105話 イユン防衛戦前夜
ぺル=ラムセスでの軍議から数日後、既に第四軍団セトは西方国境線へ向けて出撃し展開を終えていた。そしてナイル・デルタ西縁の砂漠地帯では、飢饉と不安に駆られたリビアの流民とエジプト国境守備隊や第四軍団の間で、小規模ながらも散発的な衝突が始まっており、国境付近の主要都市イユン近郊では緊張が高まっていた。
だが、さらに衝撃的な報告が届く。リビア奥地より、数千人規模の流民集団が、南西よりエジプト領に向かっているというのだ。彼らの装備や出自は不明であり、その数と構成からして、単なる流民の域を超えている。この報告を受け、ついにラムセス王は正式な出撃命令を発した。
「第五軍団アカーネ、直ちにぺル=ラムセスを出撃し、国境都市イユンに展開せよ」
この指令が下された時には、アカーネ神殿ではすでに出撃準備が完了していた。エンへドゥアンナが組織化したアカーネ神殿の神官団は、数日前から物資輸送と兵站計画を練り上げており、駱駝・食糧・補修資材など必要な全てが整えられていた。第五軍団だけではなく、茜の部隊――ポプリタイ、トラキア重斧兵、スキタイ騎射兵、トーションカタパルト部隊を含む総勢5000人余りの兵士たちも、すでに全装備を整え、ただ命令を待つのみであった。
そして出撃の朝。王宮から正門まで続く大通りには、すでに大勢の民が集まっていた。ラムセス王自らが姿を現し、ネフェルタリ王妃も静かにその隣に立っていた。多くの神官たちが列を成し、商人や職人、子どもたちまでもが、茜の軍を見送ろうと集っていた。
その軍勢の中央に、茜の姿があった。
エジプトの神を模した装い。そして手には、つい先日授かったばかりの「アカーネのスタンダード」が握られていた。巨大なラピスラズリの輝き、金の風の紋章、そして文明ごとの記憶を刻んだ鎖飾りが風に揺れていた。
茜は一呼吸、静かに天を見上げた。そして高らかに、澄んだ声で命じる。
「第五軍団――出撃!!」
その一声に、整列していた兵士たちが一斉に応えた。
「おおおおおおおおおっ!!」
鼓が打たれ、整然と軍列が進む。重装歩兵が地を鳴らし前進する。弓兵がその脇を固め、騎兵たちが後ろに続く。そして軍勢の中央を進む茜の姿に、民衆からは「風の神アカーネ様!」「ご武運を!」と叫ぶ声が上がる。ネフェルタリ王妃は静かに呟いた。
「アカーネ…どうかご武運を」
それを聞いたラムセス王は、微笑みながら王妃の手を握った。
「案ずるな、ネフェルタリ。あれほどの神が敗れることなどあるまい。アカーネは我らを守る風となり、エジプトを再び導いてくれる。信じるのだ」
陽光の下、茜の軍勢がゆっくりと都を後にする。その背に、無数の声援と希望が送られていた。
数日間にわたる進軍の末、第五軍団アカーネは、ナイル・デルタ西縁に位置する国境都市イユンへと到着した。
砂漠の風にさらされる城壁の上では、すでに現地守備隊と第四軍団の兵たちの一部が集まり、茜の軍を歓迎する準備が整っていた。重装歩兵の堂々たる行進、スキタイ騎射兵の軽やかな駆歩、トラキアの重斧兵が地を踏み鳴らす姿に、駐屯していた将兵たちからは自然とどよめきが上がった。なにより中央に掲げられた「アカーネのスタンダード」の輝きが、人々の目を奪っていた。
イユンの城門をくぐった茜は、すぐに設けられていた司令部へと案内される。そこには、第四軍団の司令官たちが顔をそろえ、戦況を刻む地図と記録の巻物が整然と並んでいた。
「アカーネ様、ご到着を感謝いたします。我ら第四軍団は国境守備隊と共に、これまで国境防衛に全力を尽くしてまいりましたが……状況は、芳しくありません」
老練な司令官が、疲れのにじむ声で口を開いた。
「我らは当初、陛下のご意向に従い、平和的な対応を目指しました。我々は何度も使者を立て、食料・水・一時的な滞在許可を条件に、交渉の場を持とうとしたのですが……使者は悉く殺害されました。敵対勢力は、我らの対話を完全に拒絶しています」
報告を受けた茜は、眉を寄せる。
「…食料を求める流民なら、対話は歓迎されるはずなのに。なんで……?」
その疑問に答えたのは、茜の隣に立っていたリュシアだった。書簡を手にしたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「主、これはおそらく……内部に“扇動者”がいるものと考えるべきでしょう。『降伏すれば奴隷にされる』『エジプトは我らを欺く敵だ』と煽る者が。恐怖によって団結を促し、戦うしかないという思想を流布しているのかと」
ガルナードが疑問を挟む。
「扇動……?この時代に、そこまで民を操るだけの扇動を行う意図があるとは思えぬが……?」
リュシアは一歩前に出て、言葉を継ぐ。
「主、エーゲ海方面からの報告をご記憶でしょう。“海の向こうで小国が滅んだ”という話。おそらくこの集団は、その滅んだ王国――ミケーネ文明圏の小王国の滅亡から流れてきたアカイア人系の難民です。そして……彼らは“滅びの中で裏切られた”のでしょう」
「裏切られた……?」
「ええ。敵に降伏した直後に仲間が虐殺された、あるいは同盟者に見捨てられた――そういった体験をしてきた者たちが、恐怖と復讐心に突き動かされている。ならば、交渉の余地がないのも無理はありません。もはや彼らの目的は『生き延びる』ではなく、『奪って生き延びる』。都市の占拠を目的としていると見た方が自然です」
その場にいた者たちが、重苦しい沈黙に包まれた。エンへドゥアンナがぽつりと呟く。
「……今回は、戦いが避けられないということなのですね」
その言葉に、茜は目を伏せて深く息を吐いた。
「エジプトに来てからは、なるべく戦わないで済むように動いてきたけど……もう、それも限界みたいね。交渉はすでに拒絶されていて、使者も殺されてる。これじゃ、こちらが何もしなくても、攻め込まれるだけだもの」
その声は、明らかに沈んでいた。だがリュシアは静かに、しかし確かな口調で言う。
「主、ここで叩かなければ、犠牲になるのはイユンの民、そしてナイルの平野に暮らすエジプト王国の人々です。主はこれまでも、弱き者を守るために剣を取ってこられました。今こそ……その意志を、示すべき時です」
リュシアの言葉を受け、茜は静かに目を閉じた。彼女の表情には、痛みと覚悟が同居していた。
「……分かってる。でもね、リュシア。たとえ戦いになったとしても――降伏してきた者は、必ず受け入れる。それだけは、絶対に譲れない」
「承知しました、主」
その声に応じたのは、重厚な甲冑をまとったガルナードだった。
「前線の指揮は私が預かります。敵がもし降伏を望むなら、主殿のご意思に従い、戦闘を即座に停止させます。安心してお任せください」
「ありがとう、ガルナード。……本当に、よろしくね」
そう言って茜は彼に微笑んだが、その瞳の奥には、これから始まる「対話なき戦い」への覚悟が、確かに宿っていた。そして茜はあらためて第四軍団司令官に視線を向け、問いを発した。
「司令官、数千人規模の難民集団が移動してきているって報告は受けてるけど……敵が目指している場所は、どこだと見てるの?」
第四軍団の司令官は即座に答える。
「アカーネ様、おそらくこのイユンで間違いありません。ナイル・デルタ西縁の最大都市であり、水・倉庫・施設が集中しています。侵略の拠点としても、定住先としても魅力がある。彼らはこの都市を奪うつもりでしょう」
茜は軽く唇を噛みながらつぶやいた。
「……やっぱり。最初から“大きな都市”を目標にしてる時点で、ただの流民じゃない。組織的な動きがある。背後に“指導者”か“扇動者”が居るって、ほぼ確定だね」
彼女の目は、単なる民の群れではなく、明確な意図と行動原理をもった「勢力」として敵を見据えていた。
「それで、敵はもう近くまで来てるの?」
茜の問いに、司令官は一枚の板を差し出した。そこには偵察部隊が収集した移動経路と現在位置が記されていた。
「はい、最新の情報では、敵集団はこの地点――イユンから約二日、行軍距離でおよそ50キロほどの位置まで接近してきております。前哨線の接触も時間の問題です。また、我々第四軍団のイユン駐留部隊には、すでにアカーネ様の軍に加勢せよとの命が届いており、可能であれば共に前線に出て戦う所存です」
だが――その提案を聞いた茜は、即座に首を振った。
「ありがとう。でも……今回は、共に戦わない方がいいと思うの」
会議室に静かな緊張が走った。
「……え?」
「ごめんね。第四軍団の戦い方と、私たち第五軍団の戦い方って、かなり違うの。装備も、兵種も、指揮系統も、戦術の思想自体が違う。無理に合わせれば、それが綻びになって戦線のどこかが崩れるかもしれない。だから、私たちは私たちで前線に立つつもり」
茜の表情は、真剣だった。
「代わりに第四軍団のイユン駐留部隊には、イユンの都市防衛をお願いしたいの。ここの背後をしっかり守ってもらえれば、私たちは前面に集中できる。万が一、敵に別動隊があっても、都市に抜けられることはなくなるから」
「……なるほど、アカーネ様。お考えはよく分かりました」
第四軍団の司令官は静かにうなずく。
「我ら第四軍団のイユン駐留部隊は、都市守備隊と連携して防衛に徹します。イユンの門は、必ずや死守いたします。アカーネ様……どうか、ご武運を」
「ありがとう。こちらも全力で迎え撃つから」
その言葉に司令官は深々と頭を下げ、軍議は一旦の終結を迎えた。リュシアは地図を指しながら、茜に確認を取る。
「背後にイユンを置いて補給線を確保しつつ、平地に陣を展開し迎撃……理想的ですね。補給・撤退の余地も残せますし、防衛線としては理に適っています」
茜は小さく頷きながら言う。
「うん。この戦い……勝ちにいくよ。でもそれと同じくらい、無駄な犠牲は出したくないんだけどね」
そして彼女は、軍議の終わった部屋を背に、静かに自らの部隊への指示を出すべく歩き出した。
翌朝、空がまだ薄明るい程度の時間に、第五軍団アカーネはイユンの西門を出撃した。その行軍は一分の狂いもない整然としたものだった。茜は自らのスタンダードを掲げながら先頭に立ち、全軍を鼓舞するようにその背を見せる。そして彼女の命によって選ばれた迎撃地点は、イユンの西方10キロに広がる、灌木のまばらな荒れ地。地形の起伏は少なく、騎兵も投射兵も展開しやすい絶好の防衛線であった。
部隊はすぐさま布陣に取りかかった。
まず中央には、ガルナードの指揮する茜の精鋭ポプリタイ600名が密集隊形で陣取り、鉄の壁の如く軍の主軸を形成する。彼らの槍と盾は、正面から迫るいかなる敵にも応戦できるよう、訓練された動きで構えられていた。
その両翼には、第五軍団所属のヌビアやクシュ出身の兵士たちが、ヒッタイト式装備で編成された重装歩兵として、それぞれ600名ずつ配される。これにより、中央から左右へと緩やかに展開する「盾の列」が形成される構造となった。
さらにその外側、左右の最端には、ポプリタイ各300名が着陣した。彼らは練度こそ中央のポプリタイと比べて高くはないものの、第五軍団所属の兵士よりは明らかに重装備であり、第五軍団の兵士達の側面を固める。
その背後――中央第二列には、トラキア式の重斧兵300名が待機する。両手に巨大な戦斧を携えた彼らは、防御に徹する前列の背後から、敵の突破を阻止し反撃の鋭鋒となるべく配された。
そのさらに後方、三列目にはリュシアが指揮する弓兵部隊が横一線に展開する。クレタ精鋭弓兵600名を主力に、機動性に優れる第五軍団の軽弓兵300名、そして攻城塔に配属されていた複合弓兵200名が並ぶ。
そしてその後方、第四列の中央部には、茜の司令部が設けられた。ここには16台のトーション・カタパルトが間隔をあけて配置されており、茜自らが発射指示を下す予定になっていた。
また茜の司令部には、最後の切り札たるスパルタ重装歩兵100名が随行しており、茜達を護る万が一の守りを担う。また、後方支援としてアスクレピアデス医療隊とディオニューソス行進楽団も控えており、士気の維持と負傷兵の救護体制も万全であった。
さらに、その司令部の左右両翼の丘陵地帯には、アルタイ率いる重騎兵部隊ヘタイロイ400騎と、騎射に特化したスキタイ騎兵300騎が配置されていた。いずれも側面突破、または敵の背後を衝く遊撃機動を得意とする部隊であり、茜の戦術構想における「走る刃」であった。
こうして――五千名を超える軍勢が、エジプトの大地に堂々と整列した。
それは単なる数の集積ではなかった。防御と反撃、遠距離攻撃と機動打撃が有機的に連結された、構造としての「戦術布陣」だった。
茜は司令部の丘から、整然と並んだ自軍の戦列をじっと見下ろしていた。
整然と並んだファランクスの盾列。槍が規則正しく空を突き、背後には弓兵、さらにその背にトーション・カタパルトが沈黙したまま控えている。騎兵たちは馬の体を撫でながら、出番を静かに待っていた。その軍容は、この時代としては比類なきものだった。だが――茜は胸の内で、小さく息をついた。
「ギリシャ式のファランクスは、正面からの戦いには強いけど、側面がどうしても弱くなるから……そこは弓隊と騎兵隊でカバーするしかないんだよね。それに第五軍団も士気は高いけど、やっぱり私のポプリタイに比べると脆弱だから、支えなければいけない守備正面を狭くして、その分厚くする形にしておかないと……。まずは、この陣形で試してみるしかないんだよね……」
その思考は、まるで盤上の戦略ゲームでも解くように冷静だったが、同時に胸には重さがあった。
「たしかに……この時代としては圧倒的な戦力。でもさ……」
誰に向けるでもなく、小さな声で続ける。
「向こうは命懸けなんだよね。国を追われて、土地もなくして、最後にたどり着いた希望の地がここだった……その人たちが都市を“奪うしかない”と考えるようになった時点で、もう後ろに何も残ってないってことなんだよ」
バトラー将軍が静かに口を開いた。
「アカーネ様……無念であろうと、それが彼らの選んだ道です。我々はただ、その現実を迎えるのみ」
「……分かってるよ。でも、本当はさ――あの人たちを平和的に吸収して、国力にできたはずなんだよね。でも戦えば全部失われちゃう」
茜の視線は遠く、まだ見ぬ敵の方角へ向けられていた。その横で、エンへドゥアンナが筆を走らせる音がした。
「アカーネ、神の軍を使い、エジプトの盾となる……」
その言葉は、記録と言うより祈りにも近かった。
「そういえば、ユカナとミラナは?」と茜が聞くと、エンへドゥアンナは筆を走らせたまま答えた。
「お二人は医療隊の補助に入っております。私達がモーゼとの旅の間、神殿で病人を看ていた経験があるためだそうです」
「へぇ……あの二人がね。ついに勤労意欲に目覚めた……いや、ありがたいよ。本当に助かる。やるじゃん、ユカナもミラナも」
茜は少しだけ微笑み、また戦場となる大地へと視線を向けた。
翌日、朝靄が晴れゆく頃――。
茜は、東の空に差す斜陽を背に、地平線の向こうに立ち上る砂煙を見つめていた。それは、まるで大地がうめき声を上げるような迫力を伴っており、風に乗って微かに地鳴りすら感じられる。
「……来たわね」
静かに呟いたその声には、戦慄ではなく、覚悟がこもっていた。茜はすぐに司令部の帳へ戻ると、すでに待機していたリュシア、ガルナード、アルタイ、バトラー将軍ら第五軍団の幹部たちを前に、スタンダードを掲げた。
「いよいよ戦いが始まるよ。……相手は命懸けで攻めてくる。追い詰められて、退く場所もない人たち。だからこそ、油断は大敵」
全員が黙して頷く。
「でも、私たちは圧倒的に装備も訓練も上。冷静に戦えば、絶対に負けない。あんまり言いたくはないけど……今回は、私の“加護”を信じて。最後まで、気を抜かないで戦って」
重くも温かいその言葉に、将たちは一斉に拳を胸に当て、敬意と決意を込めて応じた。
「――アカーネ様に栄光を!」
それぞれが持ち場へと向かっていく中、ガルナードが足を止めて茜に言葉をかける。
「主殿……立派になられましたな」
「まぁ……自分の名前がついた軍団なんだから、それっぽい事くらい言わなきゃね」
軽く冗談を返す茜に、リュシアが小さく笑いながら補足する。
「たしかに、この状況では、主も無理をせざるをえませんね。ですが……それでこそ指揮官です」
続けてアルタイも、軽い調子で笑みを浮かべる。
「まぁ、装備差は歴然だし、負けることはねぇだろ。だけど、なるべく被害は出さずに済ませたいな。主、必要になったらいつでも俺たちを投入してくれよ」
茜は彼らに微笑を返しつつ、背筋を伸ばす。
「ありがとう、みんな。今回は、第五軍団の兵士たちにとって初陣になる。みんなにはきっと負担かけると思うけど……よろしくね」
「――はっ、おまかせを!」
その返礼が響いた瞬間、司令部の背後から少し気の抜けた声が飛んだ。
「茜? 私たちも今回は医療隊の手伝いに参加するからね~」
姿を現したのは、ユカナとミラナ。アスクレピアデス医療隊の補助装備を身につけ、意外にも真面目な面持ちだった。
「この間、あなたがモーゼと旅してた頃、神殿で病人の世話してたしね。多分、私たちでも多少は役に立てると思うよ?」
ミラナがやや不安げに言うと、茜は思わず吹き出しそうになりながらも、真摯に頷いた。
「ふふ、あんたたちも、ちょっとは勤労意欲に目覚めたってことね。……いや、本当に助かるよ。ありがとう、二人とも」
茜が素直に礼を口にするのは、滅多にないことだった。だが、それだけ彼女にとって、今回の戦いは重かった。最後に視線を移した先、筆を手に記録を取っていたエンへドゥアンナが、静かに目を上げた。
「私は……いつも通り、茜の近くで記録を取らせていただきます。“風の神、アカーネ、神の軍を率いて盾となる”……そんな書き出しでいいですよね?」
「……お願いだから、あんまり盛らないで。神話っぽく書かれると、あとで恥ずかしいからさ」
「努力します」
即答されて、茜は思わず肩をすくめる。そんなやり取りの背後で、再び大地が低く唸る。リビアの砂漠を越え、いま確かに「試練」が近づいていた。




