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夢紡ぎの街 ―感情と日常の異世界スローライフ―  作者: たむ


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第2章 第133話:白の前に置いていくため息

人がどこかに立ち寄る時、いつも明るい理由ばかりがあるわけではない。

嬉しいことがあった日ではなく、少し疲れた日。

うまく言葉にできない重さを、ひとまずどこかへ置いておきたい日。

そういう時に、ただ見て帰るだけでなく、少しだけ座っていける場所があることは、思っているより大きい。

この日、線のそばの二つの白は、誰かの胸の中に溜まっていた小さなため息を、静かに受け止めることになる。

朝のここは、昨日より少しだけ曇っていた。


白い花は二つ、今日も並んでいる。

先に咲いた白は落ち着いていて、後から咲いた白は少しだけ若い開き方をしている。

そのあいだには、昨日と同じように細いやわらかさがあった。

石の縁も、そこにあるだけで“少し座っていい場所”に見える。


リオナは水差しを手に、いつものように二つの白へ水をやる。

落ちる水の音は小さく、曇りの朝には余計に静かに聞こえた。


「……今日は、しずかなひろさだな」

そう呟くと、リナライが頷く。

「……うん。きのうより、しずか」

シオンも、二つの白とその前の空気を見ていた。


「……ここ」

ぽつりと言う。

「うん」

「……しずか」

「うん。今日は静かなここだね」

シオンの灯りが、曇り空みたいにやわらかく明滅した。


午前のうち、最初に立ち寄ったのは見慣れない青年だった。


年は二十代の半ばくらいだろうか。

村で見かけたことはある。

水場の近くで荷を運んでいた、寡黙そうな青年だ。

名前はたしか、ユアン。


彼は門の前まで来たものの、すぐには中を見なかった。

少しのあいだ、地面を見て立ち止まり、それからようやく顔を上げる。

その動きに、リオナはなんとなく“見物ではない”気配を感じた。


「おはよう」

やわらかく声をかけると、青年は少し驚いたように肩を揺らし、それから小さく会釈した。


「……おはようございます」

声は低く、少し掠れている。

「初めてかな」

「……はい」

彼は麻紐の前で止まったまま、二つの白を見る。

「ずっと、来ようとは思ってたんですけど」

「うん」

「なんとなく……来る理由がないと、来ちゃいけない気がして」


その言葉に、リオナは少しだけ目を細める。

来る理由。

ここへ立ち寄る人たちは、少し前までみな何かしらの理由を持っていた。

花を見るため。

白の違いを確かめるため。

誰かに会うため。

でも今は、理由がうまく言えなくても、ただ少しここにいたいというだけで来てもいい場所になりかけている。


「理由がなくても大丈夫だよ」

リオナが言うと、ユアンは少し困ったように笑った。

「……それが、一番困るんです」

「困る?」

「はい。理由がないと、自分でも来ていいのか決められないから」


その言い方には、ひどく疲れた素直さがあった。

リオナはそこで初めて、彼の目の下にうっすらと影があるのに気づく。

寝不足なのか、気疲れなのか。

たぶんその両方だろう。


石の縁に、ユアンの視線が一度だけ落ちた。

だが、座らない。

まだそこまでしていいと思えていないのだ。


リナライが、小さく口を開く。


「……すわっても、いいよ」

ユアンが顔を上げる。

「え?」

「……ここ、すわれる」

リナライは二つの白と、その前の石の縁を見る。

「……ちょっとだけ」

その言葉に、ユアンはしばらく黙っていた。

やがて、ためらいながらも石の縁へそっと腰を下ろす。


深く座るわけではない。

すぐ立てるくらいの浅い座り方。

それでも、立っている時よりほんの少しだけ肩の力が抜けたのが見えた。


二つの白を前に、彼はしばらく何も言わない。

ただ、座っている。

それだけの時間が、朝の庭に落ちる。


ミレナが通りかかり、その様子を見て足を止めた。

だが彼女は挨拶だけして、それ以上何も聞かなかった。


「おはようございます」

「……おはようございます」

ユアンが返す。


それだけで十分だった。

ここでは、沈黙に無理に意味をつけないことも、きっとやさしさなのだ。


しばらくして、ユアンがぽつりと呟く。


「……なんか」

リオナは返事を急がない。

「ここ、静かですね」

「うん」

「でも、空っぽじゃない」

その言い方が、妙に胸へ残る。

「たぶん」

リオナは静かに答える。

「白が二つあるからかもね」

ユアンは二つの白を見比べた。


「片方だけだと、たぶんもっとちゃんと見ようとしてたと思うんです」

「うん」

「でも二つあると、少し視線を置いておける感じがする」

「置いておける」

リオナはその言葉を繰り返した。

「……そうかもしれない」


ユアンは曇り空を少しだけ見上げ、それから視線を落とした。


「今朝、家で少し言い合いになって」

リオナも、リナライも、何も言わない。

「大したことじゃないんです。たぶん」

彼は苦く笑う。

「でも、出る時に変な空気のままで」

二つの白の前の空気が、その言葉を静かに受け止める。

「そのまま仕事に行くの、嫌で」

「……うん」

「だから、途中でここに寄ったんです」

ようやく“理由”が言葉になったのだろう。

でも、それはきっと、最初から説明できるような理由ではなかった。


リツカが、少し遅れてやって来た。

石の縁にユアンが座っているのを見て、少し驚いたように立ち止まる。

けれど彼女もまた、何も聞かず、反対側の端にそっと腰を下ろした。


ユアンが戸惑ったようにそちらを見る。

リツカは小さく会釈した。


「……ここ、少し座ってもいい場所なんです」

その言い方があまりにも自然で、ユアンの表情がほんの少しだけほどける。

「そう、なんだ」

「うん」

リツカは二つの白を見る。

「見てるだけでも、ちょっと楽になる日があるから」

それは彼女自身の実感から出た言葉だった。


ユアンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

朝から胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ外へ出たみたいな、やわらかいため息だった。


シオンは、その音を聞いていた。

二つの白。

座る人。

ため息。

言葉になる前の重さ。


灯りがやわらかく揺れる。


「……すわる」

ぽつりと、そう言う。

ユアンが顔を上げる。

「いま……?」

リナライが嬉しそうに頷く。

「……うん。すわる」

シオンは石の縁を見る。

「……しずか」

少し間があく。

「……ためいき」

庭の空気が、ふっと止まったように感じた。


リオナも、リツカも、ミレナも、誰もすぐには言葉を返せなかった。

今のそれは、花や白の名前とは違う。

ここに座った人が、そこに置いていった見えないものに触れた言葉だったからだ。


ユアンは目を見開いたまま、少しだけうつむく。

そして、苦くもなく、困ったようでもない、ただ素直な顔で笑った。


「……聞こえました?」

その問いに、シオンは灯りをやわらかく明滅させた。


リツカが、小さく言う。


「ここ、たぶん……そういうのも、置いていけるんです」

ユアンは二つの白を見る。

そのあいだを見る。

それから、石の縁に置いた自分の手を見る。


「……かもしれない」

声はまだ低い。

でも、来た時より少しだけ軽く聞こえた。


昼前、ユアンは立ち上がる前にもう一度二つの白を見た。


「ありがとうございます」

誰に向けた言葉かは、たぶん本人にもはっきりしていないだろう。

リオナたちへか。

白へか。

ここへか。

でも、それでよかった。


「少し、ましになりました」

そう言って、彼は深く頭を下げるでもなく、ただちゃんと会釈して去っていった。

その背中は、来た時よりほんの少しだけまっすぐだった。


午後、ミレナがぽつりと呟く。


「白の前って、嬉しいことだけじゃなくていいんですね」

「うん」

リオナは静かに答える。

「たぶん、どっちでもいいんだと思う」

「……そうですね」

リツカも頷く。

「私も最初、楽しいから来たわけじゃなかったし」


二つの白は、曇り空の下でやわらかく揺れている。

咲いている。

並んでいる。

その前に少し座れる。

そして、言葉にならないものも少し置いていける。


それが、今のここなのだろう。


夕方、石の縁にはもう誰も座っていない。

けれど、今日そこにいた時間は、まだ空気の中に薄く残っているように見えた。

白の前に置かれたため息。

それを見送るように揺れた灯り。

二つの白のあいだに流れた、言葉より静かな時間。


リナライは白のそばにしゃがみ込み、ぽつりと言う。


「……ここ、ためいきも、いていいんだ」

リオナはその言葉に、少しだけ驚いてから頷いた。

「うん」

「そうかもしれない」

シオンは、二つの白と、その前の石の縁を見ていた。


「……ここ」

少し間があく。

「……すわる」

さらに小さく、

「……ためいき」

そして最後に、

「……やさしい」


夕方の曇り空の下、二つの白は今日もそこに並んでいる。

変わらずにいるものと、少しずつ広がっていくもの。

そのどちらも抱えながら、線のそばの“今日のここ”は、また少しだけ人の心を置いていける場所になっていた。

今回は、“座れるここ”に、少し重い気持ちを持った人がやって来る回でした。

ユアンが白の前に腰を下ろし、言葉になる前のため息を少し置いていったことで、この場所はさらに別のやさしさを持ち始めたように思います。

嬉しいことや変化を見に来るだけでなく、少し疲れた気持ちを休ませるためにも来られる。

それは、庭が日常の深いところへ入り始めた証なのかもしれません。


また、シオンが「ためいき」という見えないものに触れたのも印象的でした。

花や色や場所だけではなく、そこに来た人が置いていく空気の重さまで感じ取り始めているのだとしたら、シオンはもうかなり深いところで“ここ”を見ているのだと思います。


次は、この“ためいきを置いていける場所”に、また別の気持ちを持った誰かが来るのかもしれません。

静かな庭のやわらかさは、まだ少しずつ広がっていきそうです。

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