5.おじさんとポチととんかつ
翌日も綺麗な青空。ぼんやり窓の外を見つめ、普段と何も変わらない風景。
それなのに、胸の奥が浮き足立っている気持ちは何なの?
アツヤのデートがそんな気持ちにさせるはずもない。
もしかして、トモに会いに行くと決めたから?トモに会えるのが、こんな気持ちにさせるの?
バカじゃないの?この私が、TDHにときめくはずもない。
「行ってきます。」
午後一時、昼食を遠慮して、家を出る。道に出た所でばったり散歩中のおじさんとポチと鉢合わせ。
あたしは窓から見ているけど、こんな近くでの遭遇は初めて。
知り合いでもないし、すれ違うだけだろう。
「こんにちは。」
人の良い笑顔のおじさんと嬉しそうに尻尾を振るポチ。
「あっ、こんにちは。」
あたしもびっくりしながら、小さなお辞儀。
足元の何かぬくもりを感じ、見下げると、ポチが尻尾を振りながら、あたしの足元に纏わり着いている。
「こら、ポチ。すみません。美人が大好きな犬で…。」
「ポチって名前なんですか?」
「えぇ。」
笑いを噛み殺すのがやっとだ。おじさんが首を捻りながら、頷く。
あたしはスカートの裾を気にしながらしゃがみこみ、ポチの頭を撫でた。
「いつもポチと散歩されているんですね。」
「えぇ、足腰が弱らないために、ポチに付き合って貰っているんですよ。」
「今日は一匹だけですか?」
おじさんを見上げながら、聞いてみた。疑問を晴らすチャンスだ。
「とりあえず、歩きましょう。何処か行くところだったんでしょう?」
「えぇ。」
おじさんとあたしの横にはポチが離れずにいて、歩き出す。
「鵜飼いのように小型の犬を連れているのをご覧になったんですか?」
「えぇ。目立ちますよね?」
「近所の、ポチの親の飼い主が新しく飼い始めた犬の貰い先のわんちゃん達なんですよ。」
「…随分、遠いですよね?」
「ほとんど関係はないですね。」
おじさんとあたしは苦笑い。
うん、これしか出来ないよね?
「あっ、じゃあ。私、こっちなんで。」
これ以上、話を広げるのは無理だ。と思った所で、丁度分岐点。
ナイスだ。
「また、会う事があったら、声を掛けてください。美人さん。」
「失礼します。」
小さな路地を左に折れ、振り返ると、おじさんとポチは立ち止まったまま、あたしに手を振ってくれている。まぁ、いいわ。行きましょう。
トモが言っていた場所に辿り着き、空に大きく手を伸ばし、深呼吸。
相変わらず、趣味の良くない藤本の看板。
富士山と本のイラスト。それでフジホンと読ませる。まぁ、ヤマホンとも読めてしまいそうだけれど。
うぅん。何?その横のますます趣味の悪い看板。豚の顔に太陽?これが、トモが働いている、トンカツ屋?ブタイヨウとでも読むのかしら?はぁ、この看板、どうにかならないかしら?まぁ、トモのお父さんの趣味らしいけど、トモでさえ苦笑しているくらいだから…。
「ふぅん。看板は別としても店舗は綺麗でなかなかじゃない?」
入り口には営業中の木の札。建物全体の温かな木のぬくもり。
「いらっしゃいませ。」
ドアを開けると、数人のお客がいるだけ。元気良く入り口に出てきたのは、可愛い顔した二十代前半位の男の子。
「お一人様ですか?」
「えぇ。」
「こちらへどうぞ。」
調理室が覗ける場所にあるカウンターに案内される。
「注文が決まりましたら、お呼びください。」
彼が下がる前にトモに伝言を頼もうかと思うけど、未だお客さんもいるし、もう少し経ってからでもいい。ちょっと、ここから仕事をしているトモを覗き見するのも楽しいだろう。
あぁ、真剣な顔であんなに汗掻いて。
「店長。」
ガラス越しにさっきの案内してくれた男の子の少し興奮した声。
「すげぇ美人のお客様が。それもお一人で。珍しいですよね?」
「あぁ、セイコか。」
何で、美人と言うだけであたしだと思う訳?確かにあたしは美人だけれど。
「えっ、店長のお知り合いですか?もしかして、彼女なんですか?店長も隅に置けないなぁ。紹介してくださいよ。」
「彼女じゃないよ。友達だよ。」
チクン。何?この胸の痛み。
冗談でしょう?トモは間違った事を言っていないし、彼女なんて言われるなんて、冗談じゃないわ。
「えぇ、そうなんですか?もったいない。」
彼が残念そうに呟く。まるで自分の事みたいに。
二人の視線がこっちに向き、急いでメニューを開いた。
「セイコ、決まったか?そろそろ、油を落とそうと思うんだ。」
「じゃあ、トモのお勧めのメニューでお願い。任せるわ。」
「あぁ、わかった。」
トモが厨房から顔を覗かせ、あたしの答えを聞くと、さっさと戻っていく。席を案内してくれた青年が外に出て、看板を準備中にひっくり返した。
「お待たせしました。」
十分後にあたしの手元にヒレカツ定食が出される。届けに来たのは、二十代半ばの女性。髪を後ろにしばり、化粧気はないが、清潔そうな印象の人。
「ありがとう。」
彼女があたしの前とその横に一つ同じ物を置く。
「あのぉ。」
彼女はお盆から解放された手を胸の前で合わせ、指を弄んでいる。
「はい?」
「あの、店長とお付き合いなさっているんですか?」
「店長?あぁ、トモの事ね。」
彼女は、トモの事が好きなのね、きっと。
胸の奥がチクリと痛みを帯びた。だから、これは気のせいだってば。
「そう言う場合、自分の事を先に伝えるのが礼儀じゃないの?」
彼女が言いたい事はわかっている。でも、あたしがわざわざ何かを言う必要がある?
「いえ、あの…。」
彼女は返答に困り、視線を落とす。
「私、あの…。」
どうして、こんなに純情なんだろう?TDHなのに、気にならないの?
「私は、ここのお店で働いています。それで、店長を慕っています。でも、それは私の完全な片想いで、もし、貴方が店長の恋人なら、私…。」
「何?」
「迷惑だから、諦めようと思います。貴方みたいに綺麗な女性に勝てるはずがないもの。」
彼女は耳まで赤く染め、視線を落とす。
「そう。そんな簡単な気持ちなら、さっさと諦めた方がいいわ。それで、自分に見合った男を見出した方がいいわね。」
「えっ?」
彼女が驚いた顔で、あたしに視線を向ける。
「そうでしょう?本当に好きなら、そんな簡単に諦めるなんて口にするかしら?好きなら、奪う位の気迫を持つのが普通でしょう。」
彼女に言ったはずの言葉なのに、やけに自分の心に突き刺さる言葉。
最近、誰かから奪いたいと願う位、誰かを好きになった事あった?
どの男もあたしに寄ってきた。一度も自分から近付いたりはしていない。
そう。あたしは、恋をしていなかったのかもしれない。恋に似たゲームを楽しんでいただけね。
「ありがとうございます。」
「えっ?」
彼女がにっこりと笑みを零し、深くお辞儀をする。
「貴方は凄く素敵な女性ですね。私、貴方に憧れてしまいました。これからもちょくちょく遊びに来て、色々、話をしてください。」
「えっ、あの、何?」
まったく、彼女の言っている意味が掴めない。
何なの?この子。
「私、白河春美と申します。二十五歳です。よろしくお願いします。」
「あっ、あたしは、藤堂星子。」
「セイコさんですね。じゃあ、また。」
意味がわからずに、とりあえず自己紹介をしてしまった。
まぁ、いいわ。
彼女と入れ替わりにトモが姿を現す。白い調理服を脱ぎ、淡いグレーのTシャツと黒いパンツ姿。
「どうした?」
「ううん。何でもない。」
「ぼんやりしているぞ。」
「うん。彼女、何?」
「あぁ、彼女はここでアルバイトをしてくれている子だよ。白河春美さん。」
「ふぅん。面白い子ね。」
「何かあったのか?」
「彼女に憧れを持たれちゃった。素敵な女性ですねって。」
「何だ?それ?何をしたんだ?」
「別に。」
トモが首を捻りながら、あたしの横に腰掛ける。よく見回すと、店内にはお客さんの姿はない。
「もう、終わり?」
「あぁ、昼休み。彼女達もお昼に出かけた。」
「そう。」
って事は、ここに二人きり?
まぁ、こんな体型になったトモと何かがあるはずもない。
「いただきます。」
割り箸を二つに割り、食べる準備を整える。トンカツなんて久しぶりかも。
「ソースは甘口、辛口?それとも大根おろしだけでいいのか?」
「じゃあ、二つだけソースをかける。一つは甘口、もう一つは辛口。あと、キャベツは胡麻ドレッシング。」
「はい、はい。」
トモが笑いながら、あたしの注文に答えてくれる。トモも同じように自分の前にトンカツにソースをかけていく。
「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
大根おろしにヒレカツを浸し、口に運ぶ。
「美味しい。」
カリッと仕上がった衣に齧りつくと、中から肉汁が染み出てくる。
「だろう?」
トモが頬の肉を緩め、微笑みを見せる。
「いつもトモはここで一人でお昼?」
「あぁ。家に帰っても誰がいる訳でもないし、ここで適当に。」
「夕食は家に帰るんでしょう?」
「あんまり。営業が九時までだから、遅くなるだろう。それで、適当にここで済ませてしまうんだ。」
「まさか、カツばかり食べているの?」
「さすがに、カツばかりじゃ、飽きるだろう。たまには違う物も作るよ。」
「だから、太ったのね。ちゃんと栄養バランスとか考えているの?」
あたしが何を言っているんだろう?
自分の栄養バランスなんて考えていないし、料理だってまともに作った事ないのに。
トモが渇いた笑いで誤魔化している。
「仕方がないな。このままじゃ、身体に悪いわ。あたしがお弁当を作ってきてあげる。もちろん、ダイエットメニューよ。」
「えっ?セイコが?」
疑いの眼差しを向けている。
確かに、あたしが料理を作るはずもない。自分でわかっているのに、何を言っているんだろう?
「このままでいたら、本当に身体に悪いわ。任せて。これでも主婦をしていた事もあるんだから。」
「悪いよ。」
「いいわよ。気にしなくても。結構、暇を持て余しているのよ。でも、あたしにもスケジュールがあるの。それが空いた時だけよ。」
「ありがとう。」
「それと、明日、美容室に行きましょう。その髪型をどうにかしないと。」
「えっ?」
「このままじゃ、一生独身よ。あたしがどうにかしてあげるわ。あたしのセンスの良さは知っているでしょう。それに、そんな風に中途半端に伸ばすから、余計に目立つのよ。」
「でも…。」
「でも、じゃない。わかった?」
「わかりました。セイコは言い出したら、止まらないからな。お任せします。」
「よろしい。」
あたし、何を言っているんだろう?でも、ついつい言葉が出ちゃうのよね。
まぁ、いいわ。あの子、ハルミちゃんのためと思って、やってあげましょう。きっと、驚くわね。
「でも、セイコ。急にどうして?」
「嫌なのよ。トモがこんな中途半端な姿。ただ、それだけ。」
「ありがとう。」
「あっ、それと、明日から午前七時起床。公園をウォーキングしましょう。慣れてきたら、ジョギングよ。」
「セイコも付き合ってくれるのか?」
「トモだけだったら、サボるでしょう。お店は十一時からだから、十時頃、店に来れば間に合うんでしょう?」
「あぁ。」
「じゃあ、七時半に公園前に集合。あっ、ダメね。トモがサボりそう。じゃあ、いいわ。トモの家に迎えに行くわ。」
「いや、いいよ。公園前で集合だな。」
「ちゃんと遅刻しないで来てよ。」
「セイコこそ、大丈夫なのか?」
「もちろんよ。」
七時に起床で、ウォーキング?どうして、こんな面倒な事を言い出してしまったんだろう?さっきから後悔している。
でも、女が一度言い出した事。簡単に引けないわ。
「じゃあ、決まりよ。徹底的にやるから、覚悟しておく事。」
「はぁい。あぁ、先が思い遣られる。」
トモが頭を抱え、溜息混じりに呟く。
「こんなになるまで放っておいた自分が悪いんでしょう。」
「はい、はい。」
困ったように、嬉しそうに微笑みを見せる。
この贅肉がなかったら、あの当時のルックスに近付けるはずだわ。そうしたら…。
何だと言うんだ?何を考えているんだろう。バカだわ。
「ご馳走様。」
話しながら食べていたら、お皿は空っぽ。時計に視線を落とし、立ち上がった。
アツヤとの待ち合わせ時間になるわ。
「帰るのか?」
「うん。友達と約束しているの。」
どうして、恋人と言わないの?友達なんて言い方をするの?
「そうか。」
「じゃあ、明日、七時半ね。あと、二時に美容室を予約しておく事。」
「美容室になんて行かないよ。」
「じゃあ、理容室でいいわ。」
「わかりました。」
「じゃあ、またね。ご馳走様。」
「これからよろしく。セイコ。」
「見間違える位にしてあげるわ。」
トモがあたしの背中を見送ってくれる。
何であんな事、言ったんだろう?まったく、自分の行動の不可解さに呆れるわ。どうして、トモのために、こんなに一生懸命、やってあげたいと思ったんだろう?
まぁ、いいわ。さて、アツヤとのデートに行かなくちゃね。義務っぽい言い草。何かアツヤと会うの、面倒臭くなっちゃったな。どうしようかなぁ。
そうだ。ダイエット本とお弁当の本を買って帰ろう。研究しなくちゃ。アツヤとのデートはキャンセルで決定。風邪を引いたとでも言いましょう。
あたしの足取りは軽くなり、隣の藤本に寄り、さっさと自宅に向かった。




