104話 第五軍 《アカーネ》、出陣の刻
神殿の朝は静かだった。薄く差し込む日の光に、白い石の回廊がほのかに輝き、まだ人の気配の薄い神殿内を、茜はゆっくりと歩いていた。
「主、朝より失礼いたします」
そう言って、控えの間の扉が開き、書簡の束を携えたリュシアが姿を現す。きちんと整えられた姿と落ち着いた声は、いつもの調子だが、どこか重みを帯びていた。
「ん? おはよう、リュシア。どうしたの?」
「主が留守の間に、少々気になる事象がございました。これらはすべて、神殿の出入り商人や王宮筋からの情報を集約したものです」そう前置きしてから、リュシアは一枚の羊皮紙を差し出した。茜はそれを受け取りながら眉を寄せる。
「“海の向こうの小国が滅んだ”という噂、“リビア奥地での飢饉と部族の移動”、さらに“奇妙な武装の漂着民の目撃例”……これって……」
「はい。先日、主が出立された朝に商人から聞かれた噂の一部とも一致しております」
「……ほんとに現実になってきてるんだね」
茜は唸るようにそう言いながら、記憶を手繰った。確かに、あの出発の朝にも正門近くの商人が不穏なことを口にしていた。だが、まさかそれがすでに王宮にまで伝わっていたとは。
「ラムセス王は、すでにリビア方面への偵察兵を派遣しただけでなく、第四軍団セトに動員令を下したとのことです。王宮筋の話では、近いうちに第四軍団の出撃があるだろうとのこと」
「うーん……時代的にはまだ“海の民”の本格的な侵攻には早い気がするんだけど……でも、奇妙な武装の漂着民ってのはちょっと気になるなぁ。ただの海賊か、それともミケーネの一部の部族が既にこちらに来てるのか……とは言っても、もう第四軍団に動員がかかっているということは、ラムセス王もちゃんと警戒してるってことだよね」
茜がそう言うと、リュシアも小さく頷いた。
「たしかに、エジプト王国の正規軍、それも主力の一つである第四軍団が動員されるということは、王もすでにこの一連の噂が“兆候”であると見抜いておられるのでしょう。即応性と慎重な備えという点では、ラムセス王の決断力は高く評価されるべきかと」
「うん、ラムセス王……やっぱり先見の明がある。動きが早い」
茜は、感心したようにうなずいた。古代国家としては驚異的な対応速度――これが、エジプト新王国が他の国家と一線を画している理由の一つだろう。
「いずれにせよ、こっちも状況を注視しておいたほうが良さそうね。変な流れになったら、私たちも介入する必要が出てくるかもしれないし」
「その通りかと存じます、主。今後の展開について、王宮からの情報収集を継続しておきます」
「お願いね、リュシア」
穏やかなやり取りのなかに、微かな緊張感が漂っていた。異民族の情報についての報告が一区切りついたころ、リュシアは書類を一枚差し替え、わずかに表情を改めた。
「それと……主。おそらくは主のご降臨が直接の要因かと思われますが、すでに主の留守中にヒッタイト王国からアカーネ神殿に使節団が到着して交渉を行いました。交渉は私の方で対応し、武装に関する提供交渉はすでに完了しております」
「えっ、もう交渉終わったの!? てことはさ……もしかして装備も届いた?」
「はい。主の第五軍団に割り当てられる予定の重装歩兵用の装備は、既に幾らかが納品済みです。数日前から第一陣の錬成も始まっております」
「やるじゃん、リュシア!」
茜は目を輝かせたが、次にニヤリと笑って問いかけた。
「で、代金、ちゃんとまけてもらった?」
「……主、そのようなことを神が言うべきではないかと……」
リュシアは心底呆れた顔で溜息をついた。
「とはいえ、実のところヒッタイト側は非常に友好的で、金と銀も最低限しか受け取らず、儀礼的な額でした。主が事前に“少しまけて”と仰ったのは確認しておりますが……」
「うん、ちょっと言った。ほんの軽くね?」
「……主、軽くでも神託として通ってしまうのが今の状況なのです。それをご自覚ください」
茜はくすくすと笑いながら、気にも留めていない様子だった。
「まあまあ、でも交渉がスムーズにいったなら良かった。ヒッタイトの装備は、どうしても欲しかったからさ」
「それについても、使節団の代表は“ムワタリ王のご意向である”と明言しておりました」
「ムワタリ王が?」
「はい。王曰く、『アカーネ様の軍団がヒッタイト式の装備を纏い戦うことそのものが、ヒッタイトの武威と文化を周辺諸国に示す最大の機会になる』とのことでした。つまり、我々に“神の軍装”として使用してもらうことで、ヒッタイト王国の技術力と名声の拡張を狙っているわけです」
茜は一瞬だけ黙り、頷いた。
「……そっか。たしかに、私の軍団がヒッタイトの装備で実戦で活躍すれば、それだけでヒッタイトの名が広がるよね。王としての戦略、さすがだねムワタリ王」
「戦略的には非常に優れた判断です。主の神格的影響力が各国に伝播しつつある現在、神の軍装を提供したという話にもなりうるのですから」
茜は腰に手を当て、やや誇らしげに胸を張った。
「……だったら、その期待に応えないとね。この装備、ちゃんと戦場で輝かせてみせるよ」
茜はリュシアからの報告に一息つき、ふと視線を上げて尋ねた。
「ところでさ、第五軍団の錬成、今どんな感じ?」
リュシアは手元の羊皮紙を一枚繰りながら、すぐに答えた。
「それについては心配いりません。錬成は順調です。現在、訓練の指導はガルナード、アルタイ、それにバトラー将軍の三名が担当しています。元々、ヌビアやクシュから集められた志願兵に近い部族兵ですから、士気も高いですし基礎的な訓練により体力も向上していました。今は新たにヒッタイト式装備も手に入りましたし、それへの適応と、戦列隊形の訓練に主眼を置いた訓練が進んでいます」
「つまり、もう基礎鍛錬は終わってるってこと?」
「はい、既に整列・行軍・ファランクス陣形への展開などの訓練が進んでいますし、兵士たちの反応も良好のようです」
茜は頷きながらも、すぐに表情を引き締めた。
「……リュシア。今回の動き、第四軍団だけじゃ終わらない気がしてる。もし漂着民やリビア方面の部族移動が一線を越えたら、私たち第五軍団にも動員がかかるはず。だから――」
茜は立ち上がり、窓の外に広がる訓練場を指差した。
「三人には伝えて。最低限の部隊行動がとれるように、訓練の速度を上げてって。隊列の再編成、陣形変化の速度向上、何より統率の確認。間に合わなかった、なんて言い訳は通らないからね」
リュシアもその真剣な声音に頷いた。
「分かりました、主。すぐに三人へ通達いたします。実戦が近いという認識で、我々も気を引き締めて動きます」
「うん、頼んだよ。あの三人なら、絶対にやってくれるからさ」
窓の向こう、広場ではガルナードとアルタイの低い号令が響き、バトラーが指揮するヌビアやクシュの部族兵達が盾を重ねて行進を続けていた。
****
茜とリュシアが会話を続けているところへ、タイミングよくユカナとミラナが神殿の奥から入ってきた。
「あっ、茜、昨日帰って来たんだよね。私もミラナさんも神殿で結構頑張っていたんだよ。」
「まったく。ろくに休ませてもらってないんだけど……」
ミラナがぼやくと、茜は満面の笑みで二人を迎え入れる。
「あんた達は普段からそれくらい働きなさいって! それと丁度良かった、これから私達の軍の強化をしようと思っていたのよ」
「……私達の神力も全部使って…だよね?茜」
ユカナの言葉にリュシアは小さく咳払いをし、改めて茜に向き直った。
「主、そういう事でしたら、これから神力を使って部隊の強化を始めましょう」
茜はすぐに頷いた。
「うん、実は文明4のギリシャ・ヘレニズム文化への進化を、ここで一気に完了させたいなって思ってたところ。リュシア、どこから開ければいい?」
「それでしたら、まずは文明4-3『三段櫂船造船・海洋戦術』、それと文明4-4『傭兵制度拡充』を同時に解放するのがよいかと。私の能力補正である『開発コスト-29%』を適用すれば、それぞれ142と128の神力で解放可能です」
茜はすぐに計算した。
「共通神力が636あるから、そこから出せば残りは366。で、解放される兵種は?」
「4-3では海洋戦力が解禁されます。軽ガレー船であるペンテコンター、三段櫂船トライレーム、それに地味ですが重要なアスクレピアデス医療隊です」
「やったー! 来たよ、トライレーム! あのスリムな三段櫂船って、見た目も中二っぽくていいんだよね。それにギリシャらしい医療隊も重要。で、これの開発コストは?」
「それぞれ、ペンテコンターが64、トライレームが79、アスクレピアデス医療隊が64となります」
「じゃあ、それも共通神力から。合計207使って…残りは159ね。で、次の4-4では何が出るの?」
リュシアは微笑みながら、戦況盤を操作する。
「文明4-4の開放兵種は、トラキア重斧兵、クレタ精鋭弓兵、スキタイ騎射兵、そして……ディオニューソス行進楽団です」
「……四つの兵種が解禁か…結構開発コストもかかりそうだよね」
「でも茜?全部欲しいやつだよね……?」と、ユカナがぼそっと呟く。
「リュシア、開発コストは?」
「トラキア重斧兵が75、クレタ精鋭弓兵が71、スキタイ騎射兵が79、ディオニューソス行進楽団が68です」
「ふむふむ。じゃあ、トラキアとクレタは共通神力から出して…残り13しかないね。スキタイと行進楽団は……ユカナ、あなたの神力213から出してもいい?」
ユカナは肩をすくめて笑った。
「なんとなくそんな気はしてたよ…。まぁ、これから厳しい戦いになりそうだし、いいけどね」
ミラナは横で苦笑しながら、「本当に自然に人の神力使っていくよね、この人…」とぼやいた。
「まだ今回はあんたの神力は使ってないから、残念神!」
と、冗談を交わしながらも、茜は文明ツリーを着実に進行させていく。そして、すべてのギリシャ・ヘレニズム文化を開放し終えたとき、満足げに息を吐いた。
「これで、文明4段階までは完全に終わったね。ちなみに……文明5って、やっぱりローマ?」
リュシアは神妙な顔で頷いた。
「はい。文明5では共和制ローマと帝政ローマの兵種が開放されます。ですが……」
「ロックされてる、って顔してるね?」
「えぇ、今はまだ鍵がかかっています。この時代では流石にローマ軍団兵の解禁は許可されていないようです」
「うーん……流石に後期青銅文明でマリウス式軍団とか出てきたら、世界観崩壊だもんね。今は、手持ちのカードでやれることをやるだけ!」
そして茜は、文明進化が完了した勢いのまま、自軍の戦力構成の更新にも着手することにした。
「よし、次は兵種の進化ね。鉄斧歩兵は、きっとトラキア重斧兵になるはずだけど……コストは?」
リュシアはすぐに計算を開始した。
「鉄斧歩兵は現在3部隊。1部隊あたり進化コストは15なので、合計45です。また、複合弓兵は4部隊おり、これをクレタ精鋭弓兵に進化させる場合、1部隊あたり15なので、計60。合わせて105になります」
「じゃあ、それは私の神力415から出して。残りは310になるね」
リュシアは続けた。
「問題はスキタイ騎射兵です。前提として、タランティン軽騎兵の武装度と練度がBでなければならず、現在5部隊のうち2部隊は条件を満たしていますが、1部隊がC、残り2部隊はDです」
「……スキタイ騎射兵は歴史的にも非常に強力な戦力だから仕方ないんだろうけど、結構必要コストが重いね」
ミラナが、ちらりと茜の様子を見ながら口を開いた。
「場合によっては、私の神力使っていいよ」
「お? 残念神が自発的に支援? ……もしかして、契約更新を狙ってない?」
「ち、違うってば! そ、その…まぁ、私も協力しようかなって、たまには」
「はいはい。で、リュシア、どれくらい要るの?」
「Cの1部隊をBにするには神力35、Dの2部隊はそれぞれ60で計120。合計155です。ミラナ様の神力160でギリギリになります」
ミラナはため息をつきながらも、
「戦略的投資よ、戦略的! 一応、私も上位神だし…」
「貧困生活も長いからねぇ…しばらく神力貯めててね。それと感謝してるよ、ありがと」
「むぅ……」
全体の空気が和む中、リュシアは冷静に確認を進めた。
「進化自体のコストは1部隊あたり20、5部隊で100ですね。こちらは主の神力から?」
「うん、残り310あるからそれで。で、アスクレピアデス医療隊への進化と、ディオニューソス行進楽団もやっちゃう。全部ギリシャ式で固めたいの」
「了解しました。医療隊は10、行進楽団も10。ただし、祭詠巫女隊の武装度と練度がCなので、それをBに上げるために35。合計で55になります」
「じゃあそれも私の──」
「茜、それは私の神力でいいよ」
ユカナが口を挟んだ。
「え? いいの? ユカナ」
「茜の神力は、新しい部隊の雇用に回した方がいいと思うから。残り11になっちゃうけど、今回はそれで」
「助かるよ、ありがとう!」
そうして進化が一段落すると、茜は次に兵の雇用に移った。
「さて…次は新規雇用だね。飛び道具を増やしたいから、まずトーションカタパルトを2部隊。雇用に120、武装度と練度をDにするのに50で、170消費。残り140」
リュシアも頷く。
「後はやはり前線の壁としてポプリタイを2部隊追加で雇用するのが良いかと…これでコストは56。そして、私が指揮する弓隊もそろそろ数を増やした方が良いですから、クレタ精鋭弓兵を新たに2部隊、これが60です」
「じゃあ全部で116か。私の神力は24残るね。ほんとはトライレーム欲しかったけど……雇用コスト45か、無理だね」
「主、今は海軍の出番ではありませんし、トライレームはまたの機会に」
「……私のロマン枠が……」
ユカナが笑いながらフォローする。
「でもこれで、ポプリタイ12部隊、トラキア重斧兵が3部隊。前線の兵士だけで1500人くらい。さらにトーションカタパルトの護衛用にポプリタイが400人。重装歩兵だけで1900人だよ、かなり強くなったんじゃない?茜」
「たしかに……この時代にこの規模の重装歩兵戦力って破格だよね」
茜はふと、少しだけ表情を引き締めた。
「でもね……異民族の侵入に対抗するとなると、向こうも命を懸けて来るんだよ。後ろには彼らの家族もいて帰る場所は無い。そういう相手に、どこかに油断があったら……この世界では命取りだよ」
リュシアも頷いた。
「主の言う通りですね。では、アルタイたちに伝え、第五軍団の錬成をさらに急がせましょう」
****
数日後の朝、アカーネ神殿に王宮からの急使が駆け込んできた。
「アカーネ様、至急、王宮までお越しください。軍議が招集されており、出陣の可能性もあります」
その一言に、茜は神殿の広間でくつろいでいた姿勢を正し、すぐにリュシアを呼び出した。
「リュシア、やっぱり来たみたいだね。出陣かもって」
「ええ、予兆はありましたからね。すぐに準備いたします、主」
二人は急ぎ身支度を整え、王宮へと向かった。
王宮の会議室には既に軍の将軍たちが集まり、巨大な作戦机の上にはエジプト西方、リビア方面の詳細地図が広げられていた。各地の駒には、既知の異民族の侵入箇所や、最近の偵察で確認された異民族の動きが示されており、状況の緊迫を如実に物語っていた。ラムセス王は茜の姿を認めると、かすかに表情を緩めた。
「アカーネ、来たか。少しばかり拙いことになっている。助力を頼むぞ」
その言葉に、茜はリュシアとともに机の前へと進み出る。すぐに状況の把握がなされた。地図の西方には、リビアの砂漠から伸びる赤い駒が点々と置かれ、エジプト国境線に近づいていた。
「既にそなたも耳にしているかもしれぬが、リビアの奥地にて大規模な飢饉が発生しているようだな。これにより、複数の現地部族が東へと流入し、我が国の国境を越えて来ているのだ」
ラムセス王の指が地図上を滑り、リビアからの幾筋もの矢印が描かれた。
「余はすでに第四軍団セトに対応を命じ、出陣の準備に入らせている。しかし、偵察の報告によれば、敵は予想以上に組織化され、装備も整っているとのことだ。どうやら単なる原住民の移動ではなく、どこかから漂着した武装民が混じっているらしいのだ」
茜は唇を引き結びながら頷いた。数日前に商人が言っていた「奇妙な漂着民」という言葉が頭をよぎる。ラムセス王はさらに続けた。
「第一軍団と第三軍団を動かす案もあったが、両軍とも直近のヌビア遠征で消耗しており、再度の出撃は避けたい。ゆえに…アカーネ、そなたの第五軍団は、現時点でどこまで戦える?」
茜はすぐに隣にいるリュシアを見る。彼女は静かに頷き、まっすぐ王に向き直って答えた。
「第五軍団の錬成は現在進行中ですが、すでに部隊行動は可能な段階にあります。単独での作戦行動には不安が残りますが、主が持つ部隊と連携し、補助戦力としての役割であれば、十分に任務を果たせると判断しております」
「……リュシア、本当に大丈夫なの?」
茜が小声で尋ねると、リュシアは珍しく力強く言い切った。
「主。大丈夫です。ガルナードを筆頭に、アルタイ、バトラーの両将も日夜錬成に尽力してまいりました。兵たちの練度も上がっております。主の部隊の補助という形であれば、問題ありません」
その言葉に、茜も小さく深く頷いた。
「ラムセス王。第五軍団は出せるよ。エジプトの土地は、私の神殿が建つこの地は、絶対に守ってみせるから」
ラムセス王は満足げに頷き、両手を広げてその意を示した。
「よかろう。アカーネよ、そなたとその軍に期待する。第四軍団セトは分散配置を採り各地で小規模の異民族の侵入への対応に当たる事になるが、そなたの軍団は纏まった形で動き、分散配置した第四軍団では対応できないような大きな侵入に対して対処してもらう事になる」
その言葉に、会議室の将軍たちもざわりとした敬意を向ける。茜はその視線を受け止めながら、深く息をついた。
「――分かったよ、ラムセス王。それじゃ、第五軍団の出陣準備に入るね」
こうして、アカーネの名を冠する第五軍団が、ついにエジプト防衛の実戦に投入される事が決定された。そしてラムセス王は改めて茜に向き直った。
「今回もそなたに頼る事になる事になってしまったが、頼むぞ、アカーネ。それと……そなたのスタンダードが、つい先ほど完成したと報告があった。今ここに持たせておる。少し待ってくれ」
「えっ、本当に? 私のスタンダードが? 楽しみすぎるんだけど!」
茜の目がぱっと輝く。その瞬間、玉座の背後から、慎重な足取りで従者が現れた。長く、布に厳重に包まれた杖状の物を両手で大切そうに抱えている。それが何であるかを、場にいる者たちは既に理解していた。
従者がラムセス王の前にひざまずき、静かにそれを差し出す。王は布を一つ一つ丁寧に剥ぎ取っていく。やがて――その姿が、荘厳な光と共に現れた。それは、かつてこの地には存在しなかった異邦の美と威厳が結晶した、「風の神アカーネ」のために誂えられたスタンダードであった。
その頭頂部には、アラッタの聖石――群青の輝きを放つ巨大なラピスラズリが鎮座していた。そこから金細工で象られた「風の紋章」が、空気をたゆたうように伸びる。そしてその左右には、ヒッタイト王家の印である「黄金の翼」が、まるで飛翔を祈るように拡がっていた。
風に揺れるように吊るされた金の鎖には、各文明の記憶が結晶化された証が下がっていた。
──ルガルニル王の形見である風のアミュレット。
──風の指揮棒についていたトルコ石とシャラドゥムの形見のカーネリアン
──アッシリア王から贈られた王印指輪。
──ミタンニ王国を象徴する緑の孔雀石を嵌めた金の札
──バビロニア王国を象徴するカーネリアンを嵌めた金の札
そして
──エジプト王国を象徴する金の札
それは、茜がこの世界に刻んできた軌跡そのものであった。金のスタンダードが光輝くと同時に、室内にいた将軍たちは息を呑むようにして、その神聖な輝きを見つめていた。誰もが、そこに“神の証”を見て取った。
「――これすごい……!」
茜は思わずそう呟いた。純粋な驚きと、心からの喜びが声ににじんでいた。
ラムセス王は微笑み、しかし次の瞬間、顔を引き締めると、厳かな声で言った。
「このスタンダードは、ファラオの名において、我がエジプト王国が風の神アカーネに捧げる、“王国の誓い”の証である。アカーネよ――どうか受け取っていただきたい」
王は、両手でスタンダードを高々と掲げ、神に捧げる儀式の如く、茜へと捧げ持つ。茜も表情を引き締め、一歩前へ出ると、そのスタンダードを両手でしっかりと受け取った。
「ラムセス王、ありがとう。このスタンダードを、私の印としてこれから使うよ。そして…これを掲げ、エジプト王国を、この地を守るから」
その言葉に、将軍たちは誰からともなく膝をつき、一斉に叫んだ。
「アカーネ様万歳! 風の神に栄光あれ!」
その声が王宮の天井に反響するように広がり、場は一瞬、神聖な沈黙に包まれた。茜は、手にしたスタンダードを一度高く掲げると、ラムセス王の方に向き直る。
「ラムセス王。このスタンダードを持って、私の第五軍団は出陣するよ。吉報を待っててね」
ラムセス王は深く頷いた。
「アカーネよ、我が王国の運命、その風に乗せて運んでくれ。頼んだぞ」
静かに、しかし力強く交わされたその誓いの場で、ひとつの伝説が始まった。それは「アカーネのスタンダード」と呼ばれ、後の世にまで語り継がれる象徴となる――その最初の瞬間であった。




