105. 誰の子でも、わたしはまったく気にしない
「殿下、ティールの封鎖解除について要請が来ていますが、拒否しますか?」
「そうだな、そうしてくれ」
部屋までの案内役を申し出たティールの領主は、「こちらがお部屋でございますが……」と言外に懸念を含ませ、ミランダに聞こえないよう声を潜めた。
「その……殿下。いくら信頼なさっているとはいえ、皇太子妃選定式の最中です。素性の知れぬ娘と同室というのは、やはり控えるべきかと」
「構わない。ティール滞在中は、好きにさせてやれ」
「ですが、殿下のお体のことまで知っているとなると――」
「彼女には命を救われた。安全を期したい」
説明はなく、「詮索は許さない」とセトに告げられてしまえば、それ以上言及することはできない。
領主は一礼し、黙してその場を後にした。
「セト様が女性だと、ご存じなのですね?」
「先の選定式で母を支持して以降、ずっと協力してくれている」
広々とした寝室に足を踏み入れるなり、壁一面を埋める書棚が目に飛び込んでくる。
表層が色褪せた古い歴史書に、帝国の法規文書。
机に広げられているのは航路図だろうか。
壁にはティール市内から帝国全土に及ぶ地図が掛けられており、長らく国境でアルディリアを足止めしていたセトらしい、軍人のような部屋だった。
「これは?」
一通りぐるりと見回して、ミランダは寝台の脇に積まれた書類に手を伸ばす。
そこには最低限ではあるが、来歴や罪状、人を特定できる程度の線画が描かれていた。
「お前が帝国に来るという情報を得て、身代わりを選出するため、絵師総動員で作らせたものだ。後の処分に困らないよう、女性の罪人を中心にまとめてある」
ページをめくるうち、見覚えのある顔に行き当たる。
「皇族への不敬罪と窺っていましたが……」
袋から零れ落ちたリンゴは不幸にも、ティールを訪れていた第三皇子エリアスの馬車の進路に転がった。
取ってつけたような理由で死罪を言い渡され、長らく監獄に放り込まれていたが、ミランダと近しい年齢と容姿から、急きょ身代わりとして選ばれたのだという。
二転三転、都合良く権力者に翻弄された彼女は今、ドナテラのもとで侍女として控えている。
「わたしの手配書はあるが、お前については一切言及されていない」
続けて示されたのは、皇帝暗殺の容疑で負われる身となった、セトの手配書だった。
エリアスにしてみれば、殺そうと毒を持った相手こそが本物のミランダ。
たまたま居合わせ、セトと共に逃げた者など後回しでいいと言うことなのだろう。
「一つ、お願いがございまして……女神の加護が顕現したと知られれば、動きにくくなります。ラゴンの封鎖が解除されないよう、手紙を送りたいのですが」
仕方なかったとはいえ、派手に治癒してしまった。
ラゴンの封鎖が解かれれば、それをきっかけに噂が広まってしまう。
ミランダが問えば、「好きにして構わない」とセトはあっさり許可をしてくれる。
「ファゴル大公国には商業都市がないだろう。後学のため、明日の午前中は、ティールを案内してやる。行きたい場所があれば、事前に言っておけ」
「……意外です」
「なにがだ?」
「祖国では皆一様に、私の挙動を警戒するものですから」
驚いて目を丸くするミランダの様子が可笑しかったのだろう、顔を背けたセトの肩が震えている。
ついに堪えきれなくなり、セトから小さな笑いが漏れた。
以前なら考えられなかった些細な変化が嬉しくて、ミランダの口元も思わず緩む。
「わたしの、妃候補だからな」
大切にしなければと冗談めかして言い添え、セトはミランダの手にあった書類をひょいと取り上げた。
「堅い話はおしまいだ」
「きゃあっ!?」
次の瞬間、横抱きにされ、そのままベッドへと放り投げられる。
ぽすんとベッドが沈み、体勢を立て直す間もなく、グラスが押し付けられた。
「疲れただろう。寝付けの酒でも飲んで、今日はもうゆっくり休め」
行儀は悪いが女子会よろしく並んでベッドに腰を下ろし、セトは押し流すようにして酒を喉に流し込む。
「……慕う者がいると言っていたな」
そういえば初めて会った時に言ったわね、とミランダは疲れた頭で思い出す。
わずかな沈黙の後、セトは選ぶようにして言葉を紡いだ。
「もし皇帝に返り咲けたら、本当にわたしのものにならないか? 男としてお前を愛することはできないが、代わりにファゴル大公国では到底得られない富と自由をやろう」
唐突な申し出。
疲労の溜まった身体へ酒が回り、セトはいつになく饒舌にグラスを傾けた。
「悪評を立てられ、祖国で辛い思いをしているのだろう? 身分の違いで結ばれぬ相手なら、愛人に迎えても構わない。――次代の皇太子が誰の子であっても、わたしはまったく気にしない」
皇族の血が途絶えるのに、後継者が愛人の子でも構わない?
さすがのミランダも理解が追いつかず、セトの次の言葉を待った。
「たとえ皇帝になれたとしても、男のふりをしたまま子を設けるなど……どうあがいても無理な話。お前となら利害が一致する。きっと、良い関係が築けるはずだ」
信頼の代わりに、『利』を。
愛情の代わりに、『自由』を。
そして対価として、――互いに大きな『後ろ盾』を。
告げるなりセトは手元のグラスを煽るように飲み干し、ミランダから視線を逸らした。
「勿論、お前が望むならファゴル大公国を滅ぼしてもいい。三国の同盟などどうせ形だけなのだから――」
なおも話を続けようとしたセトを遮り、ミランダはグラスを大きく傾ける。
ゴッ、ゴッと不躾に喉を鳴らし、高貴な大公女にあるまじき速度で飲み干すと、勢いよくベッドサイドテーブルにグラスを置く。
「貴方と手を携えると言ったはずです」
それからバチン! と大きな音を立て、セトの両頬を手で挟んだ。
身を乗り出した拍子に重心が傾き、ミランダの顔がセトに近づく。
「何を与えられなくても、よ」
ぐ、とセトの眉間に皺が刻まれる。
柔らかな手のひらから伝わる熱と、決して逸れることのない強い眼差し。
セトは頬に添えられた手を外す代わりに、こつんと額をつけた。
「馬鹿だな、お前は」
そのまま数度瞬いて、セトはゆっくり目を閉じる。
――酔いが回ったのか、静かな寝息が聞こえ始めた。
無防備にベッドへ沈み込むその隣で、ミランダもまた身体を横たえる。
びしょ濡れで逃げ回り、洞窟で加護を使い、馬を飛ばしてここまで来たのだ。
疲れていないはずがない。
「……おやすみなさい」
小さく呟いて、ミランダもまた泥のように眠りについたのである――。







