3-3:八方塞がりの囚われ姫(1)
「俺がお嬢さんに恋すれば、枷を外してあげたくなるかもしれない。愛する人に、こんな酷い仕打ちは出来ないからね」
(……何を言ってるんだろうか、この人は)
包帯を巻き終え、王子が顔を上げる。
嫌悪に満ちた表情を返してやると、肩をすくめられた。
「そんな冷めた視線が返ってくるとは」
「どんな視線を期待したんです?」
「もっと、恥じらいのある可愛らしい……、うん、ごめん」
(そもそも、色仕掛けなんてやろうと思って出来るものじゃない)
百万歩譲って出来たとしても、この外道相手にすり寄る姿を想像するだけで、おぞましい。
恋だの愛だの、もってのほかだ。
「でも、考えてごらん。他に逃げ出す方法はある?」
「……王子の隙をついて奇襲の方がまだ現実味があります」
「日々暗殺者に狙われたおかげで常時警戒態勢が癖になったこの俺に、奇襲?」
「隙のない人間なんていません」
「一般人と王子を一緒に考えるのは愚策だと思うよ? ま、いいけどね」
(ああ……詰んだ)
だが、諦めるわけにはいかない。
胸のうちで密かに燃えたぎる闘志を、拳を握って閉じ込めた。
◆ ◆ ◆
息と、存在感を殺して、歩を進める。
足の鎖が音を立てないよう、慎重に、慎重に。
向かう先にいるのは、ソファーに寝転んだ王子だ。
目を閉じ、安らかに呼吸を繰り返すその姿は、無防備で……。
起こさないよう、ゆっくり、そっと、手を伸ばす。
おそらく枷の鍵が入っているだろう、ズボンのポケットへ――指先が触れるより先に、手首を掴まれた。
「お嬢さん、俺に構ってほしいの?」
「……っ!」
「それならそうと言ってほしいな。いくらでも相手してあげるから」
(今日は絶対、行けると思ったのに……!)
王子が上半身を起こし、勝者の余裕を見せつけるように指先に口づける。
全力で手を引いても、やっぱり力では敵わない。
「この、セクハラ王子!」
「敗者への罰だ――って、これ何回言わせるつもり?」
足枷を外し逃げ出すための試行錯誤を重ねること、早3日目……状況は泣きたくなるほど変わっていない。
常時目を光らせているが、毎回毎回、失敗してはこの有様だ。
闘志に燃えていた心も、早々に折れかけている。
「これで、通算何回目の敗北?」
「数えてるわけないでしょう」
「数えきれないほど敗北して、それでも諦めないお嬢さんを俺は尊敬するよ」
ぱくっと指先に歯を立てられ、舌先でくすぐられる。
怒りと羞恥を起爆剤に変えて必死に抵抗するが、これもまた無意味な結果に終わってしまった。
「ほんとにやめて! 気持ち悪い……!」
「……気持ち悪いは傷つくな」
「痛っ」
少しだけ強い力で噛まれ、顔をしかめる。
疼く指先は、敗者の烙印だ。涙は出ないが、ただただ腹が立つ。
(悔しい……どうすれば、鍵を奪えるんだろう)
忌々しい唇が離れ、目に淡い歯型が飛び込んでくる。
これでも十分な罰だと思うが、手はまだ解放されない。
「いい加減、色仕掛けが一番有効だって自覚しなよ」
「またその話ですか?」
「君のためを思って助言してるんだよ。今は指だけで済ませてあげてるけど、そのうち身体中に噛み跡つけてくから」
「……あなたは、何でもかんでも噛まないと気が済まない赤ん坊ですか」
「大人の戯れってやつを知らないの?」
「知りませんし、知りたくもありません」
「ピュアだね、お嬢さんは」
(王子がただれてるだけだと思う)
睨みつけても、爽やかな笑みでかわされる。
ぷちんと何かが切れかけた時、リビングのドアが開いた。
「殿下、リラには手を出さない約束では?」
現れたのは、分厚い書類を抱えたシルヴァンだ。
朝焼けに憂いを乗せた瞳が、静かに王子を見据える。
「こんなの、手を出すうちには入らないでしょ」
「王宮と世間では感覚にずれがありますので、お気をつけください」
「はいはい」
「それから、こちらの書類すべて確認しました」
「ご苦労さま。早く持って帰って」
昨晩、颯爽とアトリエに現れたシルヴァンは、王子に大量の書類を運んできた。
それを徹夜で片し、疲労困憊状態だった王子に奇襲をかけたのだが……。
(思い出すと心が折れそうになるから、やめよう)
離された手を、素早く自分に引き寄せる。
もう二度と、噛まれるのはごめんだ。
「ところで、亡命の準備は進んでる?」
「革命軍の抑制と平行してやってますので、進展はなんとも。現在は、亡命先の準備を進めています」
「あとどのくらい掛かりそう?」
「早くて、一ヶ月かと」
「うん、まあ妥当だね」
(残された期間は、一ヶ月)
長くも短くもないこの期間内に、逃げ出せなければリラの負けだ。
敗北はすなわち、国の崩壊を意味する。
(シルヴァン様も、それはわかってるはずなのに……)
人形のように端正で、感情のない表情からは何も読み取れない。
不躾なほど視線を注ぐと、青い瞳と目が合った。
「リラ……君は、何もしなくていい」
「え?」
「余計なことはするな」
シルヴァンが伏せた視線の先には、未だ包帯のとれない足がある。
「ですが、シルヴァン様――」
「口答えは許さない」
「……っ」
「いい、リラ?」
(なんで……)
威圧感を伴う念押しに、無言で頷く。
パトロンの言葉に逆らってはいけないという条件反射が、反論の言葉を喉の奥に押し込めた。
(私がやってることは、シルヴァン様にとって無意味なの……?)
迷惑をかける存在にはなりたくないのに。
お前には何も期待していないと宣言されたようで、胸が軋む。
(心配されてるのか、失望されてるのか、呆れられてるのか……読めないから、余計に怖い)
俯き、唇を噛みしめると――今度は、外に繋がるドアがバンと音を立てて開いた。
「シルヴァン様、絵画の荷積みが完了しました」
「ん」
(そうだ……エリカもいた)
シルヴァンが書類を確認する間、エリカはアトリエにあった絵画を馬車に運び入れていたのだ。
公爵家に納品したものは数枚あったはずだが、滞りなく終わったらしい。
「あっ、シルヴァン様、その書類は俺が持ちますよ……!」
「いや、お前は――」
淡々とした声を、派手な転倒音が遮ってしまう。
(え……)
何かにつまずいたわけでもない。
普段、ドジをするような人でもない。
それでも、エリカは盛大に転んで床に沈んでしまった。
「だ、大丈夫?」
「…………はい」
「ははっ、派手に転んだな」
「笑いごとじゃないでしょう」
腹を抱えて笑いだす王子を尻目に、エリカのそばに膝をつく。
手を差し出すと、沈んでいた顔が持ち上がり……思わず、息を呑んだ。
「ひ、ひどい隈……だね」
「なに、エリカも寝不足? 俺と一緒だね」
「一緒にしないでください、殺しますよ」
「シルヴァン。王子に対するこの暴言、執事の教育が行き届いてないんじゃない?」
「そんなことはどうでもいいんです! エリカ、何かあったの?」
(寝不足で弱ってるエリカなんて、はじめて見た)
身体を起こしたエリカが、どこか気まずげに髪を掻く。
「こんなこと、お嬢様にはあまり言いたくないんですが……昨夜、公爵家で行方不明事件が起こったんです」