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十年間の「お飾り妻」、本日をもちまして退職いたします。  作者: 月雅


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第4話「崩壊の噂」

リーゼロッテは朝食前に商会の書庫に入った。


書庫には商会の過去十年分の交易記録が保管されている。仲介手数料の再交渉案を作成するために、取引先ごとの契約条件の推移を確認する必要があった。棚から綴じ込みの台帳を抜き出し、机に広げる。


手が、止まった。


台帳の中に、見覚えのある取引先の名前があった。グランハルト公爵領。リーゼロッテ自身が、公爵の名代として交渉を担当していた交易案件の記録だ。


アルデバラン商会側の記録として残されたその数字を見ると、公爵領との取引がどう見えていたかが分かった。取引量の推移、納期の正確さ、交渉時の条件調整の経緯。すべてが整然と記録されている。


外から見ると、こう見えていたのか。


公爵領の中にいる間は、自分の仕事の全体像を客観的に見る余裕がなかった。目の前の案件を処理し、次の案件に移る。その繰り返しだった。けれど商会側の記録には、リーゼロッテが築いた交易網の輪郭がはっきりと浮かんでいた。取引先の選定、条件交渉の精度、納期管理の徹底。どの数字にも、十年間の実務の痕跡があった。


リーゼロッテは台帳を閉じ、本来の目的である仲介手数料の資料に戻った。過去を眺めている暇はない。今の仕事がある。


昼過ぎ、マルグリットが事務室に顔を出した。


「リーゼロッテさん、ちょっと聞きました?」


いつもより声のトーンが低い。マルグリットは椅子を引き寄せて座り、声を落とした。


「商人ギルドの寄り合いで噂になってたんですけど、グランハルト公爵領の使用人が辞め始めてるらしいですよ」


リーゼロッテの手が、書き付けの上で一瞬だけ止まった。


「噂、ですか」


「ええ。国境を行き来してる商人が言ってたって。公爵家の料理番が二人辞めて、厩番も一人いなくなったとか。まだ噂の段階ですけど」


料理番と厩番。どちらも、リーゼロッテが十年間かけて人選し、配置を管理していた職だった。引き継ぎ資料には、使用人の配置表と業務分担を詳細に記載してある。給与の支払い時期、休暇の管理方法、人事上の注意点。読めば分かるように書いた。


「まあ、他所の領地の話ですし、リーゼロッテさんには関係ないですよね」


マルグリットは気遣うように言い添えた。リーゼロッテは小さく頷いた。


「ええ。わたくしはすべてを引き継ぎました。それでも上手くいかないのであれば、それはわたくしの問題ではありません」


声は平坦だった。そう言えることを、確かめるように口にした。


マルグリットが出ていった後、リーゼロッテは仲介手数料の資料に視線を戻した。数字を追う。計算する。書き付けに改善案を記す。手を動かし続ける。


手を動かしている間は、考えずに済む。


夕方、書庫の資料を戻しに行った帰り、廊下の窓から港が見えた。


夕日が海を染めている。公爵領からは見えなかった景色だ。あの屋敷の窓から見えたのは、領地の農地と、遠くに続く街道だけだった。


あの街道を、辞めた使用人たちが歩いていくのだろうか。


思い出が、不意に蘇った。


結婚して三年目の冬の夜だった。四半期の財務報告を仕上げ、翌日の交易交渉の準備を終え、使用人の冬季給与の手配を済ませた後で、執務室を出た。廊下ですれ違ったヴォルフガングに、その日の報告をしようとした。


「ああ、リーゼロッテか。何か用か」


「本日の財務報告について――」


「後にしてくれ。今は忙しい」


忙しい。何に忙しかったのか、リーゼロッテは知らない。知ろうともしなくなったのは、いつからだっただろう。


その数日後の夜会で、ヴォルフガングは他の貴族と談笑しながら、こう言った。


「うちの妻は、まあ、いてもいなくても同じようなものだよ」


笑い声が上がった。リーゼロッテは隣室でそれを聞いていた。翌朝には、いつも通り帳簿を開いた。


いてもいなくても同じ。


その言葉に、反論する気力は当時からなかった。反論しても、何も変わらないことを知っていたから。ただ、翌日も翌々日も、リーゼロッテは公爵家のすべてを回し続けた。いてもいなくても同じだと言われた人間が、実はすべてを支えていた。それを証明する必要はなかった。数字が証明していた。けれど数字を見る人間がいなかった。


窓の外で、港の鐘が鳴った。リーゼロッテは廊下を歩き、事務室に戻った。


この人はわたくしの能力を商会に取り込みたいだけかもしれない。


ルーカスの「弱点が消える」という言葉が、再び頭をよぎった。先日の帳簿精査への感謝も、着任時の出迎えの手際も、すべてが「有能な顧問を確保できた商人の満足」として説明できる。


けれど、それでも構わない。利用されるなら、対等な契約の中で利用される方がいい。条件は明文化されている。給与も業務範囲も、紙の上に書いてある。曖昧な全権委任の中で消耗するのとは違う。


事務室で書き付けの続きを仕上げていると、扉を叩く音がした。


「リーゼロッテ殿、少しよろしいですか」


ルーカスだった。手に湯気の立つ杯を二つ持っている。一つをリーゼロッテの机に置き、自分は向かいの椅子に腰を下ろした。


「今日は遅くまでお疲れさまです」


「仲介手数料の再交渉案がまとまりそうですので、もう少しで終わります」


「そうですか」


ルーカスは杯を口元に運んだ。しばらく黙っていた。それから、穏やかな声で言った。


「過去の話は、いつでも聞きます。ただし、無理にとは申しません」


リーゼロッテはルーカスの顔を見た。柔和な表情の中に、何かを測るような注意深さがあった。あるいは、リーゼロッテの表情の変化に気づいたのかもしれない。マルグリットから公爵領の噂を聞いた後、自分がどんな顔をしていたか、リーゼロッテ自身には分からなかった。


何も答えなかった。


ルーカスもそれ以上は言わなかった。杯の中身を静かに飲み、席を立った。


「おやすみなさい、リーゼロッテ殿」


「おやすみなさいませ、アルデバラン商会主殿」


扉が閉まった。


リーゼロッテは杯に手を伸ばした。温かかった。誰かが淹れてくれた飲み物を、公爵家で受け取った記憶がなかった。使用人が置いていくことはあったが、誰かがわざわざ手ずから持ってきたことは。


この人の優しさが、善意なのか、能力を引き出すための投資なのか、今のわたくしには判断がつかない。けれど、温かいものは温かかった。それだけは事実だった。


杯を置き、書き付けの最後の行を書き終えた。


振り返りません。あの場所で何が起きても、わたくしにできることは、もう何もない。


公爵家の使用人が辞めている。引き継ぎ資料は残した。残したのに、崩れ始めている。それはわたくしの責任ではない。わたくしは十年分のすべてを紙に残した。


残したのに。


リーゼロッテは机の灯りを消し、住居に戻った。港町の夜は、公爵領の夜より賑やかだった。酒場の声と波の音が遠くから聞こえる。その騒がしさが、今は少しだけありがたかった。


静かだと、考えてしまうから。

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