第6話「数字は語る」
十年前、グランハルト公爵領の交易収支は赤字だった。
その数字を、リーゼロッテはギルド長の口から聞くことになるとは思わなかった。
商人ギルドの定例会合は、港の中央広場に面したギルド会館で行われた。ルーカスが別件で出席できず、商会代表としてリーゼロッテが出向いた。商人ギルドに登録された経営顧問として、代理出席の資格は問題ない。
会合の議題は四半期の交易動向報告だった。各商会の代表が順番に報告を行い、リーゼロッテはアルデバラン商会の数字を簡潔にまとめて読み上げた。特段の波乱もなく、会合は閉会に向かった。
席を立とうとした時、背後から声がかかった。
「ヴァイスベルクの嬢さん」
振り返ると、白髪交じりの壮年の男がゆったりとした足取りで近づいてきた。恰幅がよく、着衣は質素だが仕立てが良い。目元の皺が笑みに見えるが、その奥の眼光は鋭かった。
「儂はエルンスト・ヴェーバー。このギルドの長を務めております」
商人ギルド長。リーゼロッテは交易記録の中で何度もその名を目にしていた。両国の交易に三十年以上携わり、商人ギルドの実質的な最高権威を務める人物。直接会うのは初めてだった。
「お目にかかれて光栄です、ヴェーバーギルド長」
リーゼロッテは軽く頭を下げた。エルンストは手を振ってそれを制した。
「堅くならんでくだされ。少し話がしたくてな。お時間をいただけますかな」
ギルド会館の奥にある小部屋に通された。エルンストは椅子に深く腰を下ろし、手元の帳簿を開いた。
「先ほどの報告、見事でしたな。数字の扱いが正確で、無駄がない。アルデバランの若いのが良い人材を見つけたものだ」
「恐れ入ります」
「それでな」
エルンストは帳簿のページを一枚繰った。
「儂は三十年ほど両国の交易数字を見てきたのだが、グランハルト公爵領の数字には面白い特徴がありましてな」
リーゼロッテの背筋が僅かに伸びた。
「十年前、あの公爵領の交易収支は赤字でした。先代公爵が亡くなられた後、若い当主が継いで、しばらくは数字がひどかった。ところが、ある時期を境に激変した。赤字が黒字に転じ、取引先が増え、交渉条件が精密になった。数字を見れば、何かが変わったのは明白です」
エルンストは帳簿から目を上げ、リーゼロッテを見た。
「その時期と、嬢さんがあの公爵家に嫁いだ時期が一致しておるのですよ。何をなさったか、儂には分かりますぞ」
沈黙が落ちた。リーゼロッテは何も言わなかった。エルンストも急かさなかった。
「……それは、過分なお言葉です」
「過分ではありませんな。数字は嘘をつかん。あの公爵領の交易が十年間安定していたのは、誰かが手綱を握っていたからだ。その手綱が離れた今、どうなっておるか」
エルンストの声が僅かに低くなった。
「公爵家の新しい女主人が、交易先の商人に無礼を働いたそうでな。挨拶の席で、先方の商会主を平民呼ばわりしたと聞いております。先方が契約を打ち切ったのは、その直後だったそうです」
リーゼロッテの指が膝の上で僅かに動いた。それだけだった。
ナターシャ。あの人が商人に対してそういう振る舞いをするだろうことは、想像がつく。公爵家の社交の作法も、交易先との関係の築き方も、引き継ぎ資料には書いてある。けれど作法を文字で伝えることと、それを身につけることは別の話だ。
「ほう……それはまた、随分と勿体ないことをなさったものですな、あの公爵殿は」
エルンストはそう呟いて、帳簿を閉じた。
会合の帰り道、マルグリットが商会前で待っていた。ルーカスから「帰りに様子を見てやってくれ」と頼まれたらしい。
二人で港沿いの道を歩いた。夕暮れの風が潮の匂いを運んでくる。
「どうだった、ギルドの会合。ヴェーバーのじいさんに捕まったって聞いたけど」
「ええ。少しお話をしました」
「あの人、人を見る目だけは確かだからね。気に入られたんなら大したもんですよ」
マルグリットはしばらく黙って歩いた。それから、ふと声のトーンを変えた。
「ねえ、リーゼロッテさん。あたし、前から気になってたんだけど」
「何でしょう」
「ルーカスってさ、リーゼロッテさんのこと見る目が前と違うんだけど。あたしの気のせい?」
リーゼロッテは前を向いたまま歩き続けた。
「気のせいでしょう」
「そうかなあ。あたし、あの人と五年一緒に仕事してるけど、取引相手の話をする時と、リーゼロッテさんの話をする時、声のトーンが違うんだよね」
リーゼロッテの足は止まらなかった。マルグリットの言葉を、意識の端に留めておくだけにした。今はそれ以上考える余裕がなかった。エルンストの言葉が、まだ頭の中で響いていたから。
十年間の数字の激変。交易先の契約打ち切り。ナターシャの無礼。
わたくしの十年間は、数字として残っていた。そしてその数字が消えた後に何が起きているかも、数字で分かる。
商会の前に着くと、ルーカスが入口に立っていた。別件が終わって戻ったらしい。
「お疲れさまでした、リーゼロッテ殿。ヴェーバー殿とお話しされたと聞きました」
「ええ。公爵領の交易数字について、お話をいただきました」
ルーカスは一瞬、表情を動かした。何を言うべきか測るような、短い間。
「過去のことで、お辛いことがあれば――」
「アルデバラン商会主殿」
リーゼロッテは自分でも驚くほど静かな声で、遮った。ルーカスが口を閉じた。
「わたくしの十年間は……無駄ではなかったのでしょうか」
声に出してから、自分が何を言ったのか気づいた。仕事の報告でも、業務の相談でもない。純粋に、感情から出た問いだった。
ルーカスは少しの間、黙っていた。あの一拍の間。
「無駄であったはずがありません」
静かな声だった。断言だった。根拠を示す商人の口調ではなく、それ以外の何かが滲んだ声だった。
リーゼロッテは頷いた。それ以上は何も言えなかった。
ルーカスも何も付け加えなかった。二人は商会の入口をくぐり、それぞれの仕事に戻った。
夜、住居の窓から港を眺めた。
エルンストの言葉。数字の激変。ナターシャの無礼と、交易先の契約打ち切り。わたくしが十年かけて築いたものが、崩れていく様子が、国境の向こうから数字になって届いてくる。
それはもうわたくしの問題ではない。けれど、エルンストがあの数字を見て「何をなさったか分かる」と言った時、胸の奥で何かが軋んだ。
誰かに認められるということが、こんなにも胸に響くものだとは知らなかった。
十年間、認めてほしいと思ったことはなかった。仕事をした。成果を出した。それだけで十分だと思い込んでいた。けれどエルンストの言葉と、ルーカスの「無駄であったはずがありません」という声が、同じ日にわたくしの中に入ってきた。
マルグリットの言葉が、ふと蘇った。ルーカスの声のトーンが違う。気のせいだろう。気のせいだと思う。けれど、気のせいだと片付けてしまうのが、少しだけ惜しいと感じている自分がいた。
リーゼロッテは窓を閉じた。
ここでわたくしは必要とされている。仕事を通じて、この商会の役に立てている。それは確かだ。
それだけのはずなのに、今夜はその「それだけ」が、少しだけ物足りなく感じた。




