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夢紡ぎの街 ―感情と日常の異世界スローライフ―  作者: たむ


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第2章 第102話:シオンのいる朝

新しい存在を迎えた夜のあと、朝は何ごともなかったようにやって来る。

けれど本当は、同じ朝など一度もない。

庭に差し込む光も、湯気の立つ朝食の匂いも、いつもと同じはずなのに、そこに一つ新しい影があるだけで、世界は静かに形を変えている。

これは、シオンが初めて迎える“帰る場所の朝”の話。

朝の光が、庭の草花をやわらかく照らしていた。


露を含んだ葉先がきらりと揺れ、花壇のあいだから立ちのぼる湿った土の匂いが、夜の冷たさの名残を少しだけ残している。

窓の隙間から差し込む陽射しは薄い金色で、家の中の木の床に静かな帯をつくっていた。


リオナは、目を覚ますとすぐに昨日のことを思い出した。


四つ目の影。

シオン。

名を得たばかりの、小さな揺らぎ。


夢だったのではないかと一瞬だけ思ったが、すぐにそうではないとわかる。

部屋の空気そのものが、昨日までと少し違っていた。


静かだ。

けれど、何もない静けさではない。

誰かが息をひそめて、世界の様子をうかがっているような気配がある。


リオナは寝台から身を起こし、ゆっくり扉を開けた。


居間には朝の光が差し込み、小さな食卓の上には昨日のうちに片づけきれなかったカップがひとつ残っている。

その足元で、ナリが静かに揺れていた。

窓辺にはノアが薄く広がり、レンはすでに床を細く走っている。


そして――


部屋の隅、光の届くぎりぎりのところに、シオンがいた。


小さな影は壁際に寄るようにして立ち、朝の光と、その中に浮かぶ埃の粒をじっと見つめている。

胸のあたりの淡い灯りは、夜よりも少し落ち着いて見えた。


リオナは、驚かせないようにそっと声をかける。


「……おはよう、シオン」


シオンの輪郭がぴくりと揺れた。

逃げはしない。

けれど、まだどう反応すればいいのかわからないらしい。


少し遅れて、胸元の灯りがかすかに明滅する。


それだけで、リオナは少し安心した。


「うん。そこにいるんだな」


言いながら、自分でもおかしくなる。

“そこにいる”ことを確認する言葉が、こんなに嬉しいなんて。


その時、奥の部屋の扉が開いた。


「……ん……あさ……?」


眠たげな声とともに、リナライが顔を出す。

まだ少し寝ぼけたまま髪を押さえ、ぼんやりと居間を見渡し――次の瞬間、目を大きくした。


「……シオン」


名を呼ばれた小さな影が、そっと揺れる。


それだけで、リナライの表情がふわりと緩んだ。

まるで朝いちばんに、大事なものがちゃんと消えずに残っていたのを確かめた子どものような顔だった。


「……いた」

「いるよ」

リオナが笑って答える。


リナライはぱたぱたと軽い足音で近づき、シオンの少し手前で止まる。

近づきすぎない距離を、もう無意識に覚え始めているらしい。


「……おはよう」


シオンはしばらく揺れていた。

それから、ほんの少しだけ胸の光を強くした。


「……お……」


かすれた、小さな音。

それはまだ言葉と呼ぶには頼りない。

けれど、リナライは嬉しそうに息を呑んだ。


「……いま……おはよう、しようとした?」

「リナライ、顔に出すぎ」

「……だって、いま……!」


リオナはくすりと笑う。

シオンは二人の反応に戸惑っているのか、輪郭を小さく揺らした。

その様子があまりにも初々しくて、部屋の空気が少しだけやわらかくなる。


外では、どこかの家の扉が開く音がした。

遠くで鳥が鳴き、村が少しずつ起き始める。


夜のあいだは守られていた静けさも、朝になればほどけていく。

村の人たちはやがてこの家の前を通り、昨日見た者も、まだ知らない者も、四つ目の影のことを耳にするだろう。


そのことを思ってか、リオナは一度窓の外へ目を向けた。


リナライも、その視線の意味を察したらしい。

さっきまでのやわらかい顔から、少しだけ緊張が戻る。


「……きょう、どうするの?」


リオナはすぐには答えなかった。

朝の庭を見つめながら考える。


隠すのは違う。

けれど、いきなり人の多い場所へ連れていくのも違う気がする。

シオンはまだ、この家の空気と朝の光に慣れ始めたばかりなのだから。


「まずは、この家と庭に慣れてもらおう」

「……うん」

「それから、できるだけ静かな形で村に見てもらう。急がない」

「少しずつ、だね」

「そう。少しずつ」


その言葉に、シオンがわずかに揺れた。


“少しずつ”という響きが、いまの彼には合っていた。

無理に前へ引っ張られず、消えないままここにいられる速さ。


ナリが食卓の脚のそばで静かに明滅する。

ノアは窓辺の光を薄く受け、レンは朝日の線を踏むみたいに床を走った。

三つの影もまた、いつもより少しだけシオンを意識しているように見える。


四つ目の影が加わった朝。

それは特別な事件の朝ではない。

けれど、昨日までと同じ朝でもなかった。


リオナは台所へ向かい、水差しに手を伸ばす。


「とりあえず、朝の支度をしようか」

「……ごはん」

「うん。みんな落ち着くには、それがいちばんだ」


そう言った時だった。


庭のほうから、かすかな揺れが伝わってきた。


リオナは足を止める。

リナライも顔を上げた。

ナリ、ノア、レンが一斉に反応する。


シオンの輪郭が、緊張したように細くなる。


風ではない。

何かが、庭の外からこの家の気配をうかがっている。


それは敵意というほど強くはない。

けれど、明らかに“見に来た”揺れだった。


リオナは静かに窓へ近づく。


朝の光に照らされた庭の向こう、門のあたりに小さな人影があった。

背丈からして、子どもだろうか。

こちらを見ている。

いや、正確には――


四つ目の影を見に来ている。


子どもだった。


門の向こうに立っていたのは、まだ十にも満たないくらいの小さな男の子で、こちらの様子をうかがうように柵の陰から半分だけ顔を出している。見覚えがあった。市場で何度か見かけた、ベルドの店の手伝いをしていた少年――ノルだ。


ノルはリオナと目が合うと、びくりと肩を揺らした。

だが、逃げはしなかった。


「……ノル?」


リオナがやわらかく声をかけると、少年は気まずそうに頭を掻いた。


「ご、ごめん……」

「なんか、その……見えたから」

「四つ、いるって……ほんとかなって」


最後の言葉は、だんだん小さくなる。

覗き見をしていた後ろめたさと、好奇心をごまかしきれない子どもらしさが、その声にはまっすぐに混ざっていた。


リナライはシオンの前へ半歩出たが、シオンはそこから動かなかった。

怯えてはいる。けれど、昨夜のようにすぐ後ろへ逃げようとはしない。


ノルはその様子を見て、ごくりと唾を呑み込んだ。


「……その子?」

「うん」

リオナは門のほうへ歩きながら答える。

「昨日、名前を持ったんだ」

「名前……」

「シオンだよ」


その名が出た瞬間、部屋の中でシオンの胸の灯りがかすかに揺れた。

ノルの目が丸くなる。


「ほんとに……名前、あるんだ」


恐る恐るこぼれた言葉だった。

そこには怖れもある。けれど、それ以上に“知りたい”という気持ちがあった。


リオナは門を開けはしなかった。

ただ、ノルの目線に合わせるよう少しかがんで言う。


「怖い?」

「……ちょっと」

ノルは正直に答えた。

「でも、すごく怖いってわけじゃない」

「そうなんだ」

「だって……」


ノルは門の隙間からそっと庭をのぞく。

ナリは静かに揺れ、ノアは窓辺に薄く広がり、レンは相変わらず床際を走っている。

そしてシオンは、部屋の隅からこちらを見ていた。


ノルは唇をきゅっと結んでから言った。


「ほかの三つと、いっしょにいるから」


その一言に、リナライが目を見開く。

リオナも、少しだけ息をついた。


そうか、と彼は思う。

シオンひとつだけを見れば、きっと“未知”として映る。

だが、ナリたちが隣にいることで、その未知は少しだけ“関係の中にあるもの”として見えるのだ。


怖いだけでは終わらない。

それは、とても小さいけれど、大きな差だった。


リナライはゆっくりとシオンを見下ろした。


「……きいた?」

「……いっしょ、だって」


シオンの輪郭が、ふるりと揺れる。

その揺れは、戸惑いと、それからわずかな熱を含んでいた。


ノルはまだ門の外に立ったまま、指先をもじもじと動かしている。

入ってきたい。でも、勝手に入ってはいけない気もしている。そんな迷いが丸見えだった。


リオナは少し考え、それから門を半分だけ開けた。


「庭までなら、来る?」

「……いいの?」

「うん。でも、急に近づかないこと。大きな声を出さないこと」

「わ、わかった!」


ノルはぱっと顔を明るくしたが、すぐに「静かに」と言われたのを思い出したのか、慌てて口を押さえた。

その仕草に、リナライが小さく笑う。


ノルはそろそろと庭へ入る。

朝露の残る石畳を踏みながら、花壇の横で足を止めた。

いつもなら子どもたちがわいわい覗き込む庭も、今日は妙に神聖な場所に見えているらしい。


「……ほんとに、四つだ」


感嘆するように呟く。


ナリが一度明るく脈打つ。

ノルはびくっとしたが、逃げなかった。

むしろ、驚きと興味がせめぎ合う顔で、その光をじっと見つめる。


「ナリはね、すぐこうやって光る」

リナライが少し誇らしげに言う。

「ノアはやさしい」

「レンはすばやいんだよ」

リオナも続ける。


「じゃあ……シオンは?」

ノルの問いに、場が少しだけ静かになる。


シオンはまだ、はっきりした“役割”や“性質”を皆に示してはいない。

名前を得たばかりで、自分自身の輪郭すら探っている途中なのだから当然だ。


その沈黙の中で、リナライがそっと答える。


「……シオンは、いま、ここにいようとしてる」

「ここに?」

「うん。まだ、こわい。いっぱい迷ってる」

「でも……それでも、消えないで、いる」


ノルはその言葉をよくわからないまま聞いていた。

けれど、わからないなりに、まじめな顔で頷く。


「……がんばってるんだ」

「そう」

リナライは少しだけ笑った。

「がんばってる」


その時だった。


ノルがほんの一歩、前へ出る。

それは無意識の動きだったのだろう。

興味が勝って、つい距離を詰めてしまった。


シオンの輪郭が大きく揺れる。


胸の灯りが、不安そうに明滅した。


「ノル、そこで」

リオナが声をかけるより早く、ノルははっとして足を止めた。


「ご、ごめん!」


強い声ではなかった。

けれど突然の謝罪に、シオンはさらに身を縮めそうになる。


リナライがすぐにしゃがみ込んだ。


「……だいじょうぶ」

「……ノル、わるくない」

「ちょっと、びっくりしただけ」


その声はシオンにも、ノルにも向けられていた。


ノルは唇を噛み、困ったように目を伏せる。


「おれ……びっくりさせたかったわけじゃない」

「うん」

「ただ、見たかった」

「うん」

「……ちゃんと、見てみたかったんだ」


その言葉に、リオナは少しだけ目を細めた。


“見たかった”。

怖がりながらも、避けるのではなく、見ようとした。

それは子どもの無邪気さでもあるし、同時に、受け入れの最初の形でもある。


リオナはシオンを見た。


「シオン。無理はしなくていい」

「でも……この子は、逃げなかったよ」


シオンは揺れる。

リオナの言葉と、ノルの気配と、庭にある朝の光。その全部を、まだうまく整理できないまま受け取っているようだった。


ナリが静かにシオンの隣へ寄る。

ノアは後ろに薄く広がり、レンはその場を円を描くように巡った。


三つの影がそばにいる。


それを確かめるように、シオンの揺れが少しずつ落ち着いていく。

やがて、小さな影はほんのわずかに前へ出た。


一歩。


石畳の端、朝の光が届く場所まで。


ノルが息を呑む。


シオンはそこで止まり、胸の灯りを淡く揺らした。

そして、かすれた声を絞り出す。


「……し……おん……」


自分の名だった。


ノルの顔が、ぱっと明るくなる。


「しゃべった……!」

今度は慌てて口を両手で押さえる。

「……ごめん、でかかった」


そのあまりの素直さに、リナライが吹き出した。

リオナも笑ってしまう。


庭の空気がふっとほどける。


シオンはまだ戸惑っている。

けれど、さっきまでの緊張一色の揺れではなかった。

自分の名を名乗ったことで、ほんの少しだけ、この場に触れられたのだ。


ノルは手を口から離し、今度は慎重に、小さな声で言った。


「おれ、ノル」

「ベルドの店、手伝ってる」

「……シオン」


返事ではない。

ただもう一度、自分の名を確かめただけだった。

けれど、それで十分だった。


「……そっか」

ノルは嬉しそうに頷いた。

「シオン、っていうんだ」


そのやり取りを見ながら、リオナは胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。


村がすぐに全部を受け入れるわけではない。

怖がる人も、警戒する人もいるだろう。

王国や外の目まで考えれば、むしろ問題はこれから増えるはずだ。


それでも――。


朝の庭で、ひとりの子どもが足を止めた。

怖がりながらも、逃げなかった。

新しい影が、たどたどしく自分の名を口にした。

たったそれだけのことが、どうしようもなく大事に思えた。


ノルはしばらく庭の花や影たちを見ていたが、やがて「あ、店」と思い出したように顔を上げた。


「やばい、ベルドさんに朝の片づけ頼まれてたんだった」

「じゃあ行かなきゃね」

リオナが笑うと、ノルはうんうんと頷く。


門のほうへ駆け出しかけて、それからまた振り返る。


少しだけ迷って、シオンのほうに向かって小さく手を振った。


「また来る」

「……み、るだけじゃなくて」

ノルは照れくさそうに鼻をこする。

「ちゃんと、あそべるようになったら」


それだけ言って、少年は朝の道を走っていった。


門の向こうには、動き出した村の日常がある。

パンの匂い、開く店先、行き交う人々の声。

いつもの朝。

けれど今日のその朝は、もう少しだけ違っていた。


リナライはシオンの隣に立ち、門の向こうを見ながら呟く。


「……また、くるって」

「……うん」

リオナも頷く。

「それって、たぶん悪くないことだよ」


シオンは門の先を見つめたまま、胸の灯りを小さく明滅させる。

それが理解なのか、戸惑いなのか、まだはっきりとはわからない。

それでも、さっきよりずっと穏やかな揺れだった。


朝の光が庭いっぱいに満ちていく。


四つの影がそこにいる。

もうそれだけで、庭の景色は昨日までとは違っていた。


新しい日常は、きっとこんなふうに始まるのだろう。

大きな宣言も、劇的な奇跡もなく。

誰かが立ち止まり、誰かが名を呼び、ほんの少しだけ距離が縮まる。

その静かな繰り返しのなかで、世界はゆっくりと形を変えていく。


リオナは庭を見渡し、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「さて」

「朝ごはんにしようか」


その一言に、リナライがようやく笑顔を取り戻す。


「……うん」

「シオンも、いっしょ」


シオンは何も言わない。

けれど、庭から家のほうへ向き直るその動きは、昨夜よりもずっと自然だった。


名を得た次の日の朝。

そこにはもう、昨日までの“名もなき揺らぎ”ではなく、確かにシオンというひとつの存在がいた。

名を得た翌朝。

それは特別な儀式の続きではなく、いつも通りの朝の中で、シオンという存在が少しずつ“日常”に触れていく時間でした。


夜のあいだに生まれた変化は、朝になったからといって消えるわけではありません。

むしろ、朝の光の中でこそ、それが本当に受け入れられるものかどうかが試されるのだと思います。


ノルのような、怖がりながらも逃げずに見ようとする眼差し。

それは小さなものですが、新しいものを迎えるうえでとても大切な一歩です。

シオンにとっても、村にとっても、この朝はきっと“最初の出会い”として残っていくのでしょう。


次回は、その出会いが少しずつ村の中へ広がっていきます。

四つ目の影を見に来る者たち。

そして、見るだけでは終わらない、小さな変化が始まります。

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