第1話「退職届」
十年間、お世話になりました。
その言葉を、リーゼロッテは声に出さなかった。
出す必要がなかった。十年分の実務記録、領地経営の手順書、交易先との契約一覧、使用人の配置表、四半期ごとの財務報告の雛形。すべてを革装の冊子にまとめ、公爵の執務机の上に置いた。
その隣に、教会への届出書類を添える。
婚姻契約書の写し。重大な契約違反の該当条項に付箋を挟み、庶子の跡取り指名に関する証拠書類を添付した離縁届。財産分与と慰謝料の算出書。すべての数字は、リーゼロッテ自身が十年間管理してきた帳簿から導き出したものだから、一銭の誤差もない。
持参金の返還額。慰謝料の請求額。合算すれば、数年は自活できる。
公爵家の財務は健全だった。少なくとも、今この瞬間までは。
リーゼロッテは革装の冊子の表紙を指先で撫でた。引き継ぎ資料。十年間の全てがここに詰まっている。読みさえすれば、誰であっても最低限の運営は可能なように書いた。
読みさえすれば。
執務室の扉が開く音がした。
「リーゼロッテ、何の用だ。私はこれから――」
ヴォルフガング・フォン・グランハルトは、妻が執務室にいることに一瞬だけ眉を上げた。それだけだった。十年間、この人はいつもそうだった。リーゼロッテがどこにいようと、何をしていようと、その程度の関心しか向けなかった。
「お時間をいただきます、旦那様」
リーゼロッテは背筋を伸ばしたまま、静かに口を開いた。
「本日をもちまして、わたくしとの婚姻契約を即時解消いたします」
ヴォルフガングの足が止まった。
「何を言っている」
「婚姻契約書第十七条、重大な契約違反による即時解消条項でございます。正妻の同意なき庶子の跡取り指名は、契約上の重大な違反に該当いたします。教会への届出書類は本日中に発送いたします。事後届出で成立する案件ですので、旦那様のご署名は不要です」
ヴォルフガングは数秒、黙った。それから机の上に目を落とし、革装の冊子と書類の束を見た。理解が追いついていない顔だった。
「待て。何の話だ。庶子の――」
「ナターシャ殿のお子を跡取りに指名なさったと伺っております。わたくしの同意はございませんでした」
「あれは、まだ正式には――」
「家令に指示をお出しになった時点で、手続きは開始されております。わたくしが十年間管理してきた文書の写しが、こちらに」
リーゼロッテは一枚の書面を示した。ヴォルフガングの署名が入った、家令宛の指示書の写し。
沈黙が落ちた。
ヴォルフガングの目が、ようやく机の上の書類の量を認識したようだった。離縁届。財産分与の算出書。引き継ぎ資料。それらが意味するものに、少しずつ思い至る顔をしていた。
「――お前、本気で言っているのか」
「本気でなければ、この量の書類は作りません」
感情は込めなかった。込める必要がなかった。これは退職届の提出であって、喧嘩ではない。十年間勤めた職場を、正規の手続きで辞めるだけのことだ。
「旦那様。机の上の革装の冊子が引き継ぎ資料でございます。領地経営に必要な全事項をまとめてあります。どうかお目通しください」
廊下から足音が聞こえた。軽く、遠慮のない足音。
「ヴォルフ様、どうかしたの? 何か騒がしいけれ――」
ナターシャ・ロルフが扉の隙間から顔を覗かせた。リーゼロッテの姿を認めると、一瞬だけ目を細め、それからすぐに笑みを作った。
「あら、前の奥様。まだいらしたの?」
前の奥様。まだ正式には離縁が成立する前だったが、この人にとってはとうに自分が「奥様」なのだろう。
「ナターシャ殿」
リーゼロッテは視線を向けた。ナターシャが僅かに怯んだのは、おそらく無意識だった。十年間、公爵夫人として貴族社会の上位に立ち続けた人間の視線は、それだけで重さを持つ。
「ご安心ください。本日をもちまして、わたくしはこの屋敷を出ます。旦那様にはすべてお伝えいたしました」
「えっ……出るって、どういう――」
「離縁でございます」
一言で、ナターシャの口が閉じた。
リーゼロッテはそれ以上ナターシャを見なかった。見る必要がなかった。この人がこの屋敷で何をするのかは、もうリーゼロッテの問題ではない。引き継ぎ資料は残した。あとは、読むか読まないかだけの話だ。
「旦那様」
リーゼロッテはヴォルフガングに向き直った。
「十年間、お世話になりました」
声に出した。結局、この一言だけは声にした。
ヴォルフガングは何かを言おうとして、言葉を見つけられずにいた。その沈黙を、リーゼロッテは十年間で何百回と見てきた。この人はいつも、肝心な時に黙る。
「引き継ぎ資料の第一章に、今月中に処理すべき案件の一覧がございます。特に、南方の木材商との契約更新は今週中に返答が必要です。条件は資料に記載してあります」
最後まで仕事の話だった。それ以外に、この人と交わす言葉を持っていなかった。
馬車は国境に向かって揺れていた。
護衛はいない。公爵夫人としての護衛を手配する権限は、もう自分にはない。けれど領地を出るまでの街道は、十年間リーゼロッテ自身が治安維持の予算を管理してきた道だ。少なくとも国境までは安全だと、自分の仕事に対する信頼があった。
窓の外を、見慣れた領地の風景が流れていく。
リーゼロッテは左手を見た。指輪を外した薬指が、妙に軽い。十年間はめ続けていた重さが消えて、そこだけ肌の色が白かった。
旅装の鞄から、一通の封書を取り出した。
未開封の手紙。差出人はルーカス・アルデバラン。レーヴェンハルト王国最大の商会を率いる商会主であり、五年前からグランハルト公爵領との交易交渉の窓口だった人物。
いつも誠実な交渉相手だった。公爵の名代として臨むリーゼロッテを、肩書ではなく実務の手腕で評価してくれた数少ない人間だった。
三ヶ月前、離縁の準備を始めた頃に届いた手紙。開封しなかったのは、読めば迷いが生じると思ったからだ。
今なら読める。
封を切った。
丁寧な筆跡だった。商用の書式ではなく、私信の体裁で書かれている。
内容は渡航の手配についてだった。レーヴェンハルト王国の港町に到着した際の宿泊先と、商人ギルドへの届出に関する実務的な案内。そして最後に一文。
「あなたの手腕を、正当に評価できる場所があります」
それだけだった。感情的な言葉は一語もない。リーゼロッテが最も信頼する形式――事実と実務だけで構成された、過不足のない文面。
手紙を鞄にしまい、窓の外に目を戻した。
実家には帰れない。ヴァイスベルク伯爵家は、二十二歳のリーゼロッテを政略の駒として公爵家に差し出した人たちだ。十年間、一度の便りもなかった。あの人たちにとって、リーゼロッテは「嫁に出した娘」であって、「帰ってくる娘」ではない。
帰る場所はない。
けれど、行く場所はある。
馬車が国境の検問所に向かって速度を落とした。窓から差し込む夕日が、指輪のない左手を照らした。
空になった指に、風が冷たかった。
けれどそれは、自由の温度なのかもしれない。
リーゼロッテは手紙の主の名前を、もう一度だけ心の中で確かめた。ルーカス・アルデバラン。五年来の取引相手。それ以上でも、それ以下でもない。
馬車が国境を越える。
十年間の「お飾り妻」は、本日をもって退職した。




