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十年間の「お飾り妻」、本日をもちまして退職いたします。  作者: 月雅


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第5話「仕事の先」

「あなたにとって、仕事とは何ですか」


その問いを投げかけたのは、交渉相手の老商人だった。


港の商館の一室。長机を挟んで、リーゼロッテとルーカスが片側に、南方の染料商を率いる老商人とその部下が反対側に座っていた。


この交渉は三日前から難航していた。南方の染料は商会の主力商品の一つだが、仕入れ先が供給量の削減を通告してきたのだ。ルーカスが交渉の席に着き、条件の見直しを持ちかけたが、先方は首を縦に振らなかった。


リーゼロッテはルーカスの随行として同席していた。商会の経営顧問として、交渉の場に慣れる目的だった。口を挟む予定はなかった。


けれど、交渉の二日目に先方が示した供給削減の理由を聞いた時、帳簿で見た数字が頭の中で繋がった。


「アルデバラン商会主殿、一つよろしいでしょうか」


ルーカスが軽く頷いた。リーゼロッテは先方の老商人に向き直った。


「供給量の削減は、染料そのものの不足ではなく、輸送路の問題ではないかと存じます。南方航路の運送業者が荷受けを制限しているのであれば、陸路を経由する代替案がございます」


老商人の目が細くなった。


「詳しいな。なぜそれを」


「商会の帳簿を拝見した際に、南方航路の運送費の変動と、染料の入荷量の推移に相関がありました。運送業者が荷受けを制限すれば、供給元は出荷量を絞らざるを得ません。けれど染料の生産量自体は減っていないのであれば、輸送路を変えることで供給量を維持できます」


沈黙があった。老商人は部下と目を見合わせ、それからリーゼロッテの方を見た。


「続けてくれ」


リーゼロッテは、陸路経由の具体案を示した。経由地の中継倉庫の利用、運送費の試算、納期への影響。帳簿から読み取った数字と、公爵領時代に陸路交易を組んだ経験が、頭の中で一つの提案に組み上がっていた。


老商人は腕を組んだまま、最後まで聞いた。そして、口元を緩めた。


「アルデバラン商会主。あんたのところに、えらい顧問が入ったな」


ルーカスは穏やかに微笑んだ。


「ええ、ありがたいことです」


「条件を見直そう。この顧問殿の提案を前提に、供給量の維持と輸送路の変更を併せて詰めたい」


交渉は、そこから動き始めた。


商館を出ると、午後の日差しが港を照らしていた。


リーゼロッテはルーカスと並んで商会への帰路を歩いた。交渉の書類を抱えた腕が、僅かに疲労を感じている。予定外の発言だった。顧問として同席しただけのはずが、結果として交渉の核心に踏み込んでいた。


また、頼まれていない仕事をした。けれど今回は、ルーカスの許可を得た上でのことだった。それが、公爵家にいた頃とは違う点だった。


「リーゼロッテ殿」


ルーカスが歩みを緩めた。港の倉庫街を抜ける道で、海風が吹いていた。


「あなたの仕事は素晴らしい。先方もそう認めてくれた」


「恐れ入ります」


「ですが」


ルーカスは一拍、間を置いた。肝心なことを言う前の、あの短い沈黙。


「私が嬉しいのは、仕事の成果だけではないのです。あなたと一緒に働けていること。それが嬉しい」


リーゼロッテの足が、半歩だけ止まった。


ルーカスは歩き続けていた。振り返りもせず、いつもの穏やかな声のまま、海風に言葉を流した。


一緒に働けていることが嬉しい。


仕事の成果への評価なら、理解できる。帳簿の分析も、交渉での提案も、数字で測れる仕事だ。有能な顧問を雇えた商人の満足として、筋が通る。


けれど「一緒に働けていること」は、仕事の成果とは別の話ではないのか。


いや。商人として「良い仕事相手を得た」という意味かもしれない。取引先との関係を大切にする人だ。商会の仲間を「一緒に働けて嬉しい」と表現しても、おかしくはない。


リーゼロッテは足を動かし、ルーカスに追いついた。


「アルデバラン商会主殿こそ、先方の信頼を最初に築いてくださったからこそ、わたくしの提案が受け入れられたのです」


「それは買い被りですよ。先方が顔を向けたのは、あなたの方でした」


ルーカスは微笑んだ。いつもの商人の笑みだった。少なくとも、そう見えた。


商会に戻ると、マルグリットが待ち構えていた。


「どうだった? 交渉まとまった?」


「ええ。供給量の維持と輸送路の変更で合意の方向です」


「やった! リーゼロッテさんが何かやったんでしょ、ルーカスの顔見れば分かるよ」


マルグリットがルーカスの方を見て、にやりと笑った。ルーカスは肩をすくめた。


「リーゼロッテ殿の提案が決め手になりました。帳簿の数字から輸送路の問題を見抜いたのは見事でした」


「いやいや、帳簿半日で読む人ですからね。あたし、もう驚かないですよ」


マルグリットはリーゼロッテの肩を軽く叩いた。砕けた態度だったが、そこに込められた敬意は本物だった。


リーゼロッテは事務室に戻り、交渉の記録をまとめ始めた。合意内容の要点、今後の手配事項、先方との連絡スケジュール。手が自然に動く。交渉をまとめた後の事務処理は、公爵領時代に何百回と繰り返した手順だった。


ただ、一つだけ違うことがあった。


公爵領では、交渉をまとめても、誰も「嬉しい」とは言わなかった。報告を受けたヴォルフガングは「ああ、そうか」と言うだけだった。感謝もなければ、評価もない。ただ次の案件が積まれるだけだった。


一緒に働けていることが嬉しい。


あの言葉が、まだ耳の中に残っている。


夜、住居に戻ってから、リーゼロッテは机に向かわなかった。


珍しいことだった。着任してから毎晩、翌日の段取りを組むか、帳簿の復習をするかしていた。けれど今夜は、窓辺の椅子に座って港の灯りを眺めていた。


あの言葉は、何だったのだろう。


仕事の話ではない気がする。けれど、そんなはずはない。わたくしとアルデバラン商会主殿は、雇用契約で繋がった商人と顧問だ。五年前からの取引相手であり、今は雇用主と被雇用者。それ以上でも、それ以下でもない。


そのはずなのに、あの一言が胸の奥に留まっている。仕事の成果を褒められた時とは、別の場所に届いた気がする。


嬉しい、と思った。仕事の話ではないのに。


リーゼロッテは自分の感情を精査しようとして、失敗した。帳簿なら数字を追えば答えが出る。けれどこの感覚には、数字がない。追うべき行も、並べるべき列もない。


窓の外で、港の灯台が規則正しく光を回していた。


考えるのをやめよう。明日も仕事がある。交渉の合意内容を正式な書面にまとめ、輸送路変更の手配を始めなければならない。やるべきことは山ほどある。やるべきことをやっていれば、この奇妙な感覚もそのうち消えるだろう。


リーゼロッテは椅子から立ち上がり、寝台に向かった。


消えるだろう、と思った。思ったのに、灯りを消した暗闇の中で、「一緒に働けていることが嬉しい」という声だけが、波の音に混じって繰り返し聞こえた。

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