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十年間の「お飾り妻」、本日をもちまして退職いたします。  作者: 月雅


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第7話「先回りの罪」

「あ、そういえばリーゼロッテさんの部屋、半年前から用意してたんですよね、ルーカス」


マルグリットの声は、何気なかった。


商会の事務室で、三人が午後の業務報告をしている最中だった。リーゼロッテが住居の窓の建て付けについて一言触れた、その流れだった。


マルグリットは帳簿から顔を上げもせずに言った。


「あの物件、半年前にルーカスが押さえたんですよ。港が見える部屋がいいって、わざわざ指定して。普通の顧問招聘じゃあそこまでやらないですけどね」


空気が、変わった。


リーゼロッテの手が、書き付けの上で止まった。ルーカスの表情が、一瞬だけ凍った。マルグリットはまだ気づいていない。帳簿の数字を指で追いながら、続けた。


「居住許可の手配も早かったですよね。あたし、書類の処理手伝いましたけど、あれ外国人顧問の招聘としては準備が手厚すぎて――」


「マルグリット」


ルーカスの声は穏やかだった。けれどマルグリットはその一言で顔を上げ、ルーカスの表情を見て、自分が何を言ったのか悟った。


「あ」


沈黙が落ちた。


リーゼロッテは書き付けから手を離し、背筋を伸ばした。視線をルーカスに向けた。


「半年前、とおっしゃいましたか」


声は静かだった。静かすぎた。公爵夫人として十年間、どんな場面でも感情を表に出さなかった人間の、訓練された静けさだった。


「リーゼロッテ殿――」


「半年前は、わたくしがまだ公爵家にいた時期です。離縁の届出も、ルーカス殿にはお伝えしておりませんでした」


ルーカスは口を閉じた。弁解の言葉を探す素振りはなかった。


「住居の手配。居住許可の申請。雇用ポストの準備。半年前から」


リーゼロッテは一つずつ並べた。声に感情はなかった。帳簿の数字を読み上げるように、事実だけを列挙した。


「最初から、すべて計画通りだったのですか」


その問いが、事務室の空気を切った。


マルグリットが椅子から腰を浮かせた。顔が青ざめている。自分の失言の重さに、今はっきりと気づいた顔だった。


「ち、違うの、リーゼロッテさん、あたしが余計なこと――」


「マルグリットさん。あなたのせいではありません」


リーゼロッテはマルグリットに視線を向けた。その目は穏やかだったが、奥に硬いものがあった。


「事実を教えてくださっただけです」


マルグリットが口を噤んだ。リーゼロッテはルーカスに向き直った。


ルーカスは椅子に座ったまま、リーゼロッテの目を真っ直ぐに見ていた。弁解も、言い訳も、取り繕いもしなかった。


「あなたの怒りは正当です」


静かな声だった。


「私が先走りました。あなたの意思を確認する前に、受け入れの準備を進めたのは事実です」


「なぜ」


「あなたが公爵家を出る可能性があると判断したからです。商人ギルドの情報網で、白い結婚の噂と、庶子の跡取り指名の動きを把握していました。もしあなたが離縁を選んだ時、行く場所がないということだけは避けたかった」


理由は筋が通っていた。善意として聞けば、確かにそうだ。リーゼロッテが離縁した時に困らないよう、先回りして環境を整えた。取引相手として五年間見てきた相手への、配慮。


けれど。


「わたくしの意思を、確認なさらなかった」


「はい」


「わたくしがまだ公爵家にいる間に、わたくしの知らないところで、わたくしの行き先を用意なさった」


「はい」


ルーカスは否定しなかった。視線も逸らさなかった。


リーゼロッテの胸の奥で、古い痛みが軋んだ。


十年間。公爵家で、誰もリーゼロッテの意思を聞かなかった。政略結婚も、実務の全権委任も、リーゼロッテの同意ではなく周囲の都合で決まった。お前がいてもいなくても同じだと言った男は、リーゼロッテが何を考えているかに一度も関心を持たなかった。


そして今、善意の形で、また同じことが起きている。


「善意だったのか、利用だったのか、今のわたくしには判断がつきません」


リーゼロッテは立ち上がった。


「少し、一人にさせてください」


ルーカスは頷いた。引き止めなかった。追いかけもしなかった。


リーゼロッテは事務室を出た。マルグリットの「リーゼロッテさん」という声が背中に届いたが、振り返らなかった。


商会の外に出ると、午後の風が港から吹いていた。


リーゼロッテは港沿いの道を一人で歩いた。商会の警備員が遠くから付いてきているのが分かったが、声をかけてはこなかった。


足が勝手に動いていた。行き先はなかった。ただ、あの事務室にいられなかった。


半年前。


あの頃、リーゼロッテは離縁の準備を始めていた。引き継ぎ資料の作成。法的書類の整備。慰謝料の算出。すべてを一人で、誰にも悟られずに進めていた。


その同じ時期に、ルーカスは国境の向こう側で、リーゼロッテの受け入れ準備を進めていた。


知らなかった。


知らされなかった。


港の突堤に着いた。石の手すりに手を置き、海を見た。波が堤防に当たって白く砕ける。風が強い。髪が乱れたが、直す気にならなかった。


また、わたくしの意思を無視して。


怒りがあった。それは確かだった。積み上げてきた信頼が、足元から揺らぐ感覚。この場所もルーカスが用意した場所で、この仕事もルーカスが用意した仕事で、この住居もルーカスが選んだ住居だった。すべてが、わたくしの知らないところで決められていた。


公爵家と同じではないか。


その考えが浮かんだ瞬間、リーゼロッテは手すりを握る指に力を込めた。


いいえ。


本当にそうだろうか。


あの人は、旦那様と同じだろうか。


ヴォルフガングは、リーゼロッテの意思を無視したのではない。そもそも関心がなかった。リーゼロッテが何を考え、何を感じているか、十年間一度も知ろうとしなかった。


ルーカスは違った。少なくとも、今日の対峙の中で、弁解しなかった。正当だと言った。先走ったと認めた。


ヴォルフガングに、そんな言葉を聞いたことがあっただろうか。


怒りの中に、一筋の冷静さが残っていた。帳簿の数字を追う時と同じ冷静さ。感情の奥で、分析する自分がいる。


違う。同じではない。同じではないが、許せるかどうかは別の話だ。


善意だったのかもしれない。計算だったのかもしれない。あるいはその両方かもしれない。今のわたくしには、まだ分からない。


波の音が、繰り返し堤防を叩いていた。


リーゼロッテは手すりから手を離し、商会の方角に目を向けた。戻らなければならない。仕事がある。仲介手数料の再交渉は来週に控えているし、倉庫の統廃合の報告書も途中だ。


仕事に逃げようとしている自分に、気づいていた。


気づいた上で、足を商会に向けた。怒りの答えを今日出す必要はない。けれど仕事を止める理由もない。ルーカスとの関係がどうなろうと、商会との雇用契約は対等な条件で結ばれている。あの契約書にルーカスの個人的な思惑は記載されていない。


商会に戻ると、事務室にはマルグリットだけがいた。


リーゼロッテの顔を見て、何か言いかけて、やめた。代わりに帳簿を差し出した。


「仲介手数料の件、先方から返答が来てます」


「ありがとうございます」


リーゼロッテは席に着き、帳簿を開いた。数字を追う。計算する。書き付けに記す。手を動かし続ける。


ルーカスは事務室に現れなかった。


夜、住居に戻った。


窓から港が見えた。ルーカスが半年前に選んだ、港が見える部屋。


この窓からの景色を、あの人はわたくしのために選んだのだろうか。それとも、商会にとって有能な顧問をつなぎとめるための投資だったのか。


信頼は、壊れる時に音を立てない。静かに罅が入って、気づいた時にはもう元に戻せない。


けれどこの罅は、本当に同じものだろうか。公爵家で入った罅と、同じ種類のものだろうか。


リーゼロッテは窓を閉めなかった。


風が冷たかったが、今はその冷たさが必要だった。頭を冷やすために。怒りと、その奥に残った小さな問いを、明日もう一度見つめるために。


あの人は、わたくしの怒りを正当だと言った。先走ったと認めた。


十年間、一度もそんな言葉を聞かなかった相手との違いを、わたくしはまだ整理できていない。

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― 新着の感想 ―
ルーカスが先走り男だったとして、リーゼロッテも先走り女でしょ。やっぱりヒステリックだよね。そもそも勧誘とかヘッドハンティングとかって用意してから誘うのが礼儀じゃね?それがダメって……
ヒロインが頑なすぎて嫌い。なぜここで怒るのか理解できない。コレコレこういう準備したから絶対来てね!と言われたわけでもないし、ここに来ると決めたのはヒロインでしょう?離婚しろと誘導されたわけでも、無理強…
このエピソードで主人公「リーゼロッテ」が葛藤するのが理解できないし共感できない。 何故なら小説の時代背景は知らんが「ヘッドハント」というのはかなり事前準備が必要である、「退職しました」『デハ、ウチに来…
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