第3話「帳簿の声」
「この数字、三期連続で同じ傾向ですね」
リーゼロッテは帳簿のページを繰りながら、独り言のように呟いた。商会の事務室に朝の光が差し込んでいる。着任して数日、ルーカスから渡された業務は「商会の経営状況の把握と改善提案」だった。その範囲で、リーゼロッテは帳簿の精査から始めた。
マルグリットが初日に見せてくれた運送費の二重計上は、氷山の一角だった。
帳簿を一冊ずつ開いていく。仕入台帳、売掛台帳、経費台帳、取引先別の収支記録。商会の規模に見合った膨大な量だったが、数字には流れがある。流れが見えれば、どこで水が滞っているかは自ずと分かる。
南方航路の運送費の問題は、先日マルグリットに指摘した。今日見ているのは、もう一つ奥の構造だった。
東方交易の仲介手数料。三期分の数字を並べると、取引量は微増しているのに利益率が下がっている。仲介業者が手数料率を段階的に引き上げていた。契約書を確認すれば、おそらく更新のたびに条件が悪化している。
さらに、倉庫の維持費。港湾区画の倉庫を三棟借りているが、稼働率を計算すると、二棟で十分に回せる。三棟目は繁忙期にも半分しか埋まっていない。
リーゼロッテは机の上に改善案の要点を書き出した。仲介手数料の再交渉、倉庫の統廃合、南方航路の運送業者の変更。三件の改善だけで、年間の経費を相当額削減できる。
ここまでやって、ふと手が止まった。
依頼されたのは「経営状況の把握と改善提案」だった。帳簿の問題点を指摘するところまでは範囲内だろう。しかし具体的な改善案の策定、取引先との再交渉の下準備、倉庫の稼働率分析まで――これは、頼まれていない。
指が勝手に動いていた。数字を見れば構造を読み、構造を読めば改善案を考え、改善案を考えれば実行計画まで組んでしまう。公爵領で十年間やってきたことと、何も変わっていない。
役に立てるなら、それでいい。
その考えが浮かんだ瞬間、リーゼロッテは小さく息を吐いた。同じだ。公爵家にいた頃と、同じ言葉が出てくる。
「ちょっと、リーゼロッテさん」
マルグリットが事務室の扉を開けて入ってきた。リーゼロッテの机の上に広げられた帳簿と書き付けの量を見て、足を止めた。
「いやいやいや、これ全部今日? うちの帳簿、全部読んだんですか?」
「全部ではありません。直近三期分だけです」
「それを半日で!?」
マルグリットは机の上の書き付けを覗き込み、目を丸くした。改善案の要点が箇条書きで並んでいる。仲介手数料、倉庫統廃合、運送業者の切り替え。それぞれに具体的な数字と根拠が添えてある。
「待って、この倉庫の稼働率、あたしも気になってたんですよ。でも計算する暇がなくて後回しにしてて――もう出てるの?」
「数字は帳簿に全て載っています。並べ替えただけです」
マルグリットはしばらく書き付けを読み、それから顔を上げた。
「ルーカスに報告してきます。ちょっと待ってて」
足音が廊下を駆けていった。リーゼロッテは残りの帳簿に目を戻した。
マルグリットの声が、廊下の向こうから聞こえた。
「ルーカス、あの人、うちの帳簿を半日で全部読みましたよ! しかも改善案つきで!」
ルーカスの応接室の扉は開いていた。リーゼロッテの事務室からは直接見えないが、声は届いた。
「それは助かります」
ルーカスの穏やかな声。そして、少し間を置いて。
「……これで、商会の弱点が一つ消える」
静かな呟きだった。マルグリットに向けた言葉なのか、独り言なのか、判然としなかった。
リーゼロッテの手が、帳簿の上で止まった。
弱点が消える。商会にとっての弱点。つまり、わたくしの仕事は商会の弱点を埋めるためのもの。それは当然のことだ。雇用契約とはそういうものだ。対等な契約の中で、自分の能力を提供し、対価を得る。
けれど、その言い方は。
商人として当然の評価なのか、それとも――最初からこの能力を見越して、わたくしを商会に迎えたのか。
考えても答えは出なかった。リーゼロッテは帳簿に視線を戻した。
昼を過ぎて、ルーカスが事務室を訪れた。
「改善案を拝見しました。見事な分析です」
ルーカスは書き付けを手に、リーゼロッテの向かいの椅子に腰を下ろした。
「仲介手数料の再交渉は、私も検討していました。ですが倉庫の統廃合は盲点でした。稼働率をここまで正確に出していただけるとは」
「帳簿に数字がありましたので、計算しただけです」
「ここまでお願いしたわけではないのですが」
ルーカスは一拍、間を置いた。
「ありがとうございます」
感謝の言葉だった。同時に、リーゼロッテが依頼の範囲を超えて働いたことへの、静かな認識でもあった。ルーカスの目が、僅かにリーゼロッテの表情を窺うように動いた。何かを言いかけて、やめたように見えた。
「改善案の実行に移してよろしいでしょうか。仲介業者との再交渉は、わたくしが素案を作成いたします」
「お願いします。ただ、今日はもう遅い時間です。明日以降で構いません」
「まだ日は高いですが」
「リーゼロッテ殿は着任してまだ数日です。帳簿の精査だけでも十分な成果です」
その言い方は、労いなのか、制止なのか。リーゼロッテには判断がつかなかった。公爵領では、誰もリーゼロッテの仕事量に口を出さなかった。誰も気にしなかった。求められていない仕事まで引き受けても、感謝もなければ制止もない。ただ、回り続ける歯車の音だけがあった。
「承知いたしました。では、明日に」
リーゼロッテは帳簿を閉じた。ルーカスが応接室に戻る背中を見送りながら、机の上の書き付けに目を落とした。
頼まれていない仕事を、また引き受けた。それを自覚している。自覚した上で、やめられなかった。数字が見えれば手を動かし、問題が見つかれば解決策を考える。そうしなければ、ここにいる意味がないような気がした。
ルーカスの「弱点が消える」という言葉が、耳の奥に残っていた。あれが善意なのか計算なのか、今のわたくしには分からない。分からないが、仮に計算だったとしても、契約の範囲内だ。利用されるなら、対等な条件の中で利用される方がいい。
それは公爵家にいた頃とは違う。少なくとも、そのはずだ。
夜、住居の机に向かいながら、リーゼロッテは窓の外の港を見た。
数字は正直だった。帳簿の中の数字は、誰が読んでも同じ答えを返す。リーゼロッテの手腕は、この商会でも通用した。それは確かな事実だった。
けれど、なぜだろう。通用したと分かった瞬間、次にやるべきことを探してしまう。立ち止まることができない。立ち止まれば、考えなくていいことを考えてしまうから。
――あの公爵家の帳簿は、今、誰が見ているのだろう。
引き継ぎ資料は残した。読みさえすれば回せるように書いた。けれどあの家に、帳簿を読める人間がいただろうか。南方の木材商との契約更新は、今週が期限だった。条件は資料に全て書いた。書いたが、あの資料を開く人間がいなければ。
考えても仕方がない。わたくしはすべてを残した。あとは、残された側の問題だ。
リーゼロッテは窓を閉め、明日の業務の段取りを頭の中で組み始めた。
ここでも通用する。それだけが、今のわたくしを支えている。




