掌編小説/狂気のピアノ
素晴らしい音色だった。
あの芳醇な旋律はおそらくプロのものであろう。モネの『睡蓮』のような様々な色彩の光と光が重なった空気の色を表現したかのように、穏やかに引きこむ、あのように滑らかな指の動きを誰がかなでているのだろう。ショパンでもあのようには演奏できまい。
恥ずかしながらこの年になるまで、音楽的な教養というものをもたなかった俺なのだが、その曲がクラッシクであるのか、あるいはオリジナルであるのか、くらいの区別はついた。弾き手が奏でているのは、大半がオリジナルではなかろうか。なんて素敵なのだろう。このような片田舎の町で、かくも天才が潜んでいようとは。
こちらの屋敷である二階・窓辺の安楽椅子にもたれ、あのピアノの虜になった俺は、弾き手とぜひ膝を交えて話をしたいものだ、と考えるようになっていた。
坂道通りには、アルハンブラ宮殿にヒントを得て造られた平屋・スパニッシュ様式の屋敷がある。屋外は、薔薇の垣根やアーチでガーデニングされている。白壁で屋上があり、そこへゆくには外付け階段を上ってゆく。こちらと隣の屋敷を仕切る塀は、南国風に黄色い壁でモダンに波打っている。俺はそこをのぞいてみたのだが、日中訪れると人気はない。そうピアノの音は夜にしか奏でられないのだ。
しかし俺は諦めることができなかった。
その夜は珍しく、オリジナルではなく、いかにもロシア的なゆったりした「韃靼人の踊り」になった。それはそれで素晴らしい。しかし、それがだ、途端に狂った、音楽とはいえないような、滅茶苦茶な破壊された音程に変った。
「どうしたというのだ。なにか心に病があるのか――」
驚いた俺は、塀を乗り越えて、隣の屋敷に駆けだす。扉が開いていた。狂ったようなピアノの戦慄は止まらない。
"Stop it! Stop it!"
不思議の国のアリスみたいな格好をした童女が中から駆けだしてきた。悲鳴をあげたのは彼女だ。中に入り、恐る恐るピアノの置かれたリビングをのぞきこむ。白亜の壁、幾何学文様をあしらったステンドグラス。シャンデリア、暖炉、赤い絨毯。白いピアノを弾いていたのは……。
稲妻が光った。
ガラガラガラ……。
耳をつん裂くような、殺人的なピアノを弾いていたのは隣のマダムだった。
「あらあ、お隣さん? あんまり娘が上手に弾くから、私も弾きたくなっちゃったのよ」
母と娘でこれほどの差が生まれようとは。鳶が鷹を生んだというのはこういうことなのか。
「こらあ、待てえ~、私の芸術を理解しなさいよ~」
やなこった。
逃げる途中で振り返ると、泣き顔の童女と目があった。
気の毒だと思ったね。同情する。
――俺かい? 猫だよ。
END
2013/07/16




