悪いのは誰だったのでしょうか
どくどく、と脈打つ心臓が。
喉ですり合って、音を立て通る空気が。
何度だって教えてくれる。
「私は、生きているんだ」と。
かつてはどうしようもなく不安で、辛くて死にたくて仕方がなかった。
そんな私は、今もまだ生きている。
最近は気にしないようにしていただけで、本当は今だって変わらない。
あの日を境にして。
私が、私である限りきっと変わらない。
屋上で息を調えてから、私はこっそり家路についた。
誰も私の横にいない。
そんな帰り路は、とても久しぶりだった。
いつも誰かがいて当然のような、そんな日々が嘘のように。
でもこれが当たり前なのだ。
普通なら、一人で帰る日があったって可笑しくない。
普通なら、ば。
夕日で何もかも赤く染まる。
商店街、アスファルトの道路、私自身。
全てが赤くて、ほの昏くて。
まるで、誰かが血を流しているみたいで…。
こわくて。
だから、一人じゃだめだと言われるんだけれど。
「…あれ?」
なんとなく、違和感を覚えた。
風景に?音に?空気に?
わからない。でも、どこかがおかしい。
立ち止まり、もう一度おかしいと思ったものを見直す。
…そうだ、商店街のシャッターが軒並み降りている。
私の記憶が正しければ、半分はちゃんとお店をやっていたはず。
経営をしている人が高齢だから曜日は限られていたけれど、でもそれにしたっておかしい。
降りているシャッターの多くは定休日が書かれていない。
それに閉店のお知らせすらない。
そもそも、よく見てみれば人通りがかなり、いやほとんどない。
車がいくらか走っているくらい…。
車には流石に人がいるだろうと運転席みたが、黒い靄のようなものしか見えなかった。
黄昏、とはいってもそんな…本当に…誰だかわからないほど見えないはずがない。
…一体、何が……。
「天音!」
茫然と立ち尽くす私に駆け寄る、瑠佳くん。
その姿が、どう見えたかなんて、関係なかった。
屋上に逃げた時と同じように、全力で走った。
捕まったらどうなるのかと考えただけで怖かった。
あの日もこうやって赤い陽の中、懸命に走った。
息も絶え絶えで、いつ足がもつれるのかわからないほど足を酷使して。
勿論大人の男性にあっさりと捕まったのだけれど。
あの男はとても嗜虐思考があったらしい。
私の足がもつれるか、何かに躓くか、を態々待って手加減して追いかけてきたのだ。
はたしてそれは叶ってしまった。
足元の小石に躓いて転んだ私に見えるように、ゆっくりと金属バットを振り上げた男は。
にんまりと、それはそれは愉しそうに嗤っていた。
「あっ、」
まるで、あの日の再現のようだった。
同じように小石に躓いて。
その私を見下ろす瑠佳くんが、あの男に見えた。
もう、いやだ。
痛いのは、嫌だ。
「…天音、大丈夫だから」
目をぎゅっと閉じる。
怖い、怖い、助けて。
「天音、大丈夫。大丈夫だよ」
温かいものが私の頭に乗って右往左往する。
頭を、撫でられている。
それに驚いて目を開けた。
「るか、くん…?」
「うん、そうだよ。だから大丈夫」
「瑠佳くん…、町が、へんで、人が、なくて」
「うん」
「全部、まっかで、あのひとが、おいかけてきて」
「うん」
「………怖かったっ…」
「そうだな。でも、もう大丈夫だから。膝手当てしようか?」
「……っうん…」
恐怖の余り目に溜まっていた涙がぼろぼろとこぼれていく。
瑠佳くんは私をそっと抱きしめてくれた。
走ったせいで二人とも息が上がっていて、心拍もうるさいほどで。
でもその騒音が、今は、どうにも落ち着かせてくれた。
やたらに走っていたので分からなかったが、なんだか家の近くまで来ていたようだ。
そのまま私の家で膝の手当てをしてもらった。
消毒液がすごく染みたので、膝をよく見てみればかなり大きな裂傷になっていた。
どうりで痛いわけだ。
真っ白なガーゼを当てて手当ては終了。当面はお風呂も染みそうだ。
「痛い?」
頭を縦に振って、肯定。
自分の家なのに彼の方が勝手を知っていそうだ。
なんで救急箱の場所知っているんだろう。
彼は、箱を片付けたあと、冷蔵庫から麦茶を持ってきてくれた。
「ありがとう」と小さく言ったが、聞こえただろうか。
彼の顔色を覗うが、よくわからない。
ごくごく、と音が彼の喉から聞こえる。
それに対して私はちびちびと飲んで喉を潤す。
喉が渇いていないわけじゃない。
なんだか、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「ご、ごめ、ん」
「…っはぁ、何が?」
麦茶を飲みほした瑠佳くんが問う。
私にしてみれば、彼に迷惑ばかりかけてしまっている。
それに対しての謝罪が、意味が伝わっていない。
きょとんと私の言った謝罪の意味が分からないという表情をする。
「だって、私のせいで、瑠佳くん、迷惑だ、ったでしょ?」
「………」
無言で私の顔を見つめる彼に耐えられない。
彼を見て居たはずの両眼は徐々に視点を変えていく。
「別に、迷惑なんて思ってない。けど心配はしてる」
彼をまっすぐ見れない自分がふがいない。
彼は一心に私を見てくれている。
それなのに私はおびえて彼を見つめることもできない。
心臓はさっきから収まることなくどくどくと音を立てている。
「……ごめん。思いだせ、なんていって。できれば忘れてほしい」
声が震えていた。
彼が鼻をすすった音がした。
もしかして、泣いているのだろうか。
そう思っても彼の方を向く勇気がなかった。
目をそらしたまま、続いた彼の言葉を聞いた。
「このまま、ずっと、忘れたままで。それで、いいから」
だから、俺から逃げないでくれ。
涙声の彼の言葉は正直言って聞き取りにくかった。
でも彼の言いたいことはわかった。
彼は自分の言動に責任を感じて居たのだ。
私がわるいのに。
私が勝手に倒れたり、記憶をなくしたりしただけなのに。
彼は、なんにも悪くないのに。
「ちが、う。瑠佳くんは、わるくない」
瑠佳くんに伝えなくては。
確かに何があったか覚えて居ないけれど、それは彼が関係ないこと。
彼の言葉でひどい頭痛を覚えたが、それだって私の記憶障害が問題だったこと。
だから、彼が責任を感じる必要なんてないこと。
悪いのは、貴方じゃない。
つっかえつっかえの言葉が、正しく彼に伝わったかはわからないけれど。
涙を静かに流して泣いていた彼の顔が、くしゃりと歪んだのはわかった。
「そうか」とつぶやいて、また静かに泣いていたのは彼しか知らない。
「おはよう、瑠佳くん」
「…またあんたか」
「すごいご挨拶だね。おはようっていったらおはようって返そうよ」
「あれでよかったのか?」
「彼女の精神安定上、必要なことだよ」
「……嘘付いたみたいな気分だ」
「そうして少年は大人になるんだよ」
「はぁ…」
「ため息は幸せ逃げるから推奨しないよー」
「…で、これからどうするつもりなんだ?」
「そうだなぁ、彼女はこれで当面大丈夫だから、見守るだけだよ」
「いままで通り、か」
「そんな顔しなーい。結局は、さ。彼女の決定次第だから」
「………でも、そうなったら、俺は、どうしたらいいんだ…?」
「さぁね。君も決めなくちゃいけない。それだけだよ」




