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夢紡ぎの街 ―感情と日常の異世界スローライフ―  作者: たむ


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第2章 第144話:白の前で、言葉を急がない

やさしさは、席をあけることだけではない。

誰かが言葉を探している時に、先回りして埋めないこと。

話しにくそうにしている沈黙を、無理にほどこうとしないこと。

そうした“待ち方”にもまた、静かなやさしさがある。

二つの白の前に、座る場所が増え、人が少し一緒にいられるようになった今、この場所はさらにもうひとつの形を覚え始めていた。

それは、答えを急がず、言葉を急がず、ただその人の中から出てくるまで待つという、目に見えにくい思いやりだった。

朝のここは、ひどく静かだった。


風はある。

けれど弱く、二つの白を揺らすというより、そのまわりの空気をそっと整えるように流れている。

先に咲いた白は落ち着き、後から咲いた白も昨日よりわずかに馴染んで見えた。

その前には石の縁と木の腰掛け。

どちらも、もう庭の一部として自然にそこにある。


リオナは小さな水差しを持ち、いつものように二つの白へ順に水をやる。

水音が小さく地面へ落ち、その音の消え方まで今日はやわらかい。


「……今日は、待つ日かな」

そう呟くと、リナライが二つの白の前の空気を見る。

「……まつ?」

「うん。なんとなく」

「……きのうの“どうぞ”みたい?」

「それに近いかも」

リオナは少し笑う。

「今日は、席より言葉の方をあける日かもしれない」

リナライは少し考えてから頷いた。

「……ことば、あける」

「うん。急がないで待つ感じ」

シオンもまた、二つの白と、その前の二つの座る場所を見ていた。


「……ここ」

「うん」

「……しずか」

「うん。今日は静かな待ち方の日かもね」

灯りが、呼吸みたいにゆっくり揺れた。


午前の少し早い時間、門の前に見慣れた足音が止まる。


サラだった。


彼女はここ数日で何度か戻ってきていたが、今日はこれまでと少し違った。

来ること自体にはもう大きなためらいがない。

けれど、二つの白を見たあとに立ち止まる時間が、いつもより長い。


「おはようございます」

「おはよう」

リオナが返す。

サラは会釈したあと、木の腰掛けにも石の縁にもすぐには向かわず、ただ門の内側に立っていた。


「……今日は、座らない?」

リオナがやわらかく聞くと、サラは少し困ったように笑った。

「座りたいです」

「うん」

「でも、今日はなんて言えばいいかわからなくて」

その一言に、リオナは静かに頷く。

「そっか」

それ以上は急がない。


やがてサラは木の腰掛けへ腰を下ろした。

でも、いつものように白を見て少し落ち着く、というより、胸の中に何か引っかかったまま座っている感じがした。


リツカが少し遅れてやって来る。

サラが座っているのを見て、いつものように反対側の石の縁へ向かいかけたが、その空気を感じ取ったのか、今日は少し離れたところに立ったままでいた。


「おはよう」

「……おはよう」

サラが返す。

それだけで、リツカはそれ以上何も言わなかった。

座ることも、聞くことも、急がない。

その立ち方が、すでにやさしかった。


サラはしばらく黙っていた。

二つの白を見る。

そのあいだを見る。

石の縁の方を見る。

また白を見る。


リオナも、リツカも、リナライも、誰も口をはさまない。

言葉が出るまで待っている、というより、言葉が出なくてもここにいていいと一緒に思っているみたいな静けさだった。


長い沈黙のあと、サラがようやく口を開く。


「……昨日、ノートに書いたって言ったじゃないですか」

「うん」

リオナが答える。

「書きながら、少しだけ見えた気がしてたんです」

「うん」

「続けたいことと、嫌じゃないことと、よくわからないこと」

サラは自分の手元を見た。

「でも、今日の朝になったら、また全部わからなくなって」

その声に、焦りはある。

けれど前みたいな息苦しさ一色ではない。

“言えないまま苦しい”ではなく、“言葉にしてみたいのにうまくまとまらない”という迷い方だった。


「……うん」

リオナは短く返す。

それだけだった。


サラはその短さに、少しだけ救われたような顔をした。

もしここで“でも昨日は見えたんでしょう?”とか“じゃあもう少しで決まりそうだね”とか言われていたら、たぶんまた言葉は縮こまっていた。


「今日、布屋の人に会うのが少し嫌で」

サラはぽつりと続ける。

「決まってないのに、昨日ちょっと考えられたって言ったら、期待されそうで」

リツカが、それを聞いて小さく頷く。

でも何も言わない。

「期待されると、また決めなきゃになる気がして」

そこでサラの言葉は途切れた。


二つの白は、ただ並んでそこにある。

違う形のまま。

急がず。

比べず。

ただ、同じ場所にいていいものとして。


シオンは、その空気をじっと見ていた。

サラ。

二つの白。

立ったまま待つリツカ。

何も急がないリオナ。

その全部を、灯りの揺れの中で静かに受け取っているようだった。


やがて、ぽつりと口を開く。


「……まつ」

皆がそちらを見る。

リナライがゆっくり頷く。

「……うん。まつ」

シオンはサラを見る。

「……いう」

少し間があく。

「……まだ」

その三つの言葉が、朝の空気の中にやわらかく置かれた。


サラは目を瞬かせたあと、少しだけ笑う。

泣きそうでもなく、困ったようでもなく、ただ“今の自分にちょうどいい言葉を見つけてもらった”顔だった。


「……うん」

「まだ、なんです」

その一言を、自分でちゃんと言えたことが、彼女の肩を少しだけ軽くしたように見えた。


リツカが、そこで初めて小さく言う。


「まだ、でいい日もあるよ」

サラは頷く。

「うん」

「今日は、たぶんそう」

「うん」


それ以上、励ましすぎる言葉は誰も足さなかった。

大丈夫だよ、とも、きっと決まるよ、とも言わない。

でも、その足りなさは冷たさではなく、ちゃんと待っているあたたかさだった。


午前の終わり頃、ユアンがやって来た時には、木の腰掛けに座るサラと、少し離れて立つリツカの姿があった。

彼は一瞬だけその場の静けさを見て取り、今日は石の縁にも座らず、門の内側の柵に軽く手を置いた。


「おはようございます」

「おはようございます」

サラもリツカも返す。


ユアンは二つの白を見ながら、しばらく何も言わなかった。

その沈黙は気まずくない。

むしろ、“ここでは今日はこういう日なんだな”と自然に合わせた静かさだった。


「……今日は、待つ日みたいですね」

やがてユアンが小さく言う。

リオナは頷く。

「うん」

「そういう日も、ある」

「……うん」

サラが答える。

それだけで十分だった。


シオンはユアンを見る。

次にサラを見る。

それから二つの白を見る。


「……どうぞ」

ぽつりと、そう言った。

皆が少し驚いたようにそちらを見る。

「いま、“どうぞ”って?」

リナライが聞く。

シオンの灯りが揺れる。

「……まつ」

少し間があく。

「……どうぞ」

リオナは静かに息をつく。

なるほど、と思った。


席をあける“どうぞ”。

でも今日はそれだけじゃない。

話すまで待つ“どうぞ”。

言葉を急がない“どうぞ”だ。


「うん」

リオナがやわらかく言う。

「今日は、言葉にも“どうぞ”してるんだね」

サラの目が、少しだけ潤む。

「……それ、いい」

小さく笑って、そう言った。


昼前、ミレナが立ち寄った時にも、今日はすぐに何かを話し始める空気ではないとわかったらしく、門のところで少し長く立ち止まり、二つの白を見るだけでいた。


「今日は、静かですね」

「うん」

リオナが答える。

「でも、悪い静かさじゃない」

「ええ」

ミレナも頷く。

「待ってる静かさですね」


その言葉がぴったりだった。


誰かが泣いているわけでもない。

誰かが決断したわけでもない。

ただ、言葉が追いつくまで、少しだけここに置いて待っている。

そういう静かさだった。


サラは、やがて昼前に立ち上がる時、二つの白を見てこう言った。


「今日は、まだ決められないまま行きます」

「うん」

リオナが頷く。

「でも、昨日よりそれを言いやすいです」

「うん」

「だから、今日はそれでいい気がする」

リツカが小さく笑う。

「うん」

「それでいい日」


ユアンも頷いた。

「たぶん、ありますよね。そういう日」

サラは少しだけ肩の力を抜き、会釈する。

「……ありがとう」

そのありがとうは、答えをもらった礼ではなく、急がされなかったことへの礼に聞こえた。


午後、リオナは二つの白の前の空気を見ながら思う。

ここは、座る場所が増えて、人が少し一緒にいられる場所になった。

そして今日は、その一緒の中に“急がない待ち方”も含まれるようになったのだ。


リナライは二つの白の前にしゃがみ込み、ぽつりと言う。


「……きょう、あんまり話してないね」

「うん」

リオナが答える。

「でも、ちゃんとやさしかった」

「……うん」

「……しずかでも、だいじ」

「そうだね」

「言わないで待つのも、たぶん大事なんだろうね」

「……うん」

「それも、“どうぞ”なんだ」

その言葉に、リナライは嬉しそうに頷いた。


シオンは二つの白と、その前の石の縁、木の腰掛け、そして誰かがさっきまでいた空気を見ている。

灯りが穏やかに明滅する。


「……どうぞ」

少し間があく。

「……まだ」

さらに、

「……いう」

そして最後に、

「……やさしい」


夕方の風が、二つの白と、そのあいだと、その前の小さな居場所たちを静かに撫でていく。

その光景を見ながら、リオナは胸の中でそっと思った。

ここは、誰かを話させる場所ではない。

話したい言葉が、ようやくその人の中から出てくるまで、そっと席をあけて待てる場所なのだと。

今回は、“少し席をあけるやさしさ”が、今度は“言葉を急がず待つやさしさ”へと広がる回でした。

サラがまた迷いの中へ戻りかけた時、誰も先回りして答えを与えず、でも黙って離れもしなかった。

その「一緒にいるけれど急がせない」という在り方が、とてもこの場所らしいやさしさだったように思います。


また、シオンが「まつ」「いう」「まだ」「どうぞ」とつないだことも印象的でした。

席を譲る“どうぞ”だけでなく、言葉の順番を譲る“どうぞ”がある。

その見えにくいやさしさまで受け取れるようになってきたのだとしたら、シオンはもうかなり深いところで、この庭に流れる関わり方を見ているのだと思います。


次は、この“言葉を急がないやさしさ”が、今度は誰かの話を最後まで聞ききることや、黙ったままでも離れないことへつながっていくのかもしれません。

二つの白の前の時間は、まだ静かに、でも確かに育っています。

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