鐘が、朝を告げた。


リーゼロッテは商会の事務室で、新規事業の実行計画を清書していた。陸路交易の中継拠点について、ルーカスからの承認が下りたのは数日前のことだ。最初の取引先との交渉日程を組み、必要な書類を揃える段階に入っている。


自分で見つけ、自分で組み上げ、自分の名前で進める仕事。手を動かすたびに、それが確かな形になっていく。


事務室の扉が、勢いよく開いた。


「リーゼロッテさん、ちょっと来て」


マルグリットの声が切迫していた。帳簿を抱えたまま、息を切らしている。


「商会の入り口に、ヴァルトシュタイン王国から使者が来てます。グランハルト公爵家の紋章が入った書状を持ってて、あなたに会いたいって」


リーゼロッテの手が止まった。


ほんの一瞬だった。すぐに書き付けを机に置き、立ち上がった。


商会の応接室に通された使者は、見覚えのある顔だった。公爵家の侍従官の一人。リーゼロッテが十年間、人事の配置表で名前を管理していた男だ。旅装は埃にまみれ、頬がこけている。国境を越えてここまで来るのに、相当な日数がかかったのだろう。


リーゼロッテは応接室の椅子に腰を下ろした。ルーカスは同席せず、隣室で待機している。リーゼロッテが一人で対応すると告げた時、ルーカスは一つ頷いただけだった。


「お久しぶりでございます、リーゼロッテ様」


使者は深く頭を下げた。その呼び方がもう正確ではないことに、本人は気づいていないようだった。


「ご用件を伺います」


リーゼロッテは姿勢を正したまま、静かに言った。


使者は懐から書状を取り出した。封蝋にグランハルト家の紋章が押されている。リーゼロッテはそれを受け取り、封を切った。


ヴォルフガングの筆跡だった。読み慣れた、やや崩れた書体。十年間、領地経営の指示書で何百回と目にした筆跡が、今は別の言葉を綴っていた。


「どうか、戻ってきてほしい」


嘆願だった。


リーゼロッテは書状を読み終え、膝の上に置いた。使者の顔を見た。


「領地の現状を、お聞かせください」


使者は唇を引き結んだ。それから、堰を切ったように話し始めた。


四半期報告が二期連続で王家に届いていないこと。王家の監査が正式に決定したこと。使用人の離脱が止まらず、料理番も厩番も庭師もいなくなったこと。南方の木材商との契約は更新されず、東方の仲介業者も条件の見直しを突きつけてきたこと。


「ナターシャ様が交易先の商人を侮辱なさって以来、取引の申し出そのものが途絶えております。社交季の席でも、他家の方々が公爵家との同席を避けるようになりました」


使者の声が震えていた。


「引き継ぎ資料は、どうなりましたか」


リーゼロッテは静かに聞いた。


使者は目を伏せた。


「公爵様はお開きになりませんでした。ナターシャ様が女主人としてお取り仕切りになると仰せで、資料はそのまま書庫に……」


沈黙が落ちた。


読まれなかった。十年間のすべてを詰め込んだあの革装の冊子は、書庫に眠ったまま、一度も開かれなかった。


リーゼロッテは息を吸った。吐いた。感情が波のように押し寄せて、引いた。


「ご伝言を申し上げます」


リーゼロッテは使者の目を見た。


「わたくしは十年間、すべてを残しました。領地経営の手順も、交易先の条件も、使用人の配置も、財務の雛形も。読みさえすれば回せるように書きました」


声は平らだった。震えてはいなかった。


「それでも足りなかったのであれば、わたくしが戻っても同じことです」


使者の顔が歪んだ。


「リーゼロッテ様、どうか――」


「わたくしはもう、グランハルト公爵家の人間ではありません。婚姻契約は教会の認証のもとに解消されております。法的にも、わたくしに公爵家への義務はございません」


使者は言葉を失った。


リーゼロッテは書状を丁寧に折り、使者に返した。


「お体に気をつけて、お戻りください。長旅でお疲れでしょう。商会の者に宿の手配を申し付けます」


使者は書状を受け取り、しばらく動けなかった。やがて深く頭を下げ、応接室を出ていった。


使者が去った後、リーゼロッテは応接室の椅子に座ったまま動かなかった。


窓の外から、港の喧騒が聞こえている。荷を運ぶ人々の声、馬車の車輪の音、商船の汽笛。この街の日常は何も変わっていない。


お前がいてもいなくても同じだ。


あの夜会での言葉が、今、完全に裏返っていた。いなくなって初めて、すべてが崩れた。引き継ぎ資料があっても、数字を読む者がいなければ意味がなかった。


けれどそれは、もうわたくしが背負うべき荷ではない。


扉を叩く音がした。


「リーゼロッテ殿、入ってもよろしいですか」


ルーカスの声だった。リーゼロッテは姿勢を正した。


「どうぞ」


ルーカスが入ってきた。リーゼロッテの顔を見て、一瞬だけ表情を動かした。何を読み取ったのかは分からない。向かいの椅子に座り、静かに口を開いた。


「使者の方には、宿の手配をいたしました」


「ありがとうございます」


しばらく、二人とも黙っていた。


リーゼロッテは窓の外に目を向けた。それから、ルーカスの方に視線を戻した。


「ルーカス様」


その呼び方が、自然に出た。アルデバラン商会主殿ではなく。いつからか変わっていた距離が、声になった。


ルーカスの目が僅かに見開かれた。


「あなたに、お話があります」


リーゼロッテは背筋を伸ばした。


「先日のことは、まだ怒っています」


ルーカスは頷いた。


「でも、あなたがわたくしの味方であったことは、疑いません」


声は静かだった。帳簿を読み上げるような平坦さではなく、一言ずつ選んでいる声だった。


「先回りなさったことは許していません。けれど、あなたが弁解せずにわたくしの怒りを受け止めたこと。待ってくださったこと。あの方とは違うと、わたくしは判断しました」


ルーカスは黙って聞いていた。目を逸らさなかった。


「それなら、もう一つだけ聞いてください」


ルーカスの声が、僅かに変わった。穏やかさは変わらない。けれど、その奥にある何かが表面に近づいた。


「私があなたに惹かれたのは、五年前の交易交渉の席でした」


リーゼロッテの呼吸が止まった。


「あなたは公爵の名代として交渉に臨んでいた。条件を提示する手際、数字の正確さ、交渉相手への敬意。あの席で私は、この人の仕事は本物だと思いました」


ルーカスは一拍の間を置いた。あの癖。けれど今日の一拍は、いつもより長かった。


「それが敬意になり、敬意が恋慕に変わったのは、いつだったかは分かりません。けれど、商会に迎えたいと思ったのは、商人としての判断だけではなかった。あなたの仕事の手腕に惹かれたのは事実です。けれどそれだけではない。あなたという人に、惹かれたのです」


静寂が落ちた。港の鐘が遠くで鳴った。


「先回りしたのは、私の弱さです。あなたの意思を待つべきだった。それでも、あなたが行く場所をなくすことだけは耐えられなかった。商人としての計算ではなく、ただ、あなたに安全な場所があってほしかった」


ルーカスはリーゼロッテの目を真っ直ぐに見ていた。


「リーゼロッテ殿。私は、あなたに――公爵夫人としてではなく、リーゼロッテという人に、隣にいてほしいと思っています」


リーゼロッテは何も言えなかった。


言葉が喉の奥で詰まっていた。帳簿の数字なら即座に読める。契約書の条項なら暗記している。けれどこの言葉に対して返すべきものを、リーゼロッテは持っていなかった。


胸の奥で何かが揺れていた。怒りでも、警戒でも、分析でもない。もっと古くて、もっと柔らかいものだった。十年間、存在しないふりをしてきたものが、今ここで名前を求めている。


「今すぐのお返事は求めません」


ルーカスは静かに言った。


「待ちます。あなたが、あなたの言葉で答えてくださるまで」


リーゼロッテは小さく頷いた。それが精一杯だった。


ルーカスは立ち上がり、軽く頭を下げて応接室を出ていった。


夜、住居の窓を開けた。


港の灯台が、規則正しく光を回している。波の音と、遠くの酒場の喧騒。この街に来てから何度も聞いた夜の音が、今夜は違って聞こえた。


戻らないと決めた。嘆願を断った。あの場所はもうわたくしの場所ではない。


そしてルーカスの言葉が、胸の中にある。


公爵夫人としてではなく、リーゼロッテという人に。


十年間、誰もそんなふうに呼んでくれなかった。公爵夫人。お飾り。いてもいなくても同じ。どの呼び方も、リーゼロッテという人間を見ていなかった。


この場所を失いたくないと、初めて思った。この仕事を。この商会を。あの人の隣にいる時間を。


その感情に名前をつけることが、まだ怖かった。契約でも義務でもない感情を、自分の意思で選ぶということが、十年間やったことのない行為だった。


けれど、答えはもう見えていた。見えていることを認めることが、最後の一歩だった。


リーゼロッテは窓を閉めなかった。夜風が頬に冷たかった。けれどその冷たさは、もう自由の温度ではなかった。


ここにいたいという、確かな温度だった。

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