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夢紡ぎの街 ―感情と日常の異世界スローライフ―  作者: たむ


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第2章 第153話:白の前で覚えていく手つき

やさしさが本当に身についた時、それは言葉より先に手に出ることがある。

椅子を少しだけずらす。

誰かが座りやすいように間をあける。

水差しを取りやすい向きへ戻しておく。

そんな何気ない所作の中に、その人がここで何を受け取ってきたかが静かに現れる。

二つの白の前では、この日、そうした“言わなくてもわかる手つき”が、少しずつ増えていく。

それは大きな出来事ではない。

けれど、暮らしにいちばん深く残る変化は、案外そういうところに現れるのかもしれない。

朝のここは、風がよく通っていた。


強くはない。

けれど、二つの白の花弁の端を軽く揺らし、石の縁と木の腰掛けのあいだをすっと抜けていく。

先に咲いた白は落ち着いていて、後から咲いた白もその隣で自然に風を受けている。

その前にある二つの座る場所も、もう“あとから足されたもの”というより、この場所の呼吸の一部になって見えた。


リオナは小さな水差しを手に、二つの白へ順に水をやる。

水が土へ落ちる。

葉が少し震える。

その時、ふと木の腰掛けの向きが昨日よりほんの少し白の方へ整っていることに気づいた。


「……あれ」

「……なに?」

リナライが聞く。


リオナは腰掛けを見る。


「昨日、こんな向きだったっけ」

リナライも見て、小さく首をかしげる。

「……もうすこし、よこだった」

「だよね」

「……だれか、なおした?」

「たぶん」

リオナは少し笑う。

「誰かが座りやすいように、かな」

シオンもまた、二つの白と、その前の居場所たちを見ていた。


「……ここ」

ぽつりと言う。

「うん」

「……ちがう」

「うん。ちょっとだけ違うね」

少し間があいて、

「……いい」

リナライが嬉しそうに笑う。

「……うん。いい、ちがう」

リオナは静かに頷いた。

「今日は、そういう小さい違いを見る日かもね」


午前の早い時間、最初にやって来たのはリツカだった。


門の前で二つの白を見て、次に木の腰掛けを見る。

そこで彼女も気づいたらしい。

少しだけ目を丸くする。


「……あ、向き、変わってる」

「やっぱりそう見える?」

リオナが聞くと、彼女は頷いた。

「うん」

「前より座ると白が見やすそう」

その言い方が、いかにも最近この場所で過ごすことに慣れてきた人の見え方だった。


リツカは木の腰掛けへ座ろうとして、ふと止まる。

それから腰掛けの端を片手で軽く持ち、ほんの少しだけ位置を直した。

大きく動かすのではない。

座った時に膝が白の方を向きすぎず、でも二つの白が見やすいところへ、ほんのわずか。


その手つきがあまりに自然で、リオナは思わず見入ってしまう。


「……いまの、うまいな」

そう言うと、リツカは少し照れたように笑う。

「なんか」

「うん?」

「ここ、ちょっとだけ直すと、すぐよくなるから」

その言葉は、とても小さい。

でも、この場所をもう“ただ来るところ”ではなく、“少し整えてもいいところ”として感じ始めている証だった。


リナライがぽつりと言う。


「……リツカ、ここ、しってる」

「うん」

リオナが答える。

「だいぶ知ってきたんだろうね」

シオンはその手つきをじっと見ていた。

灯りがやわらかく揺れる。


「……なおす」

皆が顔を上げる。

「いま、“なおす”って?」

リナライが弾んだ声で聞く。

シオンの灯りが明滅する。

「……なおす」

もう一度、たしかにそう言った。


リツカは少し驚いてから、やわらかく笑った。

「うん」

「ちょっとだけ」

「なおした」

その“ちょっとだけ”も、今日のここにはよく似合った。


少し遅れて、アサヒがやって来た。


昨日初めてここへ来て、座ったら帰りたくなくなる感じがすると言った、あの旅の途中の男だ。

今日は昨日より門の前で止まる時間が短い。

でも、慣れた顔をしているわけではない。

ただ、“ここへ来てもいい”を一度知った人の足取りになっていた。


「……おはようございます」

「おはよう」

リオナが返す。

アサヒは木の腰掛けにリツカが座っているのを見て、石の縁に向かいかける。

けれどその前に、リツカがほんの少しだけ腰掛けの端へ寄り、もう片方の空きを見た。


「少しなら」

その言い方は、ごく自然だった。

アサヒは一瞬だけ驚いたが、昨日よりも素直に頷く。

「……じゃあ、少し」

二人で木の腰掛けに座る。

少し狭い。

でも、無理ではない距離。

しかも今日は、リツカが自分の荷物代わりに膝へ置いていた布袋まで足元へ下ろし、座る幅を少し広げていた。


それは小さなことだった。

けれど、誰かのために自分の置き方を少し変える、その手つきははっきりやさしかった。


アサヒはそれに気づいたらしく、座ったあとで小さく言う。


「……ありがとうございます」

「ううん」

リツカは二つの白を見たまま答える。

「今日は、詰めても大丈夫そうだから」

その言い方も、相手を気まずくさせないちょうどよさだった。


リオナはふと思う。

前は、“どうぞ”という言葉がやさしさだった。

今はそれが、腰のずらし方や、袋の置き方や、椅子の向きの直し方になり始めているのだ。


サラがやって来たのは、その少しあとだった。

木の腰掛けに二人、石の縁は空いている。

彼女は門の前でその景色を見て、何も言わずに石の縁へ座る。

そして座る前に、縁の端に乗っていた小さな乾いた葉を指先で払った。


それもまた、小さな手つきだった。


誰かが次に座る時、邪魔にならないように。

あるいは自分が座りやすいように。

どちらでもいい。

けれど、そこには“ここを少し整える”という気持ちがある。


「……サラも」

リナライがぽつりと言う。

「うん」

リオナが笑う。

「今のもそうだね」

サラは少し照れて言った。

「気になったので」

「うん」

「それでいいと思う」

サラは二つの白を見る。

「ここ、ちょっと直すだけで、すぐいい感じになるから」

その言い方が、さっきのリツカと不思議なくらいよく似ていて、リオナは胸の奥があたたかくなる。


シオンは、木の腰掛けに座る二人、石の縁に座るサラ、その前の二つの白を見ていた。

灯りが穏やかに揺れる。


「……なおす」

ぽつりと。

「……すわる」

少し間があいて、

「……やさしい」

アサヒが少し驚いたように笑う。

「それ、いまのことですか」

リツカがやわらかく笑う。

「たぶん」

「今日はそういう日みたい」


午前の終わり頃、ユアンがやって来た時には、木の腰掛けにアサヒとリツカ、石の縁にサラという形ができていた。

彼は柵のところまで来て、しばらく二つの白を見ていたが、やがて何も言わずに門の脇に立てかけてあった小さな水差しの向きを変えた。


注ぎ口が白の方へ向いていたのを、取りやすいように少し外向きへ。

次に来た人が、そのまま手を伸ばせるように。


あまりに自然な動きで、一瞬誰も気づかなかった。

でも、リオナは見ていた。


「……いまの、いいな」

そう言うと、ユアンは少し照れたように肩をすくめる。

「なんとなく」

「うん」

「水、取りにくい向きだったから」

リツカが頷く。

「ほんとだ」

「気づかなかった」

ユアンは白を見る。

「前、自分が取りにくかったので」

その一言に、リオナは静かに頷いた。

困ったことを覚えていて、次には少し変えておく。

それもまた、受け取ったやさしさの返し方だった。


「……ユアンも、ここ、しってる」

リナライが言う。

「うん」

「もうだいぶね」

シオンはその手つきも見ていた。

灯りがやわらかく揺れる。


「……みず」

ぽつりと。

「……なおす」

皆が少し笑う。

ユアンも、目を細めた。

「うん」

「そうです」

「ちょっとだけ」


昼前、ミレナが通りかかった時には、その景色を見てすぐに何かを感じ取ったらしい。


「今日は、みなさん、手がやさしいですね」

「手?」

リオナが聞くと、彼女は頷く。

「ええ」

「座る前に少し直したり、隣のために寄ったり、水差しの向きを変えたり」

二つの白を見る。

「言葉じゃないところで、ここを整えてる感じ」

その見え方は、とても正確だった。


アサヒが少し感心したように言う。

「言われてみれば」

「ここ、しゃべり方だけじゃないんですね」

「うん」

リツカが答える。

「最近は、たぶんそう」

サラも頷く。

「ここで覚えるの、言葉だけじゃないのかも」

その言葉に、リオナは静かに息をつく。

本当にそうだった。


ここで育っているのは、待ち方、返し方、守り方。

そして今は、それが手つきや習慣としても見え始めている。


午後、アサヒは帰る前に、木の腰掛けから立ち上がると、誰に言われるでもなく座面を軽く払った。

土ぼこりが少しついていたのだろう。

それから位置が少しずれていた腰掛けを、白が見やすい向きへ戻す。


その動きが、昨日の彼にはなかったことを、リオナはちゃんと覚えている。


「……いまのも、いいな」

リオナが言うと、アサヒは少し照れたように笑う。

「見てると、なんとなく」

「うん」

「次の人がそのまま座れた方が、いいかなって」

その言葉に、サラがやわらかく頷いた。

「うん」

「それ、いい」

アサヒは少しだけほっとしたように息をつく。

「ここ、そういう場所なんですね」

「たぶん」

リツカが笑う。

「少しずつ、そうなってる」


夕方、二つの白の前には今日も石の縁と木の腰掛けが並んでいる。

けれど、今日はそれだけではなかった。

誰かが少し寄った跡。

少し向きを直した跡。

少し払われた座面。

少し取りやすくなった水差し。

そういう小さな手つきの積み重ねが、この場所を昨日より少しだけやさしく見せていた。


リナライは二つの白の前にしゃがみ込み、ぽつりと言う。


「……ことばじゃなくても、わかるね」

「うん」

リオナが答える。

「今日はいろいろあったね」

「……なおしたり」

「よせたり」

「……はらったり」

「うん」

「……それも、やさしい」

リオナは静かに頷く。

「そうだね」

「たぶん、一回もらった人は、手も変わるんだろうね」

「……うん」

「それ、なんか、すごい」

「うん」

「すごいけど、ここらしい」


シオンは二つの白と、その前の小さな居場所たちを見る。

灯りが穏やかに明滅する。


「……なおす」

少し間があく。

「……よせる」

さらに、

「……やさしい」

そして最後に、

「……ここ」


夕方の風が、二つの白と、そのあいだと、その前に残る今日の小さな手つきを撫でていく。

その光景を見ながら、リオナは胸の中でそっと思った。

ここで育ったやさしさは、もう言葉に頼らなくても伝わり始めている。

椅子の向きひとつ、袋の置き場所ひとつ、水差しの向きひとつ。

そういう暮らしの小さな所作の中にまで、この場所のやわらかさは静かに染み込んでいるのだと。

今回は、白の前で育ったやさしさが、今度は“手つき”や“習慣”として見え始める回でした。

リツカが腰掛けを少し直したこと、サラが縁の葉を払ったこと、ユアンが水差しを取りやすい向きへ戻したこと、アサヒが帰り際に腰掛けを整えたこと。

どれも本当に小さな動きですが、そのどれもに「次の誰かが少し楽であるように」という気持ちが含まれていました。


また、ミレナの「今日は、みなさん、手がやさしいですね」という見え方も印象的でした。

やさしさが人の中へ入ると、まず言葉が変わり、次に待ち方が変わり、やがて手の動きまで変わっていく。

その流れが、今日はとてもよく見えたように思います。


そしてシオンは、「なおす」「よせる」「やさしい」と、言葉ではない配慮の形にも触れ始めました。

次は、この“手つきのやさしさ”が、また別の習慣や、小さな決まりごとのようなものへ育っていくのかもしれません。

二つの白の前の時間は、静かなまま、でも確かに暮らしの深いところへ根を張りはじめています。

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