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103話 “約束の地”へ向かう小さな出発

まだ夜の名残が空に色を落としている時刻、ぺル=ラムセスの東門に近い正門前には、わずかなざわめきがあった。


朝霧の中に、馬たちの吐息が白く立ちのぼる。静まり返った街の外縁に、十数頭の馬が整然と並び、その背にはすでに騎乗した一行が姿を見せていた。先頭に立つのは茜。そしてその隣には、いつもながらに落ち着いた表情のエンへドゥアンナ。さらに後方には、モーゼと彼に従う12名のヘブライ人たち。彼らはそれぞれ荷をまとめ、旅慣れた者たち特有の厳粛な雰囲気を漂わせている。


「さて……そろそろ出ようか」


茜が馬上から周囲を見渡しながら、軽くそう呟いたその時――


「アカーネ様?」


門近くに構えていた商人の一人が、驚いたように声をかけてきた。年の頃五十を超えるその男は、香料と織物を扱う交易商で、日頃から神殿に献納品を届けていた人物である。


「随分と早いご出立ですね。これほどの人数と馬装……どこかにお出かけで?」


茜は笑顔を向けて軽く手を振る。


「おはよう。そうなの、ちょっとした遠出。カナン方面に行く予定なのよ。多分、戻ってくるのは三週間後くらいかな」


「カナン……ですか」


商人はやや表情を曇らせ、声を潜めて言葉を継いだ。


「その方面でしたら、大きな問題はないと思いますが……一応、最近いくつか気になる話が入りまして」


「気になる話?」


「ええ。通商キャラバンの複数から、気になる報せが続いております。“海の向こうの小国が滅んだ”という噂、“リビア奥地で飢饉が続いており、遊牧部族が西方から流れ始めた”とも……それに、“異様な武装をした漂着者たちが浜辺に出没した”とも」


「漂着者、ね……」


茜は一瞬目を細めたが、すぐに軽く肩をすくめて笑った。


「まぁ、大丈夫。そのあたりとは方角も違うし、私たちが行くのは内陸。何かあったら私が何とかするから、心配しないで」


「……それでしたら、どうかご無事で」


商人は深々と頭を下げた。茜は手綱を軽く引きながら、後方の一団に声をかける。


「みんな、準備はいい? 往復で二十日くらいの旅になるけど、今回は私が案内人。だから、道中では私の指示にちゃんと従ってね。――あなたたちを、“約束の地”まで連れて行くから」


朝の光が東の空に微かに差し始めるなか、モーゼを筆頭に、ヘブライ人たちは一様に馬上で黙って頷いた。その顔に浮かぶのは、期待と不安、そして祈りに似た静かな決意の入り交じった複雑な感情だった。茜はその姿を一通り見渡すと、満足げに小さく頷き、声を高らかに放った。


「それじゃあ、出発!」


蹄の音が乾いた石畳に響くなか、黎明の光に照らされながら、一行はゆっくりとペル=ラムセスの正門を越え、約束の地へと馬を進めていった。ぺル=ラムセスの都を後にして三日目。乾いた風が旅人たちの顔を撫で、地平線にはうっすらと紅海のきらめきが映り始めていた。静かな移動の最中、茜はモーゼの馬の側に歩を合わせ、ぽつりと口を開いた。


「ねぇ、モーゼ。今はヘブライ人のみんなもぺル=ラムセスで落ち着いてるし、すぐに大移動なんて話にはならないと思うけど――」


彼女は馬上から前方の広がる平野を眺めつつ、やや真剣な表情になる。


「いずれ少しずつ、“約束の地”に移ることになるかもしれないでしょ? そのとき、ちゃんと規律を持って暮らさないと、せっかく新しい場所に行っても、内部から壊れちゃうよ」


モーゼは軽く頷きながら、茜に視線を向けた。


「確かにその通りです。私たちはこれまで、統治の法や戒律といったものを持っていたわけではなく、ただ抑圧から逃れることが目的でした。……それで、アカーネ様は、どのような“規律”が必要だとお考えになりますか?」


その問いに、茜はほんの少しだけ眉を寄せ、空を見上げた。


「うーん、即興だけどさ……例えば、こんな感じかな」


彼女は手をかざしながら、指を折って一つ一つ数えはじめた。


「まず一つ目――弱き者を守れ。力のある者が、自分より弱い人を支えられなきゃ、共同体として成り立たないよね?」


「……なるほど」


「二つ目――争いは、話し合いで解決。いきなり暴力に訴えるんじゃなくて、まずは話すこと」


「たしかに、それがなければ、無益な血が流れます」


「三つ目――仲間の物を盗まない。信頼の基盤だよ」


「当然のようでいて、実は難しいことでもありますね」


「四つ目――誰も見ていない時でも、正しく行動する。仲間が見てるかどうかじゃなくて、自分の中の基準でね」


「……信義とは、内にあるべきもの、ということですね」


茜は頷いて、続けた。


「五つ目――間違えたら、正しい道に戻ることを恐れない。失敗しても修正すればいいんだよ」


「……それは心に響きます。迷う者への光です」


「六つ目――真実を語る。嘘が重なれば、共同体は崩れるからね」


「はい」


「七つ目――仲間の妻を奪わない。家族を壊す行為は、共同体全体を壊す」


モーゼは少し眉をひそめ、厳粛に頷いた。


「八つ目――仲間の尊厳を傷つけない。言葉でも行動でも、相手の人格は大事にしなきゃね」


「誠に……そのとおりです」


「九つ目――導き手を信頼し、無暗に逆らわない。もちろん全肯定って意味じゃないけど、信頼関係がないと何も進まないから」


「……重い言葉です」


「十個目、最後――仲間の命を守るためには、力を合わせて、必要なときは勇気を出す。助け合いの基本かな」


茜が言い終えると、モーゼは深く息をつき、静かに言った。


「……非常に分かりやすい。しかも、どれも我々の現実に即した規範です。このような“十の約束”であれば、我々の民もきっと納得し、受け入れるでしょう」


振り返れば、他のヘブライ人たちも皆、黙って耳を傾けていた。そして、誰からともなく小さくうなずく動作が連鎖のように広がっていった。その様子を見た茜は、口元に微かな笑みを浮かべながら、ふと心のなかでひとりごちた。


(……まぁ、“十戒”そのまんまってわけじゃないし、大丈夫でしょ。多分)


その軽い考えが、やがて歴史の原型を形づくるとは、今の彼女にはまだ知る由もなかった。


茜達一行はついに紅海に到着した。風は乾き、太陽は既に東の空を高く登りつつあったが、眼前には堂々たる海の広がりが道を塞いでいる。モーゼは馬上からその光景を見つめ、小さく首をかしげた。


「……少し、南へ行きすぎたようですね。もう少し北上すれば浅瀬があるかと」


「んー、いや、大丈夫。ここで合ってるよ」


茜は懐から戦況盤を取り出し、潮汐の表示に目を凝らす。盤上には、月と海面のリズムが示されており、茜はそこに確信を得ると、涼しい顔でモーゼに言った。


「あと4時間待って。そうしたら通れるようになるから」


「え……ここを……ですか?」


モーゼの目には信じられないと書いてあったが、茜は飄々とした調子で馬を降り、波打ち際にゆっくりと歩いていった。彼女に倣ってエンへドゥアンナも馬から降り、足元の砂を確かめるようにしゃがみ込む。


「茜、まさか……本当に、ここを渡るおつもりですか?」


「うん、だってこのあと潮が引くから。時間さえ合わせれば、普通に歩いて渡れるよ。干潮の力ってすごいんだから」


モーゼをはじめ、ヘブライ人たちはただただ呆然として海を見つめていたが、しばらくすると、目の前の潮が少しずつ後退し始めているのが誰の目にも分かるようになった。


「……っ! 潮が……引いていく……?」


その変化を最初に指さしたのはモーゼの仲間の一人だった。たしかに、さっきまで波打っていた場所に、じわじわと乾いた砂地が姿を現しつつある。


「アカーネ様……これは……これは神の御業……」


モーゼの声が震え、膝を折ろうとしたそのとき――


「アカーネ様が、海をこじ開けられた……!」


エンへドゥアンナがさも当然のように叫び、記録をしていく。


「いや、ちょっと待って? それ、ちゃんと“干潮”って書いてよね?“神の声で海が割れた”とか、そういう表現やめて?」


茜は焦りの色を浮かべながら、エンへドゥアンナの手元を覗き込む。だが、すでに彼女の筆は優雅にこう綴っていた。


『天上の神、アカーネの声が響き、海は割れ、海の床があらわとなり、民に道を与えた』


「いやいやいやいや!! 完全にアウトでしょそれ!!」


挿絵(By みてみん)


茜は全力で止めにかかるが、エンへドゥアンナは「私は神話編纂担当ですから」とどこ吹く風。しかもその記録を、背後でモーゼが静かに読んでおり――


「……“海が割れて、道が生まれた”……これは……」


モーゼは深く頷いた。


(やばい、これ絶対あとで“杖をかかげて海を割った”とかいう話になるやつだ……!)


茜は内心で頭を抱えながら、それでも今は渡ることが最優先と自分に言い聞かせた。


「とにかく! この状態は長く続かないから、急いで! あと1~2時間で潮が戻るよ!」


そう言うやいなや、茜は再び馬に飛び乗り、砂浜へと踏み出した。潮が引いて露出した浜辺をまっすぐ突き進む。モーゼとその仲間たちも、それに従い馬を駆る。初めての体験にややおののきつつも、彼らは不思議な静けさに満ちた“海の道”を通り抜けていった。


約一時間後――


一行が向こう岸に到達した頃、遠くで波が音を立て、次第に引いていた海水が戻り始めていた。後続の馬の蹄が少しだけ海水に触れるほどまで潮が戻ってきていたが、全員無事に渡り終えることができた。モーゼは、しばらくその場所から動かなかった。そして、背後で再び海が満ち始める様子を見ながら、深く膝をつく。


「アカーネ様……私は唯一なる神しか信じぬ者ですが……今日のこと、私は生涯忘れません」


「いや、だからね? ただの干潮! ナチュラルな干潮だから! 杖も上げてないし、海も割ってないって!」


茜は手を振って全否定するが――茜の後ろに居たエンへドゥアンナはというと


「『神アカーネが天に命じ、海が割れ、我らに道を示した』……っと」


「ちょっと!! あんた、それやめなさいって! マジでシャレにならないから!!」


だが、そんな茜の声は、海のさざ波とともにどこかへ流されていった。そして――モーゼはその神話的記述に、そっと指をなぞり、心に深く刻んでいた。


紅海を渡り終えた茜たちは、そのままシナイ半島を西から東へと横断し、数日後には再び紅海の沿岸へとたどり着いた。朝靄の中、青く澄んだ海が光を反射し、静かに眼前に広がっていた。その海を見て、モーゼが不安げに声を上げる。


「アカーネ様……再び、海を渡られるのですか?」


だが、茜は首を横に振り、にっこりと笑った。


「ううん、もう渡らなくていいよ。目的地はこの先、ずっと北にあるんだ。ここからは紅海に沿って進んでいこう」


その言葉に、モーゼだけでなく彼に従うヘブライ人たちの顔にも、安堵と高揚の入り混じった表情が浮かんだ。先が見えない漂泊の旅ではなく、いま確かに“目的地”へ向かっているという実感が、彼らの歩みに力を与えていた。アカバ湾を北上すること数日。前方に荒涼とした岩山が連なる場所が見えてきた。茜は前方を指さしながら、全員に告げる。


「今日はあの岩山の麓で野営しよう。あの岩山を越えた先が――“約束の地”だからね」


その言葉に、疲労が色濃かった一行の顔が、一瞬にして明るくなる。火を囲んで笑い、簡素な料理を分かち合いながら、今夜の野営地には希望と歓喜が満ちていた。しかしその中で、モーゼは一人だけ焚き火から少し離れ、膝の上に粘土板を乗せて何かを黙々と彫り込んでいた。


「モーゼ? 何やってるの?」


手に食べかけのパンを持ったまま、茜が不思議そうに問いかける。


「場所だったらさ、エンへドゥアンナが記録している地図を渡してあげるから、そんなに丁寧に掘らなくても――」


だが、モーゼは粘土板から目を離さず、静かに答えた。


「いえ、アカーネ様。これは、あなたが旅の中で我らに授けてくださった“十の約束”を記録しているのです」


「……十の約束?」


そう聞き返した茜の脳裏に、数日前に騎馬の上で何気なく口にしたあの即興ルールがよみがえった。


――“弱き者を守る”“争いは話し合いで解決”――あれか。


「えっ、それってそんなちゃんと書き残すようなことだった?」


茜が半ば冗談めかして笑うと、モーゼは神妙な面持ちで粘土板を掲げて見せた。そこには、丁寧に刻まれた文字列が並んでいた。


「簡潔で、しかし心に届く内容でした。我らのように民として生まれ、まだ律を持たぬ者たちにとって、これはまさに礎となるべき言葉です」


「……マジか……」


その真剣な眼差しに茜が口をつぐむと、焚き火の向こうからエンへドゥアンナがにやりと笑った。


「ふふ、茜は何気なく語っていましたけど……あの“十の約束”は、後の時代に語り継がれる可能性もありますよ?」


「やめて、もうそういうのは十分だし、あんたも変な神話にして残さないでよ!」


そう言いながら、茜は少し照れくさそうに肩をすくめ、それから思いついたように言った。


「ねぇモーゼ、それさ。私の分も一枚作ってくれない? せっかくだし、あなたのサイン入りで。記念に欲しいなって」


モーゼは顔を上げると、すぐに静かに頷いた。


「もちろんです。アカーネ様と共に旅した証を、私の手で刻みます」


「ありがとう、モーゼ!」


茜は心からの笑顔を見せながらも――内心では、別のことを考えていた。


(……いや、これさ。マジでヤバいって。これ、世界の博物館が血眼になって探すレベルの“原典”じゃん。モーゼの直筆サイン入り“十の約束”の粘土板……世界遺産クラスの超お宝確定。令和に戻ったら、キリスト教だけではなくイスラム教だって欲しがるお宝になるよね)


満足げに、唇の端を釣り上げながらパンをかじる。焚き火の炎が、その表情に揺れる光を落としていた。


夜明け前の静けさのなか、茜とモーゼたちは岩山の麓に集合していた。昨日、ティムナ渓谷で野営した後、彼らは明朝の登攀を約束し、わずかな仮眠を取ってから再び馬を降りて歩き出していた。空はまだ薄青く、星がかろうじて残っている。足元には岩と砂ばかりの荒涼とした岩肌が続き、乾いた風が細く吹きつける。先頭を歩く茜の後ろに、静かに従うモーゼと12人のヘブライ人たち。そしてその背中を、エンへドゥアンナが詩人の眼差しでじっと見つめていた。


「さあ、これで山頂。そこで、あなたたちの“約束の地”が見えるはずだよ」


まだ薄暗い岩山の山頂に一行が到着し、茜の声が響いた直後だった。突如、山を撫でるように激しい風が吹き下ろした。細かな砂粒が渦巻き、茜もモーゼたちも思わず目を覆う。布を顔に当てながら、茜が「これ、風が強すぎる…」と苦笑する中、岩肌に叩きつけられた砂がしばし空気を白濁させた。


そして――


その風が去った一瞬の後、東の空から黄金の陽光が射し込む。荒涼とした岩山の先、セイル山の麓に広がる平原に、光がすっと流れ込んでいった。朝靄が揺らめく中、まるで風と光が砂を洗い流すように、目の前に見事な緑と土の大地が広がり始める。


「ほら、あれが――あなたたちの“約束の地”」


茜は笑顔で指さす。長く乾いた旅の終わりにようやく姿を現した目的地を、晴れやかな声で告げた。だが、その横顔を見つめる一同は、まったく違う意味で息を呑んでいた。


「……アカーネ様の風が……大地を切り開かれた……」


エンへドゥアンナが、手元の記録板に急ぎ走り書きをしながら呟く。


「アカーネの息吹により、山々が割れ、大地が現れた。そして神はその大地を、約束として民に与え給うた――」


その詩的で神話めいた一節に、モーゼをはじめとしたヘブライ人たちも深く頷いた。


「アカーネ様……貴方様は、我らの神が地上に姿を現された、その化身であったのですね……」


「我らヘブライの民に、大地を分け与えるため、ここに降臨されたのですね……」


そして、一人、また一人と、膝をつき、頭を垂れ、最後には全員が整然と茜の前にひれ伏していた。


「ちょっ……ちょっと待って!? やめて、ほんとにやめてー!!」


慌てふためく茜は両手をばたばたと振って否定する。


「私はあなたたちの神じゃないし、化身でもなんでもないから! ただ干潮を読んで案内して、ここに連れてきただけなの! たまたま風が吹いて、タイミングが良かっただけだからーっ!」


エンへドゥアンナを睨みつけるようにして言うが、彼女は平然とした顔で記録を続けていた。


「……アカーネの声が風を呼び、地形を開いた……神、民を導きて、道を成す……完璧ですね」


「完璧じゃない!! なんでこうなるの!? ちゃんと“自然現象”って書いといてってばー!!」


茜の叫びは、岩山に虚しく反響し――


(まだ手はある…)


どこか現実感のない夢の中にいるような気持ちすら覚えつつ、茜はひとつ息を吸い込んだ。


「ねぇ、モーゼ」


膝をついたままのモーゼが顔を上げる。その眼差しには、敬愛と崇拝、そしてある種の運命への確信が宿っていた。


「ここが“約束の地”だよ。貴方たちが、これから少しずつ慣れていって、住まっていく土地になるはず。ぺル=ラムセスでの生活が安定してるなら、いきなり全員で移住しなくていい。まずは見たい人、来たい人だけで、少しずつでいいの。時間をかけてね」


淡々と語るその声に、モーゼは深く頷いた。


「分かりました、アカーネ様。皆を徐々に導くよう努めましょう」


茜は一呼吸おいて、口調をやや強めた。


「でもね、これだけはお願い。私の名前は、あなたたちの記録から消しておいて。私は案内しただけ。貴方たちの導き手は、貴方――モーゼだよ。歴史に残るのは、あなたでいい」


その言葉を聞いた瞬間、モーゼは目を見開いた。そして次の瞬間には、真摯な声で誓った。


「承知いたしました。神の仮の御名を記録に記すようなこと、決して致しません。貴方様の導き、我らの神の意志と重なるものでしたが、名は封じましょう。ですが、その記憶――この旅、海の道、朝の風、約束の地の光――それらは、我らの魂に深く刻まれ、我らの子々孫々へと必ず語り継ぎます」


茜は満足そうに微笑んだ。


「うん、それでお願いね。じゃあ――任務完了。私の役目はここまでだよ。帰ろう、ぺル=ラムセスに」


そう言って、茜は軽やかに背を向け、来た道を戻りはじめる。


その後ろ姿を静かに見送るモーゼに、茜はひとつだけ指示を追加した。


「この場所に来る道の記録は、エンへドゥアンナが残してくれてると思うから。あとで彼女からもらってね」


それを受けて、エンへドゥアンナが膝をつきながらも優雅に頷く。


「分かりました。私の記録を粘土板に写し取って、お渡しいたします。」


茜はただ小さく手を振ると、光の尾のような朝の陽を背に受けて、岩山の稜線を下っていった。


その姿が見えなくなってから、モーゼはそっと胸に手を当て、天を仰いだ。


「我らのために海を割き、風を呼び、地を開いてくださった御方……アカーネ様……貴方が我らの神でなかったなどと、誰が否定できよう」


そしてゆっくりと語る。


「その名は残さぬよう命じられた。しかし……記憶のなかで、我らはその名を忘れぬ。我らの信仰の起点において、貴方の御姿を、物語として語り継いでいきましょう」


彼は静かにエンへドゥアンナの方を向く。


「エンへドゥアンナ様、この旅の全記録をどうかお渡しください。我らは、その全てを、決して歪めることなく、後の世に伝えていきたいのです」


エンへドゥアンナは、静かに頷いた。


「ええ。私は神話を記す者。すべてを貴方に託しましょう。名を記さずとも、魂が宿るその記録――確かに、あなた方に手渡します」


こうして、神の名を持たぬ神の物語は、静かに、確かに――“民の記憶”として刻まれる事となった。


挿絵(By みてみん)


約束の地から約2週間。


乾いた風と陽の光に晒されながらも、茜たちの一行は無事にぺル=ラムセスの城門前へと戻ってきた。城門を見上げるヘブライ人たちの目には、懐かしさと安堵の色が浮かび、彼らの顔に自然と笑みが広がる。茜も、どこかホッとしたように馬上で肩をほぐし、神殿の尖塔を遠くに認めると「帰ってきたね」と小さく呟いた。


そして――門前。


風に砂をはらいながら、モーゼたちと茜はそこで最後の別れを交わす。モーゼは静かに茜の前に進み出ると、深く頭を垂れた。


「アカーネ様。エンへドゥアンナ様からの記録は、確かに受け取っております。そして、今回の旅路――導きのすべて。私はこの命のある限り、決して忘れることはないでしょう」


そう述べると、モーゼは背から取り出した細長い布包みを、丁重に茜へ差し出した。


「我らには、アカーネ様にお返しできるような財も地位もありません。しかし――せめて、感謝の印として。どうか、これをお納めください」


茜が受け取ったその包みをそっと開くと、中から現れたのは――ひときわ丁寧に焼成された、素焼きの粘土製の円筒印章。茜の目が驚きと共に見開かれる。表面には繊細な古代ヘブライ語の線刻でこう刻まれていた。


「我らが旅し、契りし者へ」


その一文の脇には、モーゼ自身の象徴とされる古代ヘブライ語の署名様の記号。さらにその周囲には、今回の旅に同行した12人の仲間を象徴する紋様が刻まれている。そして中心には、見紛うことなき茜の風の紋章が、堂々と刻まれていた。芸術的な完成度もさることながら、そこに込められた誠意と敬意が、茜の胸をじんわりと打つ。


「……すごい……これ、すごいよモーゼ……こんなに精細で、しかも旅の全員分の印まで……」


茜は印章を両手で大切に抱えながら、柔らかく笑った。


「ありがとう、モーゼ。こっちもすごく楽しかったよ。また何かあったら、遠慮なくアカーネ神殿に来てね。何でも話を聞くからさ」


モーゼは深々と頭を下げ、同行していた12人の仲間たちも無言でそれに倣う。その敬虔な姿に、茜は笑顔のまま小さく頭を下げて応えた。やがて、モーゼと仲間たちは城門の通りへと姿を消していく。茜はその背中をしばらく見送ってから、手にした印章を胸に当てて小さく呟いた。


「……これ、絶対に宝物にしよう。キラキラしていなくても今回の旅の大事な思い出だから」


そうして、茜もまた、アカーネ神殿のある方向へと、軽やかな足取りで歩き出した。


アカーネ神殿の大理石の門扉をくぐった瞬間――

茜は、待ち構えていた人物の姿に気づいた。


「主、ようやくお戻りのようですが……楽しかったですか?」


冷ややかに腕を組み、隅々まで整えられた衣装を乱すことなく立つその姿は、言うまでもなくリュシアである。


「こちらも報告すべきことが山のようにありますが……まずは、主の成果はいかがでしたか?」


軽く詰めるような声色に、茜は気まずさも見せず、にっこり笑って手をひらひら。


「上々よ! ちゃんとモーゼたちを約束の地まで案内できたし、向こうも感謝してくれてたし。記録もエンへドゥアンナのがあるから、もう自分たちで行けるようになると思う。それにね、ねっ、見て見て~! じゃーん♪」


そう言って茜が懐から取り出したのは――焼成された粘土の円筒印章と、十の約束が刻まれたモーゼの署名入り粘土板だった。


「これ、旅のお礼にもらったの! しかもモーゼの署名入り! お宝の価値、マックスでしょ? まぁ、“十戒”とはちょっと違う普通のお約束だけど、それでもかなり貴重だよね~」


茜が得意げに掲げて見せるのを見て、リュシアの顔からスッと表情が消える。


「……主」


無言のまま頭を押さえ、深くため息をつく。


「その“お宝”、どれほどの爆弾か、理解されていらっしゃいますか?」


「爆弾って、大げさな~。ただの約束事が書かれた粘土板と、素焼きの円筒印章でしょ?」


茜が笑いながら言うと、リュシアは厳しい目で真顔のまま続けた。


「その“約束”が、この後の歴史でどれほどの影響を及ぼすか――主は想像されていませんね。

その十の約束は歴史と共に少しずつ変化していき、千年以上後、ローマ帝国時代には“十戒”として形を変え、宗教体系の根幹になります。そのオリジナルを――しかもモーゼの直筆入りで主が持っているなどという事実が、もし後の時代に露見すれば……ニケーア公会議で提示された瞬間、キリスト教の教義は根底から崩壊しかねません」


「えぇ……また“売れないお宝”が増えちゃったよ……」と茜は渋い顔で粘土板を見つめる。


リュシアの説教は止まらない。


「さらにその円筒印章――これは、主がモーゼたちと共に旅をし、約束の地へと導いた“証拠”です。つまり“シナイ契約”の神話的起源を、単なる“旅の誓約”だったと示すことになります。それに伴って、当然“新しい契約”を掲げたイエスの教義も揺らぐでしょう。主……これは完全に封印しなければならない“宗教的爆弾”です。絶対に外に出してはなりません」


「こっちも売れない……」


茜が肩をすくめると、エンへドゥアンナが何食わぬ顔で口を挟む。


「でも、私はちゃんと旅の記録もモーゼ様たちに渡してますから、茜の神話はしっかり彼らの中に残ると思いますよ」


「……へ? ちょ、ちょっと待ってエンへドゥアンナ。それって“地図の記録”のことだよね?」


茜が慌てて聞き返すと、エンへドゥアンナは悪びれず首を横に振る。


「いえ、今回の旅の記録“すべて”です。神話としてまとめましたから、海を割り、風によって平野を創りし神――アカーネの神話として、ヘブライ民族にきっと伝わっていくことでしょう」


「それダメじゃんっ!! それがダメだって言ってるのにぃぃぃっ!」


茜が両手で頭を抱える中、リュシアは決定打を突きつけるように言った。


「なるほど……主が“海を割り”“約束の地を開いた”とする記録が、ヘブライ民族の中に残るとは。おめでとうございます、主。間違いなく上位神に昇格するでしょうね。皮肉抜きに、ですが」


「……反省しています……」


神殿の静寂のなか、茜はしおしおと頭を垂れた。粘土板と印章の入った包みを、そっと神殿の宝物庫の奥へと抱えて運びながら。


その背に、どこか哀愁が漂っていた。

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